豊田泰光
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 茨城県久慈郡大子町 |
| 生年月日 | 1935年2月12日(74歳) |
| 身長 体重 |
176cm 82kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 遊撃手 |
| プロ入り | 1953年 |
| 初出場 | 1953年 |
| 最終出場 | 1969年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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助監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 2006年 |
| 選出方法 | 特別表彰 |
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この表について
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豊田 泰光(とよだ やすみつ、 1935年2月12日 - )は、茨城県久慈郡大子町出身[1]の元プロ野球選手、野球解説者。
現役時代は豪快なバッティングで、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者をつとめている。2006年に野球殿堂入り。
目次 |
[編集] 来歴・人物
3歳の時に日立市へ移住し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため[2]母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった[3]。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきた道具で野球をやった事が、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった[4]。高校は茨城県立水戸商業高等学校に進み、同校3年生だった1952年の夏に第34回全国高等学校野球選手権大会に出場して2回戦進出(ベスト16)の成績を残した。
1953年、高校を卒業した豊田は西鉄に入団し、遊撃手のレギュラーとなり、三原脩監督の卓抜した選手起用により、強打の2番打者として活躍した。同年には新人王を獲得し、この時に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった[5]。プロ2年目の1954年には初のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝を成し遂げ、続く1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをパ・リーグ2度目の優勝に導いた後、1956年の日本シリーズではセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝の読売ジャイアンツを下して初の日本一となり、最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。その後も豊田は流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、日本シリーズには1957年と1958年に3年連続で出場し、チームは3連覇を達成し、豊田も1957年には優秀選手賞、1958年には表彰はなかったが同年のシリーズで最多の4本塁打を打った。西鉄はその後1959年のシーズン後に三原の退団や大下弘の引退が起こり、中西太は深刻な負傷で試合出場機会が激減したために優勝から遠ざかったが、豊田は安定した成績を残してリーグを代表する遊撃手となった。
1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、その年のオフに国鉄スワローズ(1965年5月10日からサンケイスワローズ、1966年からサンケイアトムズ、1969年からアトムズ)へトレードされた(詳細は下記参照)。移籍後は脚力が衰え、主に一塁手、あるいは代打として活躍した。1968年からは打撃コーチを兼任し、17年間の現役生活の末に1969年シーズン終了後に引退した。
現役引退後はニッポン放送などで解説者となった後、1972年に近鉄バファローズで1年間コーチを務めたが、1973年以降は評論活動に戻り、以後30年以上にわたって野球評論を続けている。
[編集] エピソード
[編集] 西鉄時代
- 豊田がプロ入りした1950年代当時の野球では、遊撃手は打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバントか進塁打で走者を進めること重要、という評価が常識として通用していた。その点で、年間で45失策(ライバルだった南海の遊撃手で「百万ドルの内野陣」と称された32歳の木塚忠助は同年に20失策)という守備の拙さを暴露しながらも三原に起用され続け、新人王を獲得した豊田のプレースタイルは当時としては異質であった[6]。ただし豊田の盗塁数は多く、「俊足」という点では他の2番打者との共通性を持っていた。
