誉 (エンジン)

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交通博物館に展示されていた誉エンジン

(ほまれ、当時の表記は)とは、かつての航空機メーカーである中島飛行機(以下、中島)が第二次世界大戦開始期に開発し、終戦時まで製造した2,000hp級の、航空機用空冷二重星型18気筒エンジンである。

誉という名称は大日本帝国海軍(以下、海軍)で使われ、本エンジンを示す海軍の略記号はNK9であったが、大日本帝国陸軍(以下、陸軍)ではハ45と呼称された(ハは発動機のこと)。設計主任者は中島の中川良一技師(戦後プリンス自動車日産自動車の役員を歴任)。

出力に比してその前面投影面積が小さく、高性能であったことから太平洋戦争後期の陸海軍航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載されたが、その限界的な設計、戦況の悪化による資源の枯渇、アメリカ軍空襲による生産施設の破壊などのために安定した品質を保つことができず、期待された結果を残すことはできなかった。それでも、その潜在能力の高さや搭載機の活躍、エンジンにまつわる逸話のドラマ性から、戦前の最も優れた日本製航空機用エンジンとして語られることが多い。

目次

[編集] 開発経緯

1930年代後半、中島はハ5系(出力約900~1,400hp)、栄(ハ115)(出力約1,000hp)、護(出力約1,800hp)といった2列空冷星型エンジンの開発を手がけていたが、1939年(昭和14年)末に栄のシリンダー数を増やして2,000hp級の次世代エンジンを開発しようという発案が中川良一技師らを中心にして行われた。栄は7シリンダー×2列の14シリンダーエンジンであったが、前列と後列のシリンダーを2つずつ増やして計18シリンダーとし、1シリンダー当り100hp以上を発揮させることでサイズ・重量をそれほど大きくせずに大出力を実現することが可能だと目算されたのである。ただし栄では1シリンダー当り70hp程度しか発揮できていなかったので、クランクシャフト回転数を増やし、吸気系統(ブースト圧、吸気ポート形状等)を改善し、高オクタン価ガソリンオクタン価100のガソリン)を使用してノッキングデトネーションの帰結)を防止することで目標出力に到達させることにした。またシリンダーヘッドの冷却フィン、クランクシャフトとコンロッド軸受、クランクケース等にも性能を限界まで引き出すための設計が企図された。最終的に排気量35.8L、初期目標出力1,800hpという小型・小排気量かつ大馬力の設計案(社内名称BA-11)にまとめられ海軍に提示されたが、海軍内部では賛否含めて大きな反響があり、海軍航空技術廠(通称・空技廠)と共同で官民一体の開発プロジェクトが立ち上げられることとなった。

開発が始められた1940年(昭和15年)はちょうどアメリカとの緊張が高まっていた時期であり、誉開発の成否は将来想定される太平洋戦争の行く末を占うものとして官民の精力的かつ速やかな作業が行われ、過密なスケジュールだったにも拘らずほぼ予定通りに1942年(昭和17年)9月には生産開始までこぎつけることができた。以下に開発過程の概要を時系列で示すが、初期の構想から本格生産開始まで3年以下の期間で成し遂げており、これは当時としても異例と言える速さであった(通常は開発開始から生産まで5年程度を要していた)。

  • 1940年(昭和15年)2月 - 中島社内におけるエンジンの基本構想完了、海軍への構想の提出
  • 1940年9月 - 設計完了、海軍から中島に対する正式試作命令
  • 1941年(昭和16年)2月 - 部品試作完了
  • 1941年3月 - エンジン組立完了
  • 1941年3月末 - 第一次運転(エンジンの初始動)及び性能運転完了
  • 1941年6月 - 公式第一次審査終了
  • 1941年6月末 - 第一次耐久運転終了(エンジンを300時間断続運転させてオーバーホールし、異常がなければ合格とする審査)
  • 1941年8月 - 公式第二次審査終了
  • 1941年11月 - 第一回飛行実験開始
  • 1942年(昭和17年)9月 - 「誉」と命名、生産開始
  • 1942年12月 - 大量生産本格化

[編集] 設計・技術

誉の設計は、ベースとなった栄の設計を引き継ぎコンパクトにまとめられつつ、高出力化に伴って発生する諸問題を解決するためにそれまでにない創意工夫が施された意欲的なものであった。

