藤田宗一 (投手)
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| 群馬ダイヤモンドペガサス 選手兼任コーチ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市) |
| 生年月日 | 1972年10月17日(39歳) |
| 身長 体重 |
173 cm 78 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1997年 ドラフト3位[1] |
| 初出場 | 1998年4月4日 |
| 最終出場 | 2011年10月22日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| WBC | 2006年[1] |
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この表について
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藤田 宗一(ふじた そういち、1972年10月17日[1] - )は、京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市)出身のプロ野球選手(投手)。
目次 |
[編集] 来歴
中学校までを京都府八幡市で過ごし、長崎県の島原中央高等学校に野球留学した。卒業後は社会人野球・西濃運輸硬式野球部に入部。抑えとして素質が開花し、1996年の社会人野球日本選手権大会ではチームが準優勝し、自身も敢闘賞を受賞した[1]。翌年も都市対抗野球大会でのベスト8入り[1]に貢献している。1997年のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから3位で指名されて入団[1]。
ルーキーイヤーの1998年4月4日の近鉄戦の8回に初登板。4月11日の西武戦で初セーブ、5月4日の西武戦で初勝利を記録。河本育之に次ぎチーム2位の7セーブを挙げる。1999年は65試合登板でリーグ最多試合登板。以後中継ぎを担うことになる。2000年に70試合登板で2年連続最多試合登板。最多ホールドのタイトルを獲得[1]。
2001年にオールスターゲームに初出場した。2005年はロッテの勝利パターン継投「YFK」の一角として31年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。2006年にはWBC日本代表に選ばれ[1]、優勝メンバーとなった。この時の登板記録は3試合 0勝0敗0セーブ 防御率9.00 1投球回 1奪三振 自責点1であった。
2007年5月3日に史上79人目の通算500試合登板を達成。全試合リリーフ登板であり、初登板から500試合連続リリーフ登板は史上初である。6月20日には連続リリーフ登板が512試合連続となり、パ・リーグ新記録となった。同年は31試合に登板したものの防御率12点台と極度の不振で、左打者のワンポイントで登板しては打ち込まれるという試合が続き、肩の故障も相まって二軍落ちも経験した。10月27日に球団から戦力外通告を受ける。
球団からはコーチ就任を要請されるが、あと3試合に迫った日本記録(橋本武広の526試合)もあり現役続行を希望し退団。12球団合同トライアウトには参加せず他球団のオファーを待ち、交渉解禁日の11月7日に読売ジャイアンツが獲得。2008年4月5日の対阪神戦で中継ぎ登板し当時日本記録となる527試合連続救援登板を達成した[2]。以後39試合に出場した。2009年はわずか19試合の登板。翌2010年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、10月29日、球団から2度目の戦力外通告を受ける。現役続行を希望し、古巣・ロッテの入団テストを受け、2回目の合同トライアウトに参加した。
2011年1月24日、福岡ソフトバンクホークスと育成選手として契約[3]。同年3月7日付けで支配下登録された[4]。同年10月22日に古巣の千葉ロッテマリーンズ戦で通算600試合登板を達成。日本シリーズ終了後の11月21日に球団側より来季の契約を結ばないことを通告された[5]。2012年2月7日、ベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスに選手兼任投手コーチ補佐として入団した[6]。
[編集] プレースタイル
主な球種はストレートとスライダー。ほぼこの2球種のみだが、他にカットボール、シュートも投げる。スライダーは「伝家の宝刀」とも言われ、左打者に強い。また牽制、クイックも得意。
[編集] 人物
家族は妻と子供が2男1女。娘はNICE GIRL プロジェクト!研修生の藤田彩加[要出典]。妻と娘は『ピラメキーノ』の1コーナー「おんなごころ!おかあさんといっしょ」(2010年4月28日放送分)に出演したことがある。
社会人時代に肩を壊し、リハビリ生活を余儀なくされた経験が故障しない頑丈な体を作っている。
プロに入って先発登板したことはないため「中継ぎのスペシャリスト」とよく言われる。当時、薮田、藤田から小林に繋ぐリレーは千葉ロッテの“勝利の方程式”であり、一部メディアからは阪神タイガースの勝利の方程式「JFK」を捩ってYFKと呼ばれた。
入団から5年連続で50試合以上に登板した。これは岩瀬仁紀(継続中)の12年連続、秋山登の9年連続に次ぐ3位の記録である。
千葉ロッテ時代は「中継ぎ」という仕事の評価が低い事に不満を持ち、例年契約更改がこじれていた。
2005年10月17日、千葉ロッテが31年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたときに誕生日を迎える。また、同日の試合で勝利投手になった。
2007年5月27日の阪神戦で金本知憲に3球続けて胸元に投げ、結果死球を与えて乱闘騒ぎになった(この試合はそれまでに福浦和也が二死球を受けるなど荒れていた)。ファンから激しい罵声を浴びて、プロ野球に入ってこれが一番恐怖を感じた経験だという。翌日には謝罪し、金本も「こういうのは仕方ない」と言い、2人の間にわだかまりはないと言う。
WBC出場選手としては初めて戦力外通告を受けた選手でもある。それもあり、2007年年末にプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達で取り上げられた。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | ロッテ | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 7 | -- | .600 | 270 | 66.1 | 62 | 3 | 19 | 2 | 1 | 54 | 4 | 1 | 18 | 16 | 2.17 | 1.22 |
| 1999 | 65 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 249 | 61.1 | 57 | 5 | 13 | 1 | 1 | 57 | 0 | 1 | 23 | 22 | 3.23 | 1.14 | |
| 2000 | 70 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 261 | 59.0 | 64 | 9 | 20 | 2 | 1 | 46 | 2 | 0 | 31 | 28 | 4.27 | 1.42 | |