- 西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことでも知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が黒地に白のNLマークに変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間(1960年・1961年)を除き、親会社西日本鉄道が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。
- 白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャー・常務を務めた藤本哲男が1979年に福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。
- 豊田が監修した2008年のライオンズ・クラシックでは、1954年から1959年に使用された西鉄のユニフォームが復刻・使用された。帽子も黒地に白のNLマークの物がそのまま使われ、一般ファンにも販売された。
- 6(遊撃手) - 4(二塁手) - 3(一塁手)のダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修→中西太)は普段と異なる点が1つあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっている。ところが仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」というので、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は、二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6 - 4 - 3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。
- 稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長で3学年年上だった豊田から「西鉄に入る?運転手になるなら本社(親会社の西日本鉄道)へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。
- 1956年に首位打者を獲得しているが、このときチームメイトの中西とは僅差であった。最終戦を前に中西は打点・ホームランの2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。ちなみにこの試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。
- 1958年のオフ、1月には歌謡曲「男のいる街」を発売した。同曲は豊田の公式ホームページで試聴可能となっていて、豊田は「(日本の)スポーツ選手のレコーディング第1号」と述べている。
- 3連敗のあと1勝を返して迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、2-3とリードされた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打で出塁。3番の豊田に打順が回り、強打か送りバントかの判断を迫られたが、ベンチの三原を見ても「お前に任せる」と言わんばかりの知らん顔だった。結局豊田は自分の判断で送りバントをしたが、西鉄のナインはこのシリーズ最も当たっていた豊田が送るとは思わず、ベンチに帰ったら「なぜ打たなかった」と袋叩きに遭ったという。一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では「どんな神様でもいいです。お願いですから関口さんに打たせてください」と祈っていたという。関口は中前にはじき返し、土壇場で同点に追いついた西鉄は息を吹き返し、この試合稲尾の本塁打でサヨナラ勝ち、結局3連敗4連勝でシリーズも制覇した。
- 内野フライを打ち上げた時に、走塁の途中で「俺が捕る」と言い、守備側の選手を混乱させエラーを誘った。そのエラーをした選手が引退後に審判になり、豊田は「以前に自分がした事を恨んでいて、追い込まれてからきわどいコースをストライクとして取られたらたまらない」と思い、その審判が豊田が出場する試合で主審を務める場合は早めのカウントで打つようになった。
[編集] 移籍
- 1962年限りで西鉄を退団して国鉄に移籍した。なお、豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである(後述)。
- 西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎監督が辞任すると、西鉄は「監督:中西・助監督:豊田・投手コーチ:稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも当時20歳代で選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展した。
- ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、現在では「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩に戻っている。