まずボア(シリンダー直径)×ストロークピストンの移動量)はベースとなった栄と同一の130mm×150mmであり、そのおかげでエンジン直径は栄より30mm大きくなったに過ぎない1,180mmに収まった。一方、シリンダーの前列と後列の中心間距離は栄の150mmに対し少し余裕を持って220mmまで伸ばされたが、これには導風板(バッフルプレート)やシリンダーヘッドの冷却フィンの取り回しを容易にし、冷却空気の流れを良くして後列のシリンダーが冷却不足とならないようにするという配慮があった。前列と後列のシリンダーは正面から見て20度の位相差をもち、前列シリンダーの隙間から後列シリンダーが覗くStaggerという一般的な2列空冷星型エンジンのレイアウトを取っていた。

誉の排気量(35.8L)の小ささは特徴の一つであるが、これは同時期に出現した同等出力の2列空冷星型エンジンと比較するとよくわかる。例えばアメリカの2,000hp級エンジンであるプラット・アンド・ホイットニーR-2800-9の排気量は46Lであったし、ドイツFw190に搭載されて一世を風靡した空冷星型エンジンBMW801でも排気量は41.8Lである。このように当時の出力/排気量比の水準は40hp/L代であったが、そのような中で50hp/Lを狙った誉は極めて野心的なエンジンだったと言える[1]。一般的に小排気量で高出力を実現するにはクランクシャフト回転数とブースト圧(吸気圧)を上昇させなくてはならないが、そのために誉の回転数は栄二一型の2750RPMから3000RPM(誉二一型)に増やされており、ブースト圧も栄より最大+200mmHg程度増加して離昇時には+500mmHg(誉二一型)まで高めていた。

さらに以下に述べる技術的工夫・新設計も導入されて高性能を実現する一助となったが、同時に工程数の増加や部品の過度な精密化を招き、戦時には誉の品質を下げる一因ともなった。

[編集] 冷却フィン

空冷エンジンでは外部の気流によるシリンダー冷却の良し悪しが性能に直接現れるが、中島の戸田康明技師が当時行ったシリンダーヘッドの冷却フィン構造と冷却効率の関係を調べた研究によると、冷却フィンは厚さ1mm・間隔3mm(つまりピッチ4mm)、高さ70mm程度で配置するのが最も効率が良いということであった。しかし、これを実現しようとすると高アスペクト比かつ1mm厚の板状物が密集している構造になり、当時の鋳造技術では製造が難しいと考えられた。

そこで最初期に生産された誉(一一型や一二型)では厚さ約2mm・間隔約4mmの冷却フィンとし、生産方法は栄などと同じ砂型鋳造法とされた。一方、同時期に正田飛行機でも冷却フィンの研究・開発が行われており、同社では植込みひれ方式という独自の鋳造法で薄く間隔の狭いフィン構造の製作に成功していた。植込みひれ方式とは、一枚一枚形状の異なるアルミニウム製の薄いフィン(ひれ)を予め製作しておいてシリンダーヘッドの鋳型にはめ込み、そこに鋳込むことでフィン以外の部分を形成するという方法であった。これが海軍から着目されることになり、誉のシリンダーヘッドの製造法とすることで戸田技師が理想としたフィン構造が実現し、誉二一型から順次採用される運びとなった。この冷却フィンによって通常のフィンを用いる場合よりも10~15度程度シリンダー温度を下げることができたと言われる[2][3]

ただしこの植込みひれ方式は後に打ち切られることになる。植込みひれ方式は上記のようにフィンを鋳型へ植込むため手間がかかり、さらに鋳造中に型枠の取り外しを行わなければならないなど大量生産には向かなかった。そして戦争が進展するとエンジンのさらなる増産が希求されたことから間もなくして妥協的な代替方式に切り替えられることになった。この代替方式として住友金属工業が当時行っていたブルノー方式(ダイキャスト方式と類似、低圧押湯式鋳造法とも)が選ばれ、最終的にピッチ5mm程度の冷却フィンとなった。これにより生産は効率化されたが、植込みひれ方式で実現された高性能は犠牲になったのではないかと推測されている。

[編集] クランクピンとコンロッド軸受

誉のエンジン出力は栄のほぼ2倍になったものの、クランクピン(主コンロッドをはめ込むクランクシャフト側の接合部)の直径は5mmしか拡大されなかった。これはエンジン径と主コンロッドの軸受荷重のトレードオフを勘案した限界的数値であり、軸受にかかる荷重は最大で栄の38%程度まで増大してしまった。このために中島と空技廠では軸受に関する特別チームを作って対策に乗り出すこととした。対策チームではコンロッドやシリンダースカート回りの設計を洗練・精密化し、軸受の厚さを最大限に取ることで剛性の向上に努めた。軸受合金(ケルメット)はの量に対して18%とされ、これを軸受の裏金に鋳込む方法も研究された。さらに軸受の真円度、軸受を主コンロッドにはめ込む際のはめ込み代、クランクピン寸法と表面粗度、クランクピンと主コンロッド軸受間の遊びの大きさといった様々なパラメータが厳密に定められた。また潤滑と冷却を兼ねた鉱物油(エンジンオイル)用の油穴がクランクピンに設けられたが、それは理論と実験により最適な形状と配置が選ばれた。

