ランガージュ

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ランガージュ: le langage)とは、言語学者言語哲学者であるフェルディナン・ド・ソシュールが提起した構造言語学の概念の一つ。カタカナ言葉を避けた日本語では言語とだけ記されることも多いが、学術的概念としては言語活動と訳されるのが正しい。言語学のみならず、精神科医・哲学者ジャック・ラカンらを通じて精神分析理論にも広く展開された。

目次

[編集] ソシュールによるランガージュ

ソシュールにおいてランガージュとは言語一般の分節化能力そのものを表す。つまり、個別言語(ラング)の研究とは異なる水準で研究されるべき対象である。

[編集] ラングとランガージュ

ラング(仏:la langue, les langues)は、言語共同体における社会的規約の体系としての言語の側面を指し、これによって分節化の能力は発揮される。逆にいえば、ラングという社会的規約の言語体系がなければ、ランガージュという言語の分節化能力は発揮されないということである。

個人によるその実践であるパロール(仏:la parole)はその結果である。英語訳ではラングを冠詞付きや複数形(: a language, the language, languages)で、ランガージュを冠詞のない単数形(英:language)で訳し分けることがある。

ランガージュの概念を説明するのに、たとえばソシュールは次のような例を出している。

「ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるしであり、人間学的なあるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」。

「人間はたとえば歌う能力をもっている。しかし社会共同体の助けがない限り、彼は曲を一つだって作ることはないだろう」。

[編集] フランス語以外での表記

フランス語圏ではラングとランガージュは明確に区別されるが、英語をふくめ他の言語では、同じ意味に合一されていたりと、ひどく曖昧になっていたりする。たとえば、日本語では両方とも言語という語で表現されてしまうことも多い。その場合は、誤解も招きやすいので注意が必要である。

[編集] ラカンによるランガージュ

ラカンにとってランガージュとは、人間の精神の営みを考えたときに、人間を社会的存在たらしめている基本となる概念である。

[編集] 言語と症状

ソシュールも言うとおり、人間にとって言語のやりとりに支えられない社会というものは存在しない。 言語によらずして、人は社会と出会うことはないのである。
そこでいう言語とは、必ずしも言語学でいう言語に限らず、症状や表情など何かを指し示している(仏:signifiant:シニフィアン)ものすべての象徴が含まれるが、精神科医であったラカンはおおいに精神障害などの症状のことを、当初は念頭においていた。

[編集] 社会と象徴界

ゆえに、私たちにとって社会に住まうことは言語の場に住まうことに等しいのだが、それは必ずしも私たちの能動的な選択ではない。私たちが生まれたときから、世界は言語の場なのである。

私たちが言語を操るという意識を持つ前に、すでに私たちの存在自体が言語の体系の中へ投げ出されており、その体系の構造によって規定されている。ラカンは、人間存在を根本的に規定するこの「言語の場」を象徴界と呼び、そのなかで生じるどのような人間関係も、この言語の場を共通する第三者として受け入れなければならないことから、それを大文字の他者と名づけた。

[編集] シニフィアンの集合としての「大文字の他者」

ラカンはソシュールの構造言語学の成果を取り入れ、社会=言語の場=大文字の他者をシニフィアンの集合として位置づけた。なぜならば、言語学においてシニフィアンは、私たちの使う言語を構成するマテリアルな基本要素であり、いっぽう社会も、お互いの差異によってのみ定義づけられる基本要素だからである。

[編集] シニフィアンの集合と「父の名」

社会=シニフィアンの集合は、自立的な法(掟・文法といってもよい)を持っていて、それによって論理的に構造化されている。ラカンはこの法を父の名(仏:Noms-du-Père)と呼んだ。フロイトのいう、「死せる父」もしくは「殺害された原父」に相応する概念である。
精神病を条件づける(もしくは、精神病を精神病たらしめる)構造的な要因は、「父の名」が主体(仏:Sujet)によって排除されることである」というラカンの解釈は、精神病の理解を大きく前進させた。

大文字の他者が自立的な法=父の名によって支配されているということは、すなわち、社会が個々の主体の自由にはならない欲望をもっている、ということに他ならない。そこに生成する欲望は、どのような個人(たとえ専制君主的なであろうと)の自由にもならない。

[編集] 他者の語らいの場と欲望

むしろ、個人の立ち位置、もしくは個としての人間存在の立脚点が、大文字の他者の欲望によってはじめから規定されているのである。

たとえば、生まれてくる子どもというものは、誕生する前から、家族なり、村落共同体なり、彼の周りにすでに作られている「語らい(langage)」の場へとやってくるだけである。あらかじめ彼に割り当てられている象徴的なトポスへと生まれ出てくるだけである。まずはじめに家族の欲望があって、それが子どもを迎え入れるのである。

こうしてラカンは、いっけん個々の人間の内側から湧き上がってきているかに見える欲望は、じつはつねに他者からやってきていて、いわば外側から人間をとらえているのだ、という構造を明らかにし、そのことを「人の欲望は他者の欲望である」というテーゼとして定式化した。人間の主体的決定は、まさにこの他者に由来する欲望を、いかに自分のものにするか、ということにかかっている。

ラカンによれば、フロイトのいう無意識とは、こうして他者から受け取った欲望を自分のものに作りかえる過程において形成されるものであるとする。そのため、ラカンの思想の後継者たち、すなわちラカン派(Lacanian)では「無意識という他者の語らい」という表現がよくなされる。

[編集] ランガージュと現実界

たとえば資本主義社会には無数の会社があり、会社と会社は契約という掟=法で結びついているように、人間社会は言語活動によって営まれている。私たちが「生きる」とは、その言語活動に飛び込むことにほかならない。まったく言語活動なしに「黙って生きていく」ということは、象徴的な意味では不可能である。たとえ社会から隔絶した森のなかでひとり暮らしたとしても、自分に対して「生きている」ということを意識する労を省くことはできない。

自分や人に向かって「生きている」と示すことなしに、純粋にただ生きている状態は、ラカンのいう「現実」でもある。「生きていることを意識しないで生きる」とは、あたかも乳児が口から母の乳房を離さないままでいられるような、享楽(: jouissance)の満ちた状態である。しかし、やがて乳房は口から離れていく。同じように、「生きている」と意識した瞬間から、「現実」からの乖離が始まる。「現実」と「私(主体)」のあいだに言語活動(=象徴界)が参入するからである。

言い換えれば、言語活動は私たちを「現実」から引き剥がすものであり、もともと私たちがその中に住んでいたはずの「現実」に住み続けることを不可能にするものでもある。それと同時に、言語活動は「現実」を全能的に支配する。なぜならば、言語活動なしには、私たちは「現実」といっさいやりとりできないからである。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月26日 (木) 11:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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