- 国鉄入りした原因として、当時国鉄のコーチに高校の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。豊田は茨城県立水戸商業高等学校時代当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。
- また、当初西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。
- 西鉄は豊田放出の見返りとして金田正一投手または村田元一投手のいずれかを望んだものの、結局トレードマネーで解決し、得た資金でウイルソン・ロイ・バーマの3外国人選手(いずれも野手)を獲得。1963年の優勝にこの3人が大きく貢献することになる。
- 国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。
[編集] 国鉄・サンケイ・アトムズ時代
- 1968年に2試合連続で代打サヨナラ本塁打の離れ業を見せている(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも中日ドラゴンズの山中巽だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。
- 1969年限りで現役を引退したいきさつは、当時小学生だった息子の一言が引き金となっている。「あんたの子供がけんかで相手に怪我を負わせた」という小学校からの通知。それが来た夜豊田は「何で怪我を負わせたんだ?!」と問い詰めると息子は「『お前んとこの父親は役立たず。役立たず』とはやしたてられ、カッとなってボコボコにした」と答えた。これを知った豊田は「もう、引退しないといかんなぁ」と決意したといわれている。
[編集] 引退後
- 野球評論家としては、球界の様々な問題点に切り込んだ辛口な批評で賛否両論がある。週刊ベースボールに持つ連載コラム「豊田泰光のオレが許さん!」は、1993年開始から現在に至るまで通算700回以上続いており、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」の連載を続けている。
- 引退と同じ頃、古巣の西鉄が黒い霧事件に巻き込まれて池永正明が「報告を怠った」という理由だけで永久追放になってしまった事に疑問を感じ、後に復権運動を行い復権を勝ち取った。この事でわかる様に球界関係者の不祥事には厳罰であたれという風潮を嫌う。そのため球界関係者では数少ない「万民平等主義者」である。その事情から永六輔と親交がある。
- 通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の結成を提唱したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった[8]。
- 1994年に発足した日本プロ野球OBクラブには当初から参加(2000年までは副会長・技術委員長も任務)しており、1997年茨城県稲敷郡桜川村(現:稲敷市)でホームグラウンド(桜川村総合運動公園野球場〔現:稲敷市桜川総合運動公園野球場〕 - 茨城ゴールデンゴールズのホームでもある)が完成した際のイベントにも登場していたが、運営方針をめぐって大沢啓二等他の役員と意見が対立し、現在は批判的な立場をとっている。
- 1978年の日本シリーズで審判のホームラン判定を不満とした阪急の上田利治監督が抗議し、1時間19分の中断事件が発生していた第7戦ではテレビ中継の解説を務めていた。その際に豊田は「審判がホームランといえばホームランです」と発言している。
- 1982年にロッテの落合博満が打率.325、32本塁打、99打点という成績で三冠王を獲得した際、雑誌のコラムで「こんな低レベルの数字で三冠王を達成しても三冠王とは認めない」と発言した。これに対して落合は「三冠王になったこともないような人に言われる筋合いはない」と言い返してしばらくの間両者の仲に確執が生じていたが、1985年に落合が打率.367、52本塁打、146打点という成績で三冠王を獲得すると、落合に詫び落合夫妻をハワイ旅行に招待した。
- 1980年代後半頃から1997年頃まで焼酎「大五郎」のテレビCMに出演していた(その後、1998年〜2000年に今井雅之が出演)。
- 1990年代初めはテレビ東京のスポーツ番組「スポーツTODAY」(月曜日のコーナー「月曜スポーツ討論会」)にて青田昇、有本義明、ダンカンらとともにプロ野球に関して侃々諤々の議論をしていた。月曜スポーツ討論会の最終回(このとき豊田がフジテレビ解説に復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の「剛球唸る!―栄光と熱投の球譜」であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。
- 1998年のヤクルト対巨人のテレビ中継でヤクルトの野村克也監督の野球の素晴らしさを引き合いに出し長嶋茂雄の監督能力、不可解な選手起用、さらに無能さを批判した。テレビの公共電波で長嶋批判を行った人物は過去にも水原茂らがいるが、テレビ局には抗議の電話が殺到し、「長嶋信者」として知られる徳光和夫の怒りにも触れた。
- 西鉄の後身である埼玉西武ライオンズについては愛着と批判が交錯しながらも密接な関係が長く続いている。
- 文化放送ライオンズナイターには1982年の開始当初からレギュラー解説者として出演し、当時は異例だった「一方的身びいき放送」の解説者として西武ライオンズ(当時)を応援した。