これらの努力の結果、軸受荷重の大きさの割に試験段階では好成績を収めた。しかし、後述するように戦争に突入すると熟練工の徴集や材料(特に銅)の枯渇により上記の対策を維持することができなくなり、軸受の焼き付きが多発したと言われている。

[編集] クランクケース

エンジンの中央部を覆うクランクケースは軽量化・剛性向上・薄肉化による内部スペースの増大を狙って、従来のジュラルミン(主成分がアルミニウムの合金)の鍛造ではなくクロームモリブデン鋼(スチールの一種)を鍛造して製作された。このスチールクランクケースは日本のエンジンでは初めて採用されるものであった。そのために試作を請け負ってもらえる企業がなかなか見つからず、中島の本拠地であった東京から離れた大阪の住友金属工業をはるばる頼ることとなった。そうして出来上がったケースの厚みは3mm程度となり初期に想定されたよりも少々分厚くなったものの、特別な問題を引き起こすことはなかったと言われる[2]。なお、試作後のケースの量産自体は中島の工場で行われた。

[編集] ノッキング対策

ガソリンエンジンの出力を制限するノッキングへの対策として、もともと誉はオクタン価100のハイオクタンガソリンの使用を想定していた。しかし、インドシナ進駐以降、日米関係の悪化にともない航空機用ガソリンも禁輸され、国産できない100オクタンガソリンや高性能潤滑油が使用できなくなってしまった。結局大戦の全期間を通じてオクタン価87~91のガソリンしか使用できず、ハイオクタンガソリン向けの設計は不調の一因として裏目に出てしまう。

なお低オクタン価ガソリンでのノッキング対策として、誉には水とメタノールの混合液を吸気経路内に噴射(一二型以降は過給機の翼車内から噴射)して吸気温度を下げる水メタノール噴射装置が当初から搭載できるようになっていた[4]。また、低オクタン価燃料で運転した場合の異常高温対策として点火プラグの熱価の向上(プラグの放熱を促進することによる早期着火の防止)、燃料分布の改善なども順次行われていった。

[編集] 運用・評価

誉(ハ45)を搭載し、戦後にアメリカ軍から日本の最優秀戦闘機と評された四式戦闘機。この写真の機体のエンジンは戦後しばらくまで残った稼動する誉として唯一のものであったが、静態展示時の部品の劣化・散逸により運転不能となってしまった(現在は知覧特攻平和会館に保存)。
誉が快調ならば600km/h以上の速度で飛ぶことができた彩雲

[編集] 搭載機の活躍

誉の高性能に注目した軍部は直ちに当時開発中の主要軍用機への搭載を決定した。以下に誉(ハ45)が搭載された機体を挙げる。

海軍

陸軍

この内、紫電改と四式戦闘機は大戦後半にアメリカ軍戦闘機と対等に渡り合うことができた数少ない日本製戦闘機であった。また偵察機である彩雲は当時実用化された日本製軍用機の中では最速の部類に属し、最高速度が600km/h以上とされるアメリカ海軍の艦上戦闘機F6Fを振り切ったという逸話も残している。

[編集] 不具合の発生

初期に生産された誉が所望の高性能を示す一方で、戦争が進展するとその限界に挑み過ぎた設計からいくつかの不具合が報告されるようになった。また、当時の日本製エンジンに一般的だった軸受合金や点火プラグに起因する不具合にも例外なく襲われていた。

まず100オクタンガソリンを使用できなくなったことで当初予定した出力を発揮しにくくなり、さらにシリンダー温度の異常上昇が報告されるようになった。これを受けて軍部ではエンジン回転数とブースト圧に対して制限を課せるようにした[5]。また既述の水メタノール噴射装置の積極的な利用も行われるようになった(ただし噴射された水メタノールが各シリンダーに均一に分配されず特定のシリンダーにノッキングを頻発させることもあったようで、それが起こってしまうと点火プラグが焼損してかえってエンジンの不調をもたらした)。

