趙武

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姓名 趙武(贏姓趙氏)
時代 春秋時代
生没年 前598年 - 前541年12月7日
字・別号 趙文子(諡号
本貫・出身地等
職官 新軍の将→上軍の将〔晋悼公〕
次卿・中軍の佐→正卿・中軍の将〔晋平公〕
陣営・所属等 景公厲公悼公平公
家族・一族 父:趙朔
母:趙荘姫
子:趙成

趙武(ちょうぶ)は、中国春秋時代の政治家。父の代に一度は滅亡した趙氏を再興させ、晋との和睦を成し遂げる大功をあげた。



目次

[編集] 生涯

[編集] 九死に一生を得る

紀元前598年、趙武が生まれる直前に父趙朔をはじめとする一族が、司寇の屠岸賈によって、皆殺しにされた。かつて、一族の趙穿が霊公を殺した罪を問われてのことだったが、母の趙荘姫は公室から降嫁していたために、命を助けられた。趙荘姫は後宮に戻ったが、このとき、すでに趙武を身篭っていた。

誕生した趙武は、屠岸賈の追及を逃れるために、趙朔の食客だった公孫杵臼の犠牲と、趙朔の友人だった程嬰の機転により、趙朔から趙家再興を託された韓厥の支援を得て、山中に隠れた。

[編集] 趙家再興

紀元前583年、大叔父の趙同・趙括兄弟が趙荘姫や欒書との対立が元で攻め滅ぼされる等、趙衰以来の家系は断絶に等しい状態にあった。しかし、病に倒れた景公を韓厥が説得したため、成人した趙武が景公に拝謁して、趙家再興を許された。

趙武は韓厥や欒書とともに屠岸賈を攻め殺した。復讐を成し遂げ、韓厥や欒書、智罃士燮、中行庚から祝辞を受けたが、直後に程嬰が「地下で趙荘子(趙朔)と公孫杵臼に報告したい。」と自害すると号泣した。そして、彼のために三年間喪に服し、また、趙家の廟に彼を祀った。

[編集] 正卿となる

紀元前573年、趙武は悼公から新軍の将に任命され、卿としての第一歩を踏み出した。紀元前560年には韓厥の子の韓起の推挙を受けて、上軍の将へと昇格したが、栄華を極めた趙一族が一度は瓦解したことを教訓として、徳を積み、常に温和な風貌を保ち、自ら一歩退く姿勢をとり続けた。

紀元前548年に士匄(范匄)逝去の後を受けて正卿・中軍の将となると、次卿の韓起や相談役の叔向とともに、南の大国であるとの講和を目指した。紀元前546年7月に弭兵の会を催して、楚や等の周辺諸国との講和を実現させ、晋の名宰相と世に称えられた。

しかし、紀元前541年になると、急激に体の衰えを見せ始めた。もう先がないことを悟った趙武は、同年12月1日に祖先の合祭をおこなった。その直後の12月7日に死去。享年57。趙家を再興させ、楚や周辺諸国との講和という大業を成したことから、最高の諡号「」を諡され、趙文子と呼ばれることになった。

[編集] 趙武を題材にした小説

[編集] 関連項目

先代:
趙朔
氏当主
4代目
次代:
趙成

最終更新 2009年11月5日 (木) 09:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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