- しかし、西武球団が長年にわたって自らを1978年末の設立(球団買収)による新球団と見なし、前身の福岡時代の記録を無視し、当時の在籍選手を球団OBとして認めなかった事には不満を持ち、元選手には行き場がないとしてその対応を批判していた。
- 2007年、稲尾和久の訃報に対して「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」とコメントした。
- 翌2008年に西鉄の後身である埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズの復刻版ユニフォームを着けて公式戦を行い、日本シリーズ3連覇や稲尾の活躍を含めた福岡時代の歴史を各種企画で紹介する『ライオンズ・クラシック』が行われると豊田はエグゼクティブ・アドバイザーに就任して監修に務め、その初戦となった同年6月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦では西鉄時代のユニフォーム姿で始球式のマウンドを務めた。試合後は「この風景を稲尾に見せたかった」と語り、『ライオンズ・クラシック』企画が終了した際にも「こんなにうれしい日々はなかった。これから西武を応援していきます」と感極まった様子で場内の観客にあいさつした。
- 文化放送ライオンズナイターの近鉄対西武戦の中継(藤井寺球場)で、一度だけ試合の実況をしたことがある。その後、2009年のスペシャルウィークの目玉として、解説を務めた。
- 「打球音・ミットにボールが収まる音が聞こえてこそ野球だ」と球場での鳴り物応援を真っ向から否定しており、開幕戦などでのセレモニーの大音響を合わせ「球場騒音」と週刊ベースボールの自身のコラムでたびたび批判している。ただし、鳴り物応援についてはファン側からの反論も出ている(詳しくは鳴り物応援#鳴り物応援の賛否の項を参照されたい)。
- かつてはパリーグの指名打者制度についても、打つだけの選手が活躍してしまうことや「投手の打力の意外性」や「投手交代の妙」という野球の魅力を捨てる制度だからという理由で否定的であった。しかし、最近は大ベテランの山崎武司や、メジャーリーグにおいても膝に故障を抱える松井秀喜が指名打者で活躍していることや、ダルビッシュ有、涌井秀章、杉内俊哉、田中将大といったパ・リーグの「先発完投型」の投手が、自らの投球に集中して活躍していることを理由に賛成の立場に変わっている。
- 王貞治、長嶋茂雄、稲尾和久の三人について、「この三人は監督のような、つまらないいざこざに巻き込ませるようなことをせず、憧れの存在のまま御三家として祭るべきだった」と監督就任を惜しんでいる。王は巨人時代は解任騒動、ダイエー時代は生卵事件や身売り騒動に遭い、長嶋は一度目の監督時はいきなりの最下位転落と解雇、二度目はFA選手の乱獲や処遇でその手法を疑問視され、稲尾は黒い霧事件、西鉄ライオンズの身売りに巻き込まれた。
- 豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しない。その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)お別れするようにしているんです」と、週刊ベースボールのコラムに書いていた。ただし、親交の深い野球ジャーナリストの田村大五の葬儀には参加し弔辞も読んだ。
- 自身が九州の球団である西鉄ライオンズにいたためか、2000年代週刊ベースボールのコラムでは同じ九州の球団である福岡ソフトバンクホークスに関する批評が多い。2007年の開幕戦を見て、「斉藤和巳の体重移動ができておらず、故障だったら非常に厄介だ」、「小久保裕紀、松中信彦のプレーの随所に老化が見られる」と書いた。またソフトバンク関連のその他の発言で、福岡ドームの応援団を「ドンプカ団」と揶揄し、「あれを見たら野球が嫌になる」、2008年の試合を見て「ソフトバンクの貧打は情けない。一人ひとりが調子の良し悪しを考えず、いつも同じようにバットを振っているだけ」などがある。
- 西鉄時代の監督だった三原を“恩師”として今でも尊敬しており、自身の連載コラムや著書で「三原さんをプロ野球のコミッショナーにすべきだった」と今でも時折語っている。また、現在の評論家活動も西鉄時代に三原から「合宿先でも空いてる時間は漫画や雑誌ではなく、本を読め」とずっと言われて来て、豊田自身もその忠告を素直に受け入れたから今の評論家活動があると連載コラムや自筆の著書でもたびたび語っている。一方で、名指しこそは避けてるが、ある特定のプロ野球出身である解説者がテレビやラジオでの解説においてたびたび繰り返す間違った日本語(逆接の意味でもないのに「いや」を乱発する返答)などには「周囲の人間は誰も注意しないのか?」や「中継を見たり聞いたりしている子供がそのまま真似したら悪影響だ」などと厳しく批判している。
- 活発なコラム執筆を続ける中で、豊田の活動はプロ野球以外の領域にも広がる場合がある。
- 2009年11月5日の日本シリーズで解説を務めた。その際、「パリーグについては疎い」実況から日本シリーズの活躍について指摘されると、「チームはリーグ優勝するために頑張っているんですよ。日本シリーズなんておまけ」と発言した。
[編集] プレーオフ批判
- 2004年にパ・リーグがリーグチャンピオンシップ(=変則トーナメント方式のプレーオフ)を導入した際リーグ優勝の価値が暴落するとの理由から、以降は徹底的なプレーオフ批判論者となっている。2007年にセントラル・リーグも導入すると発表された際も同様の理由で批判していた。