また当初懸念されたコンロッド軸受の過荷重による故障も起こり始めた。これに対して、軸受材表面の鉛メッキ、クランクピンの研磨(ポリッシュ)による仕上げ粗度の向上、クランクシャフトの変形に合わせて軸受の形状を微妙に変える等の対策を施し、一応の解決を見ることができた[2]。またプロペラ減速機の軸受も焼損を起こし、その鉛の比率を20%から30%にするという処置を行って解決を図った(なおこの軸受合金の鉛の比率(30%)が生産現場に間違って15%と伝えられており、四式戦闘機の試作機で焼き付きを起こしたという事件もあった[2])。しかし、銅を始めとする金属の使用制限は軸受全般の不具合を頻発させ、中島ではその対策に最後まで煩わされたようである[3]

生産が始まってしばらくした頃、誉を搭載した試作機でエンジンの出力が公称値を大きく下回っていると指摘されたことがあった。中島で調査したところ吸排気ポートや吸気系通路の鋳物が型崩れを起こし、出力低下の主因となっていることが発見された。そこで鋳型を見直し、改善を図ったところ出力が回復したと言われる[2](ただし生産資源がより致命的な状態になった大戦後半に再発しなかったかどうかまでは言及されていない)。

また天雷の試験飛行ではある高度以上になると油圧の低下が発生することがあり、中島社内では緊急に原因追究が行われた。誉では2速過給機の湿式多板式ディスククラッチで発生するスラッジ(油溜り)の除去対策や過荷重を受けるクランクシャフト回りに対する潤滑対策で潤滑油の循環量が増加していたため、ポンプ容量もそれに伴って増大されていたのだが、調査の結果、油パイプ径やポンプ入り口の口金がポンプ圧力に対して小さく、パイプが長過ぎたことで内部に真空部分が生じ、それが一定の気圧以下でポンプの吸い込みを阻害していることが判明した。それを念頭に置いて潤滑系を見直すことで高度上昇による油圧低下は解決された[2]

この他、ピストンリング、バルブカム、バルブスプリング、発電機などの部品についても負荷の増大に対応したものが確保できない場合があり、耐久不足で破損するといった問題が報告されている。また、狭小なスペースに電気配線を取り回したためにエンジンの発熱でその被覆が焼けて絶縁不良になるというようなトラブルもあり、整備員泣かせであったと言われる。なお誉では各部の高負荷のために比較的多量の潤滑油を必要としていたが、燃料と同様に潤滑油の品質が悪化したこともエンジン性能を下げていた可能性がある。

[編集] 品質低下とその影響

ソロモン海戦以降の大消耗戦及び前線からの日本軍の相次ぐ敗退により資源不足も深刻化した。代用材料の使用や部品製作の簡略化が図られたものの、それらがなかなか実らずに品質の悪い製品があふれることになってしまった(しかもそれは生産現場の混乱を招くという弊害をもたらした)。さらに熟練作業者が徴兵されて生産の主体が未熟練労働者になってしまったこと、及びアメリカ軍の空襲により生産施設が破壊されたことも品質の悪化に拍車をかけた。

こうして本来の性能を発揮できない誉が数多く出荷され、結果的に搭載機の性能不足や稼働率低下を引き起こすこととなった。稼働率低下の一例をあげると、1945年(昭和20年)7月の松山基地の偵察部隊では保有していた彩雲16機のうち作戦可能機はわずか2機に過ぎず、1機は故障、残りの13機のうち8機までがエンジンの調整・整備に追われるという有様であった。また、ある部隊では油漏れが止まらず予備のパッキンを使い切ってしまったが、実はパッキンがすべて規格外であったという品質管理の不徹底を示すようなトラブルも起こっていた。

当時、零戦の後継機として開発中であった烈風の主任設計者である堀越二郎技師は同機のエンジンとして誉を搭載することに反対していたが、それはエンジン品質の低下による性能の額面割れを危惧したからだと本人が証言している[6]。実際に誉を搭載した烈風の試作機は大幅な性能不足で、三菱内でエンジン出力を測定したところ1,300hp/6,000m程度(地上計測による換算値、なお海軍の保証値は1,700hp/6,000m)しかなく、さらに同時期に製造された誉搭載機の速度・上昇率を調べたところ公称値よりも低下しており、いずれも烈風の試験結果に対応していたと報告されている[7](なおこれに対し、中川技師は烈風の試験が行われたのは前述した吸気系の鋳物の改善前でエンジン出力が最も低下していた時期ではなかったかと述懐している[2])。