| 2001 | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 132 | 30.2 | 36 | 3 | 6 | 2 | 0 | 24 | 0 | 0 | 17 | 16 | 4.70 | 1.37 | |
| 2002 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 98 | 23.1 | 27 | 3 | 3 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 11 | 10 | 3.86 | 1.29 | |
| 2003 | 28 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 84 | 18.2 | 23 | 3 | 7 | 2 | 2 | 17 | 0 | 0 | 11 | 9 | 4.34 | 1.61 | |
| 2004 | 62 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 200 | 44.0 | 52 | 4 | 20 | 3 | 2 | 35 | 1 | 0 | 25 | 22 | 4.50 | 1.64 | |
| 2005 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 24 | .200 | 154 | 38.2 | 27 | 2 | 13 | 2 | 1 | 31 | 1 | 0 | 12 | 11 | 2.56 | 1.03 | |
| 2006 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | 23 | .571 | 169 | 40.2 | 42 | 1 | 7 | 1 | 2 | 35 | 0 | 0 | 19 | 16 | 3.54 | 1.20 | |
| 2007 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 10 | .333 | 76 | 15.2 | 28 | 2 | 2 | 0 | 1 | 12 | 1 | 0 | 23 | 22 | 12.64 | 1.91 | |
| 2008 | 巨人 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | ---- | 123 | 29.0 | 30 | 2 | 8 | 0 | 1 | 21 | 0 | 0 | 13 | 10 | 3.10 | 1.31 |
| 2009 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | 72 | 17.1 | 20 | 1 | 1 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 5 | 4 | 2.08 | 1.21 | |
| 2011 | ソフトバンク | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | .000 | 45 | 9.1 | 10 | 1 | 5 | 0 | 3 | 8 | 0 | 0 | 10 | 10 | 9.64 | 1.61 |
| 通算:13年 | 600 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 21 | 8 | 77 | .475 | 1933 | 454.0 | 478 | 39 | 124 | 15 | 15 | 366 | 9 | 2 | 218 | 196 | 3.89 | 1.33 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
- 最多ホールド:1回 (2000年)
[編集] 表彰
- 千葉市市民栄誉賞(2006年)
[編集] 記録
- 初記録
- 初登板:1998年4月4日、対近鉄バファローズ1回戦(大阪ドーム)、8回裏無死に3番手で救援登板、1/3回を無失点
- 初セーブ:1998年4月11日、対西武ライオンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 初奪三振:1998年4月21日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、8回裏に吉永幸一郎から
- 初勝利:1998年5月4日、対西武ライオンズ6回戦(西武ドーム)、9回裏無死に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初ホールド:2005年3月30日、対オリックス・バファローズ3回戦(大阪ドーム)、8回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 節目の記録
- 500試合登板:2007年5月3日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に4番手で救援登板、3連打3失点 ※史上79人目
- 600試合登板:2011年10月22日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(QVCマリンフィールド)、5回裏に2番手で救援登板、1安打1四球2失点 ※史上36人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (2001年)
[編集] 背番号
- 12 (1998年 - 2007年)
- 37 (2008年 - 2010年)
- 136 (2011年 - 同年3月6日)
- 63 (2011年3月7日 - 同年シーズン終了時)
[編集] 脚注
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る 『プロ野球カラー名鑑 2008』 ベースボール・マガジン社、 エラー: この日付はリンクしないでください。、14頁。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ^ 2011年に岩瀬仁紀に更新されるまで日本記録
- ^ 育成選手入団のお知らせ - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年1月24日
- ^ 藤田投手とデレオン投手が支配下登録。藤田投手は「嬉しい。一歩進んだ」と活躍を誓う - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年3月7日
- ^ 選手契約について - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年11月21日
- ^ “群馬 コーチ入団のお知らせ”. BCリーグ ( エラー: この日付はリンクしないでください。). エラー: この日付はリンクしないでください。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2012年3月20日 (火) 03:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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