- 2005年、福岡ソフトバンクホークスがシーズン1位で投打ともに千葉ロッテマリーンズを上回ったにもかかわらず、プレーオフでロッテに敗れ、シーズン2位の扱いを受けたこと、さらに日本シリーズの相手である阪神タイガースが、パリーグのプレーオフ終了まで実戦から遠ざかった(この年セリーグはプレーオフなしの従来のペナントレース形式だった)ことから、らしくない凡プレーが相次ぎあっけなく敗戦したことを、シリーズ直後に週刊ベースボールの自身のコラムで、プレーオフの責任とした。そして、「ソフトバンクと阪神のファンの数を足すと、プロ野球ファンの過半数近くになり、これほど多くのファンに、日本プロ野球は馬鹿じゃないか、と思わせてしまった。これは痛いですよ」と批評した。
- また2006年10月7日付けの朝日新聞コラムで「パ・リーグが導入を決めた際渡邉恒雄(現:読売ジャイアンツ会長、導入当時はオーナー)さんが「冗談じゃない」と反対しておられていたがセ・リーグが導入を決めた際反対しなかったのは巨人が弱くなった証拠なのかねぇ……」と巨人までが賛成する現実にあきれた趣旨の文章を載せている。
- 豊田が批判しているプレーオフであるが、2006年のプレーオフ第2ステージ日本ハム対ソフトバンク第2戦、9回裏に二死一、二塁で稲葉篤紀のセンターに抜けそうな打球をセカンド仲澤忠厚が好捕したものの、ショート川﨑宗則への送球が逸れて二塁セーフ。その間に二塁ランナーの森本稀哲が一気に生還し日本ハムがサヨナラ勝ちし、リーグ優勝が決まった。このプレーに対して「あの場面では誰も責められない。二塁ランナーの森本がよく走った」、「川﨑がランナーを全く警戒しておらず、二塁塁審へのアピールの前に本塁へ送球するべきだった」との声がある中、豊田だけは自らの経験から仲澤を批判、「あの場面はバックトスで送球するべきであった」と週刊ベースボールのコラムで発言した。
- 2007年の日本シリーズにおいて、落合博満監督が8回まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回に岩瀬仁紀へ交代させた2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投については采配自体には豊田は明確な賛否を示さずに、「レギュラーシーズン2位から日本シリーズへ勝ち上がってきたラッキーな状況だったからこそ、日本一を絶対に取らなければいけないという雰囲気があり、落合監督に相当なプレッシャーがかかっていたんだろう。そもそも、レギュラーシーズン1位で出場していれば、こんな騒動にはならなかった」とプレーオフ批判の持論を展開した。
- 2008年9月14日の中京テレビの番組「スポーツスタジアム」の取材で、「シーズン1位でないチームが日本シリーズに出るなんて許せない。(日本シリーズに出られなかった)1位チームの選手にとっては、人生の無駄」と発言した。
[編集] フジテレビ絶縁宣言
豊田は、引退の翌年(1970年)以降コーチとして現役復帰した1972年やテレビ大阪解説者として活動した1987年〜1991年を除き、プロ野球中継や1976年からスタートしたプロ野球ニュースでフジテレビの解説者として活躍していた。
2001年、「フジテレビが野球を大切にしなくなった」ことを理由に「フジテレビ絶縁宣言」を表明し、以来テレビでの解説から去った(ただし、地上波副音声や系列CS放送のプロ野球中継には時折出演していた。また、2003年まではフジテレビ公式サイト内において不定期でコラムを連載していた〔外部リンクを参照〕)。これはフジテレビがプロ野球ニュースなどの野球番組で、1990年代前後から野球に詳しくない女性アナウンサーやお笑い芸人を起用するようになるなど[10]、野球ニュースとしての低質化が起こったことなども要因であったが、これらを差し置いても一番の絶縁の理由は、2001年のプロ野球ニュースの地上波での放送終了であった。終了後はCS放送に移動して同番組は継続されたが、豊田自身は「プロ野球ニュースだけは絶対に終わらせてはいけない」と声を大にして叫んでおり、週刊ベースボールの自身のコラムでもこのことについて何度も発言している(フジテレビ公式サイト内のコラムでも地上波での再開を主張している)。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1953 | 西鉄 | 115 | 439 | 402 | 64 | 113 | 22 | 0 | 27 | 216 | 59 | 25 | 12 | 3 | -- | 31 | -- | 3 | 92 | 1 | .281 | .337 | .537 | .874 |
| 1954 | 134 | 583 | 494 | 77 | 119 | 20 | 4 | 18 | 201 | 63 | 33 | 10 | 14 | 2 | 72 | -- | 1 | 107 | 3 | .241 | .337 | .407 | .744 | |
| 1955 | 144 | 632 | 546 | 94 | 150 | 18 | 4 | 23 | 245 | 76 | 27 | 15 | 19 | 2 | 64 | 1 | 1 | 75 | 9 | .275 | .351 | .449 | .800 | |
| 1956 | 148 | 629 | 529 | 90 | 172 | 28 | 12 | 12 | 260 | 70 | 31 | 13 | 15 | 7 | 76 | 5 | 2 | 59 | 17 | .325 | .407 | .491 | .898 | |
