趙奢
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趙奢(ちょうしゃ、生没年不詳)は中国戦国時代の趙の政治家・将軍。恵文王に仕えて閼与の戦いで秦の軍勢を撃退し、馬服君に封ぜられた。
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[編集] 徴税官
趙奢は元は徴税官であったが、税金を払わなかった平原君の家の者を厳しく咎め、平原君が仕返しにやってくると、理路整然と反論した事で逆に平原君の目に留まり、恵文王に推挙され、国税の管理を任される。趙奢は公平に税をかけた為、趙の国民は豊かになり、国庫は充実し、結果国力は増強した。
[編集] 閼与の戦い
紀元前280年、趙奢は将軍として斉の麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる。
紀元前269年、秦は将軍胡傷に命じて趙南部の閼与の地に侵攻する。廉頗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものです。将が勇敢な方が勝ちます。」と説き、恵文王はその意見を容れて趙奢を将軍に任じて、閼与への救援に向かわせた。
趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬った。その一方で秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘う。そしてそれを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言を受けて北山の地をいち早く占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて秦軍を敗退に追い込んだ。
趙奢は恵文王からその戦功を大いに称えられ、廉頗や藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる。秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来なかった。
[編集] 子への危惧
趙奢の子の趙括は、父を論破するほど兵法に通じていたが、趙奢は趙括の実戦での軍事的才能の限界を早くから見抜き、妻に対し決して将として用いないように遺言して亡くなった。しかし、孝成王は秦の将軍白起の策にはまり、名将廉頗を更迭して趙括を用いた。趙括は長平の戦いで白起に敗れ、趙軍は兵士40万人を坑殺されて一気にその勢力を失った。なお、趙括出陣の際に趙括の母が孝成王に対して失敗した場合の責任を一族に取らせない事を約束させた為、一族が滅亡する事は無かった。
[編集] その末裔
後漢の成祖光武帝に仕えた将軍馬援や蜀の馬超の馬氏は趙奢の末裔であり、その称号である馬服君の馬をとって氏としたと言われる。