[編集] 総評

大戦末期の日本軍は多くの航空機に誉を搭載していたことから終戦まで生産が続けられ、良きにつけ悪しきにつけ、当時の日本を象徴するような航空機エンジンである。その潜在的高性能から「日本の航空技術が生んだ奇跡の名エンジン」という評価がある一方で、「国情を無視して技術の理想に走り、結果として役に立たなかった欠陥エンジン」という相反する評価がなされている。戦後にハイオクタンガソリンと高品質潤滑油を使用して誉を調査したアメリカ軍は「遅すぎた名エンジン(Nice engine too late)」との評価を与えている。

[編集] 生産台数

  • 1943年(昭和18年):約200基
  • 1944年(昭和19年):5400基
  • 1945年(昭和20年):3150基

[編集] 派生型

誉の各型を試作・計画のみのものを含めて以下に列挙する。()内は陸海軍統合名称、あれば海軍略記号の順に記載している。なおハ45は誉の陸軍向けであるが、仕様や補機類は必ずしも海軍の誉と同一であるわけではない[3][5]

誉一一型(ハ45-11、NK9B)
初期生産型。まだ冷却フィンが植込みひれ方式ではなく砂型鋳造方式で製作されていた。また、水メタノール噴射装置の噴射位置がスロットルの直前(キャブレター内)であった。四式戦闘機の初期生産型に搭載されたハ45特もこの一一型とほぼ同等の仕様であるとされる。
誉一二型(ハ45-12)
一一型の過給機の減速比を変更し性能向上を図った型。水メタノール噴射位置が過給機翼車内に移された。銀河と流星に搭載された。
誉二一型(ハ45-21、NK9H)
回転数・ブースト圧を上げて出力を向上させた型。この型より冷却フィンは植込みひれ方式を採用するようになった(後期生産のものはブルノー方式)。紫電、紫電改、彩雲、四式戦闘機といった実用機に搭載された最多量産型である。
誉二二型(ハ45-22、NK9K)
二一型のプロペラ減速比を変更し、強制冷却ファンを装備した型。彩雲の試作機などに搭載された。
誉二三型(ハ45-23、NK9H-S)
二一型に中島式低圧燃料噴射方式(シリンダー内への直接噴射ではなく、キャブレターの代わりに吸入管内へ燃料を噴射する方式)を採用した型。紫電三二型に搭載されて試験中に終戦を迎える。
誉二四型(ハ45-24、NK9K-S)
二三型と同じく二二型に低圧燃料噴射装置を搭載した型。
誉二四ル型(ハ45-24ル、NK9K-L)
二四型に排気タービン過給機を追加した型。試製彩雲改に搭載されて試験が行われていた。
誉二五型(ハ45-25)
過荷重に対応してクランクシャフトの形状を改善した型。試験中に終戦を迎える。
誉二六型(ハ45-26)
プロペラ減速機構にVDM方式を採用した型。試作のみ。
誉三一型(ハ45-31、NK9K-O)
二一型に強制冷却ファンを追加し、さらに高回転・高ブースト化して出力向上(離昇2,200hp)を狙った型。計画段階で中止された。
誉四一型(ハ45-41、NK9A)
過給機を2段3速のものに変更し、強制冷却ファンとインタークーラーを設けた型。試作のみ。
誉四二型(ハ45-42、NK9A-O)
四一型の出力向上型(離昇2,200hp)。試作のみ。
誉四四型(ハ45-44)
四一型と同じく2段3速の過給機を備えるが、インタークーラーを省き出力を控えめ(離昇1,810hp)にした型。試験中に終戦を迎える。
誉五二型(ハ45-52、NK9L)
排気タービン過給機、燃料直接噴射装置、強制冷却ファンを装備した型。
誉六一型(ハ45-61、NK9M)
推進式の機体向けに延長軸と強制冷却ファンを装備した型。
ハ145(ハ45-43)
2段3速過給機を備えた四〇番台に相当する陸軍仕様の型。二式単座戦闘機三型に搭載され試験が行われていた。
ハ245(ハ45-51)
高高度性能の向上を図ったとされる陸軍向けの型。

[編集] 諸元

※使用単位についてはWikipedia:ウィキプロジェクト 航空/物理単位も参照

[編集] 誉一一型(ハ45-11)

