趙匡胤

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太祖 趙匡胤
北宋
初代皇帝
王朝 北宋
在位期間 960年 - 976年
姓・諱 趙匡胤
諡号 啓運立極英武皇帝睿文神徳聖功至明大孝皇帝
廟号 太祖
生年 927年天成2年)
没年 976年11月14日
開宝9年10月20日
趙弘殷
杜氏
皇后 永昌陵
年号 建隆 : 960年 - 963年
乾徳 : 963年 - 968年
開宝 : 968年 - 976年

趙匡胤(ちょうきょういん)は北宋の初代皇帝

目次

[編集] 生涯

河北省固安県の人。父は後唐禁軍の将官・趙弘殷(宣祖)。 母は杜氏。

後周世宗の配下となり、殿前都点検(近衛軍長官)となった。 世宗は名君として知られたが、その後継者となったのはわずか7歳の恭帝であった。戦乱の時代の幼君に不安を持った軍人達は、自分達の頭領である趙匡胤が権力を握る事を望み、趙匡胤が深酒をして酔い潰れている間に強引に擁立してしまった(陳橋の変)。 周りの声に押された趙匡胤は開封に戻り、恭帝から禅譲を受けて皇帝となり、国号を宋とした。

976年、天下統一を目指して他の国を征服し、呉越北漢を残した所で統一前に50歳で急死した。その死因については、弟の太宗により殺害されたという説(千載不決の議)もあるが、宮崎市定等の一部の研究者からは、生前の太祖は陳橋の変の時に見られるように非常な大酒飲みであったとする記録等から、脳溢血等の疾患による急死だったのではないかと指摘する声もある。

[編集] 政策

戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力をそぐことに腐心した。唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。 この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。 趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。 また科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官吏が立つ文治主義を確立した。科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。ただ、趙匡胤の布いた文民統制政策はその後、代を経るごとに極端に強化され、そのことが軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となり、北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となったことは否めない。

趙匡胤は、自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め、唐末以来の戦乱の時代に終止符を打った。 他の創業の皇帝たちはほとんど例外無く滅ぼした国の君主達を殺して、後の憂いをなくそうとしたのに対して、趙匡胤は後周の柴氏を始め、降伏した国の君主達を生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。 柴氏は300年にわたって家が保たれ(小説『水滸伝』に登場する侠客で後周皇室の子孫・柴進の設定はこの一事にヒントを得たものであろう)、士大夫は朝廷において活発に議論をした。

趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも評価が高く、清の時代に執筆された小説『飛竜全伝』の主人公としても知られる。

[編集] 石刻遺訓

趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た(陳 1992)。

そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である。

  • 趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
  • 言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。

この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚(新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が処刑されず政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していることが証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。

[編集] 趙匡胤を主人公にした文芸作品

[編集] 参考文献

先代:
北宋皇帝
第1代:960年 - 976年
次代:
太宗

最終更新 2009年9月17日 (木) 01:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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