| 1957 | 128 | 550 | 463 | 92 | 133 | 26 | 8 | 18 | 229 | 59 | 24 | 10 | 12 | 5 | 70 | 0 | 0 | 64 | 7 | .287 | .377 | .495 | .872 | |
| 1958 | 111 | 458 | 399 | 72 | 103 | 16 | 3 | 13 | 164 | 43 | 11 | 8 | 6 | 2 | 50 | 1 | 1 | 65 | 11 | .258 | .341 | .411 | .752 | |
| 1959 | 133 | 534 | 447 | 61 | 134 | 18 | 4 | 17 | 211 | 81 | 13 | 11 | 3 | 4 | 78 | 18 | 2 | 68 | 17 | .300 | .403 | .472 | .875 | |
| 1960 | 127 | 508 | 425 | 75 | 122 | 18 | 4 | 23 | 217 | 87 | 9 | 7 | 0 | 5 | 77 | 4 | 1 | 82 | 7 | .287 | .394 | .511 | .905 | |
| 1961 | 120 | 486 | 391 | 65 | 116 | 17 | 1 | 16 | 183 | 60 | 10 | 5 | 2 | 5 | 87 | 10 | 1 | 55 | 13 | .297 | .421 | .468 | .889 | |
| 1962 | 130 | 519 | 431 | 73 | 118 | 11 | 2 | 23 | 202 | 67 | 9 | 5 | 0 | 2 | 84 | 9 | 2 | 82 | 14 | .274 | .393 | .469 | .862 | |
| 1963 | 国鉄 サンケイ アトムズ |
136 | 549 | 472 | 68 | 138 | 26 | 1 | 20 | 226 | 70 | 12 | 11 | 2 | 3 | 71 | 2 | 1 | 65 | 17 | .292 | .384 | .479 | .863 |
| 1964 | 120 | 469 | 393 | 71 | 108 | 20 | 2 | 24 | 204 | 59 | 7 | 5 | 1 | 3 | 72 | 8 | 0 | 63 | 14 | .275 | .385 | .519 | .904 | |
| 1965 | 58 | 221 | 185 | 20 | 43 | 4 | 0 | 10 | 77 | 22 | 1 | 1 | 0 | 3 | 31 | 1 | 2 | 31 | 4 | .232 | .344 | .416 | .760 | |
| 1966 | 24 | 82 | 69 | 5 | 10 | 1 | 0 | 2 | 17 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | 19 | 3 | .145 | .280 | .246 | .526 | |
| 1967 | 106 | 346 | 309 | 34 | 76 | 18 | 2 | 9 | 125 | 36 | 3 | 4 | 0 | 2 | 32 | 3 | 3 | 60 | 4 | .246 | .321 | .405 | .726 | |
| 1968 | 40 | 94 | 83 | 11 | 20 | 2 | 0 | 5 | 37 | 19 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 | 1 | 0 | 20 | 0 | .241 | .319 | .446 | .765 | |
| 1969 | 40 | 116 | 99 | 8 | 24 | 4 | 0 | 3 | 37 | 13 | 0 | 2 | 0 | 1 | 16 | 0 | 0 | 17 | 6 | .242 | .345 | .374 | .719 | |
| 通算:17年 | 1814 | 7215 | 6137 | 980 | 1699 | 269 | 47 | 263 | 2851 | 888 | 215 | 121 | 77 | 47 | 934 | 63 | 20 | 1024 | 147 | .277 | .372 | .465 | .837 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)、1969年にアトムズに球団名を変更
[編集] タイトル・表彰・記録
- 新人王(1953年)
- 首位打者:1回(1956年)
- ベストナイン:6回(1956年、1957年、1959年~1962年) いずれも遊撃手
- 日本シリーズ最高殊勲選手(1956年)
- オールスターゲーム出場:9回(1955年~1960年、1962年~1964年)
- 野球殿堂入り(2006年)
- 2試合連続サヨナラ本塁打(1968年8月24日~8月25日)
- 通算1000試合出場 1960年8月7日(54人目)
- 茨城県民栄誉賞(2006年)
[編集] 背番号
- 7 (1953年 - 1969年)
- 70 (1972年)
[編集] 連載コラム
- 豊田泰光の赤えんぴつ
- 野球評論家転身当初に担当した、サンケイスポーツの連載コラム。
- チェンジアップ
- 日本経済新聞の連載コラム。
- 豊田泰光のオレが許さん!