  • タイプ:空冷星型複列18気筒(9気筒×2列)
  • ボア×ストローク:130 mm × 150 mm
  • 排気量:35.8 L
  • 全長:1,690 mm
  • 直径:1,180 mm
  • 乾燥重量:830 kg
  • 圧縮比:7.0
  • バルブ挟み角:75度
  • 過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
  • 水メタノール噴射装置付き
  • 離昇出力:1,800HP/2,900RPM/ +400mmHgブースト
  • 公称出力: 
    • 一速全開 1,650HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度2,000m)
    • 二速全開 1,460HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度5,700m)

[編集] 誉二一型(ハ45-21)

  • 離昇出力:2,000HP/3,000RPM/ +500mmHgブースト
  • 公称出力: 
    • 一速全開 1,860HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度1,750m)
    • 二速全開 1,620HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度6,100m)

[編集] 現存する誉

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

誉搭載機にはオリジナルのエンジン付きで現存しているものもある。またエンジン部分のみの保存例もいくつか存在する。以下にそれらを保存施設ごとに紹介する。

[編集] 国内

南レクに現存する紫電改。実物の誉が装着されている。
  • 河口湖自動車博物館[1]
銀河に搭載されていた誉と四式戦闘機に搭載されていたハ45のエンジン部分のみが展示されている。8月のみの公開。
1945年(昭和20年)にフィリピン鹵獲され1970年代まで飛行可能だった四式戦闘機が展示されている。長らく嵐山美術館に展示されていたもので、誉は機体に装着されている。
愛媛県宇和海沖に沈んでいた紫電改を補修・再塗装して展示している。誉は機体に装着されている。


[編集] 国外

ロンドン・サイエンス・ミュージアムの誉エンジン
レストアされた紫電改が展示されている。
レストアされた紫電改が展示されている。
レストアされた紫電改が展示されており、付属のポール E. ガーバー復元保存施設には少数の誉搭載機が収蔵されている。
エンジン部分のみが展示されている。

[編集] 脚注

  1. ^ スリーブバルブを採用してエンジン回転数を極限まで高めた水平対向エンジンであるネイピア・アンド・サンセイバーなどはこの上の水準(80hp/L代)を達成したが、そのようなものは例外的である。
  2. ^ 中川良一・水谷総太郎『中島飛行機エンジン史 若い技術者集団の活躍』(酣灯社、1987年増補新装版) ISBN 4-87357-011-5
  3. ^ A.T.I.G. REPORT No.45 1945年 - サイト『WWII Aircraft Performance』内よりリンク。終戦直後のレポートのため正確性を欠く箇所もあるが、当時の状況がよくまとめられている。
  4. ^ 水メタノール噴射装置は吸気を冷却してシリンダー内に入る混合気の量を増やす(体積効率を上げる)とともに異常高温によるノッキングを防ぐという効果があるため、低オクタン価ガソリンしか使用できなかった当時の日本やドイツで多用された。
  5. ^ 世界の傑作機 No.124 強風、紫電、紫電改』(文林堂、2008年) ISBN 978-4-89319-158-8
    胃袋豊彦「薄幸の名機「誉」エンジン概説」 p86~p89
  6. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』(朝日ソノラマ、1997年) ISBN 4-257-79028-8 第4部 名機にも強敵続出 第3章 あとを継ぐもの 3 零戦の再来・烈風 p447~p448、またp460~p464
  7. ^ 野沢正 編著『日本航空機総集 第1巻 三菱篇』(出版協同社、1981年改訂新版) p210~p216

[編集] 関連項目

  • ハ43 - 三菱重工業が誉に対抗して開発した小型・大出力エンジン。
  • ハ44 - 中島が誉の後に開発した2,500hp級2列18シリンダー空冷星型エンジン。

[編集] 参考文献

社団法人日本機械学会『日本機械学會誌』第85巻 第759号 1982年2月 ISSN 0021-4728 p214~p220
  • 前間孝則『富嶽 米本土を爆撃せよ』上(講談社文庫、1995年) ISBN 4-06-185912-9
第三章 奇蹟のエンジン――「誉」 p191~p246
  • 前間孝則『マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ』上(講談社文庫、1996年) ISBN 4-06-263176-8
第二章 奇蹟のエンジン「誉」の運命、第三章 「誉」の限界 p95~p222
  • 前間孝則『悲劇の発動機「誉」 天才設計者中川良一の苦闘』(草思社、2007年) ISBN 978-4-7942-1513-0
  • 日本航空学術史編集委員会 編『日本航空学術史 1910-1945』(日本航空学術史編集委員会、1990年)
第4章 戦時中の航空機の整備取扱いの状況について(奥平祿郎)
ウィキメディア・コモンズ

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