西鉄軍
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| 西鉄軍 | |
| 創設年度 | 1941年 |
|---|---|
| 解散年度 | 1943年 |
| 所属リーグ | |
| 日本野球連盟 | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 特定本拠地なし | |
| 永久欠番 | |
| 不明 | |
| 獲得タイトル | |
| タイトル | |
| なし | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 不明 |
| 運営母体 | 西日本鉄道(解散時) |
| 監督 | 石本秀一(解散時) |
西鉄軍(にしてつぐん)は、1941年から1943年まで存在したプロ野球球団。
目次 |
[編集] 歴史
1941年、翼軍と名古屋金鯱軍(後の中日ドラゴンズとは無関係)が合併して大洋軍(大洋ホエールズ、太陽ロビンス・大陽ロビンスとは無関係)を結成。1942年5月24日には後楽園球場で名古屋軍(現在の中日)と延長28回を戦う延長戦を行なっている。しかし、財政的に不安定であったため、1943年に福岡の鉄道会社西日本鉄道に譲渡され西鉄軍となった。
東京セネタースの創設の中心人物である貴族院議員の有馬頼寧(後に日本中央競馬会理事長になり、GIレースの有馬記念にその名が残っている)は久留米藩主の嫡系であったため、当時の家来筋にあたる石橋正二郎(ブリヂストン社長)や鏡山忠男(白木屋デパート社長)の援助を仰ぎ球団を九州に移したのだった。本拠地は九州だったが、当時はフランチャイズ制執行以前であったため、本拠地に関わらず公式戦は甲子園、西宮、後楽園の3球場を中心に行われ、九州での試合はなかった。同年シーズンオフに解散。
戦後日本野球連盟に復帰願いを出すが、連盟が活動を停止した1944年まで存続していなかったことを理由に復帰を認められなかった。そのため、西日本鉄道は1950年の2リーグ分裂時に西鉄クリッパースとしてパ・リーグに加盟した。
なお、翼軍と名古屋金鯱軍の合併については、名目上は対等合併であり、大洋軍は、翼軍の有馬頼寧と名古屋金鯱軍の大宮伍三郎による共同経営である。しかし、合併によって名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が球団経営から撤退し、有馬と大宮による個人経営となっていることから、元々個人経営だった翼軍による名古屋金鯱軍の吸収合併という解釈が一般的である。
[編集] チームの特徴
投手では野口二郎、近藤貞雄、打者では濃人渉の名前が見うけられる。野口明、黒沢俊夫らが復帰するなど戦後に繋がっていく。
[編集] ユニフォームの変遷
「大洋軍」時代は「大」を模した丸マークの中に「洋」の文字を入れたデザインのものを使用していた。
[編集] チーム成績・記録
- Aクラス・2回(1941年~1942年)
- Bクラス・1回(1943年)
- 最多勝 60勝(1942年)
- 最多敗 39敗(1942年)
- 最多引分 8分(1943年)
- 最高勝率 .606(1942年)
- 最低勝率 .513(1943年)
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 12.5ゲーム(1942年、1943年)
- 最大ゲーム差 15ゲーム(1941年)
- 最多本塁打 18本(1942年)
- 最小本塁打 7本(1943年)
- 最高打率 .198(1943年)
- 最低打率 .189(1941年)
- 最高防御率 1.33(1941年)
- 最低防御率 2.21(1943年)
[編集] 歴代本拠地
当時はフランチャイズ制が導入されていなかったため、本拠地といえる球場は存在しない。


