豊田英二
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| 豊田 英二 (とよだ えいじ) |
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| 生誕 | 1913年9月12日(96歳) |
| 出身校 | 東京帝国大学工学部卒業 |
| 職業 | トヨタ自動車最高顧問 |
| 子供 | 豊田幹司郎(長男) 豊田鐵郎(二男) 豊田周平(三男) |
豊田 英二(とよだ えいじ、1913年9月12日 - )は日本の実業家。勲等は勲一等。トヨタ自動車最高顧問。
トヨタ自動車工業社長、トヨタ自動車会長、日本自動車工業会会長などを歴任した。
目次 |
[編集] 概要
トヨタ自動車を「世界のトヨタ」たらしめ、日本最大の自動車業者であると共に世界最大の自動車会社にまで成長させた人物である。トラック製造が中心だった当時のトヨタ(当時は漢字表記)において、クラウンの開発に乗り出した。これが、トヨタの本格的な乗用車生産へ乗り出す契機となった。
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
豊田佐吉の弟・平吉の次男。愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)の織物工場の家族に生まれる。
愛知県立第一中学校、第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、1936年に東京帝国大学(現東京大学)工学部機械工学科を卒業。この間、従弟である豊田喜一郎が豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)内に自動車工場を設立している。英二が学位を取ると、喜一郎は彼をその工場に入れた。会社がその名をトヨタ自動車工業と変えると、同じ年に最初の車が完成したが、生産ラインはゼネラルモーターズの部品を使ったものだった。なお英二は卒業時に工学部で優秀な学業を修めた者に贈呈される「ウェスト賞」を受賞している。また、本人談によれば学生時代に日立製作所からの内定をもらっていて、そちらに行く気満々だったとの事。それを父に喜一郎の事業を手伝うよう厳命された経緯がある為、トヨタ入りは本人の意に反する事だったという。
[編集] トヨタ自動車工業
1930年代のトヨタ自動車工業創業期に、英二は航空機開発の研究も並行させていた。特にヘリコプターに重点を置き、ローター回転による揚力実験まで研究は進んでいた。1941年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、トヨタの生産能力は軍のトラック製造に向けられた。そのため航空機開発は中断された。戦後GHQの財閥解体はトヨタにも影響を及ぼしたが、代わりにその後トヨタは自動車の製造によって日本の再建の一端を担うこととなる。しかし需要の増加にもかかわらず、終戦直後はほとんど破産しかかった状態で、大規模なリストラによって難をしのいだ形となった。
1967年10月、中川不器男社長(三井銀行出身)の急逝に伴い社長に就任。工・販統合直前の1982年6月まで14年9か月にわたって社長を務めた。この間、日本自動車工業会会長なども兼任。
[編集] 国外進出
英二は1950年代初頭にミシガン州のディアボーンにあるフォードの工場を訪れた。トヨタは13年間自動車製造に着手してきたものの、製造した自動車は2500台を越えるに留まっていた。フォードの工場では随時一日にして8000台もの自動車を製造しており、英二はアメリカ方式の大量生産方法を採用することを決意した。
1960年にトヨタは日本での自動車製造においてフォードとの合弁事業を提案した。元々の提案は4割、4割、2割に分けた内2割分の所有権を日本の流通業者に割り当てるというものだった。後にフォードの割り当てが5割に引き上げられたが、種々の理由により拒否された。英二は「フォードの拒否の方法には遺憾な点が多い。」と述べている。トヨタは1980年に再び試みたものの、すぐにレーガン政権が日本車の輸入に関して自主規制する協定を強要した。
それならと、今度はアメリカ国内での共同生産を提案した。「我々は戦前、戦後計4回提案を行ったが、いずれも努力が実を結ばなかった。我々はパートナーたる運命にないのだろうかと考えている。」と記している。2001年、フォード社長ジャック・ナッサーはトヨタ社長奥田碩と会談し、その中で小型車の製造においての合弁事業を提案した。
1983年、ゼネラルモーターズとの合弁会社であるNUMMI (New United Motor Manufacturing) が設立され、カローラやそれに基づいた自動車を製造している。1987年、トヨタはカナダオンタリオ州のケンブリッジに北アメリカでは初の完全所有の工場を開設する。続いて翌年にはアメリカ合衆国にもケンタッキー州のジョージタウンに初の完全所有の工場が開設した。アメリカ合衆国には他にも1998年にインディアナ州Pricetonに開設、2006年にはテキサス州のサンアントニオにも開設した。
1955年、トヨタは既にクラウンの大量生産を始めており、日本国内では成功を収めたが、1957年のアメリカへの輸出の際には市場にはあまり注目されなかった。しかしながら、1960年代にはコロナ及びカローラは相当なアメリカへの市場参入を達成している。1975年までにフォルクスワーゲンに輸入車第一位の地位を受け渡した。その後、1992年まで会長に在任、1983年には高級車市場への本格進出を決め1989年にレクサスを発表した。
[編集] 顕彰
1994年に米国自動車殿堂入り(日本人としては本田宗一郎に次ぐ)、翌1995年にはイギリス機械学会からジェームズ・ワット国際金賞を受賞した。1999年にはアメリカの週刊誌「タイム」で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の一人に選ばれた(日本人で他に選ばれたのは昭和天皇・盛田昭夫・黒澤明・三宅一生・井上大佑)。
[編集] 家族
[編集] 役職
- 財団法人トヨタ財団評議員
- 財団法人2005年日本国際博覧会顧問
- 社団法人日本自動車会議所顧問
- 財団法人科学技術交流財団特別顧問
- 財団法人がん研究振興財団理事
- 財団法人助成財団センター顧問
- 財団法人国際文化交換協会評議員
- 社団法人日本ポルトガル協会理事
- 財団法人立松財団評議員
- 財団法人大河内記念会顧問
- 財団法人日本美術協会相談役
[編集] 栄典
[編集] 著書・参考文献
- Toyota: Fifty Years in Motion Eiji Toyoda 1987年 講談社 ISBN 0870118234
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年8月29日 (土) 04:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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