- 週刊ベースボールで1993年から連載しているコラム。
- Weekly Report 豊田泰光コーナー
- 1999年から2003年までフジテレビ公式サイト内で連載していたコラム(外部リンク参照)。
[編集] 出演番組
[編集] 現在の出演番組
- ※豊田によると規制なく自由にめったぎれるから出演できるとのこと。
[編集] 過去の出演番組
- 1970年 - 1970年代後半頃まで出演。
- ※かつて出演していたフジテレビ系プロ野球中継の現行タイトル。
- 1970年 - 1986年、1992年 - 2001年に出演。
- 地上波時代のレギュラー解説者。
- ベーヤンとトヨさんのプロ野球いいたい放題
- 1980年頃、文化放送ホームランナイターの前座番組として放送していた10分番組。別所毅彦と共演。
- 以前はレギュラー解説を務めており、戸谷真人アナウンサーとのコンビで知られた(2006年は久々に一度だけ出演、2009年6月17日の巨人戦、同年8月26日の楽天戦にも出演)。
- あまりにもライオンズ贔屓だっため、ある試合で巨人(読売ジャイアンツ)のことを批判すると豊田は巨人ファンから自宅の庭に、火のついた煙草を投げ入れられ、戸谷は息子を誘拐するぞという誘拐電話がかかってきたことがある。そんなこともあって、みんなが身の危険を感じ、豊田・戸谷コンビを超えるコンビは生まれてないという(ライオンズ・クラシックでのトークショーより)。
- ※テレビ大阪のプロ野球中継の現行タイトル。
- 1987年 - 1991年に出演。
- 以下、2000年10月〜2004年3月にかけて、文化放送の日曜夕方にナイターオフシーズン(概ね10月〜翌年3月)限定で放送されたスポーツ情報バラエティ番組。
- トヨさんのサンデーラジオ I( - アイ)
- 2000年10月〜2001年3月、日曜午後5:50〜8:00に放送。
- 豊田泰光のウルトラサンデー
- 2001年10月〜2002年3月、日曜午後5:50〜8:00に放送。
- 豊田泰光のスーパーウルトラサンデー
- 2002年10月〜2003年3月、日曜午後5:40〜7:00に放送。
- 豊田泰光のサンデースポーツファミリー
- 2003年10月〜2004年3月、日曜午後6:00〜7:00に放送。
- 2004年ナイターオフシーズンの番組は、サンデースポーツパラダイス・エキウリ!となったため、上記番組を最後に、豊田がパーソナリティを務める同系統の番組は放送されていない。
[編集] 出演CM
- 協和焼酎大五郎(協和醗酵工業)
[編集] 書籍
- プロ野球を殺すのはだれだ(ベースボール・マガジン社) 2009年3月 ISBN 9784583101620
[編集] 脚注
- ^ 茨城県ホームページ「平成18年度茨城県表彰受賞者について」 [1]
- ^ 日立市は1945年の終戦前に日立空襲と呼ばれる空襲と艦砲射撃を受け、大きな被害を出した。
- ^ い ろ スポニチ九州 クローズアップ 2007年8月16日付 [2]
- ^ い ろ 常陽新聞ヘッドラインニュース 2008年6月5日付 「元プロ野球選手、豊田泰光さんが寄付」 [3]
- ^ 同記録は1959年にセ・リーグで読売ジャイアンツの長嶋茂雄が29本を打って更新されたが、高卒選手の記録としては1986年に清原和博が31本塁打を打つまで最多だった。現在でも豊田の記録は清原と桑田武(同数の31本)と長嶋に次ぐ4位、高卒では歴代2位である。
- ^ 福岡野球博物館「豊田 泰光さんについて・Ⅱ」 [4]
- ^ ほっとメール@ひたち(茨城県議会議員井手よしひろのブログ)2004年2月13日付記事 「吉田正記念館・開館にむけての準備進む」 [5]
- ^ 玉木正之『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)P322。玉木は「(他の対象者の)ほとんどが名球会の会員だったせいもあったのだろうが、プロ野球界やそれを支援するスポンサーに、彼のジョークが通じなかったのは残念だ」と記している。
- ^ MSN産経ニュース 2008年6月4日付 「野球解説者の豊田泰光氏、茨城県に500万寄付」 [6]
- ^ 1988年4月にプロ野球ニュースの司会が一新され、同番組のスタート以来司会を続けていた佐々木信也が外される一方、土曜と日曜は野球に関する知識不足を自認していたフジテレビ入社2年目の中井美穂アナウンサーが司会を担当していた。
[編集] 関連項目
- 茨城県出身の人物一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 鯨岡兵輔 - 豊田の親族、元衆議院副議長
- 協和発酵キリン - かつてCM出演していた焼酎大五郎の発売元(協和醗酵工業時代の2002年にアサヒビールへ大五郎を含めた酒類事業を譲渡)。
[編集] 外部リンク
- 豊田泰光公式サイト
- Weekly Report 豊田泰光コーナー(フジテレビ公式サイト内)
- トヨさんのサンデーラジオI(アイ)(文化放送公式サイトのアーカイブへのリンク一覧)
- 豊田泰光のスーパーウルトラサンデー〜豊田泰光のサンデースポーツファミリー(文化放送公式サイトのアーカイブへのリンク一覧)
- 福岡野球博物館
- アオダモ資源育成の会
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最終更新 2009年11月9日 (月) 20:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【豊田泰光】変更履歴

