軍服 (大日本帝国陸軍)

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1900年(明治33年)当時の各種制服。

大日本帝国陸軍の軍服(ぐんぷく)とは、明治維新後の建軍から、陸軍が解体(陸軍省廃止は1945年)されるまで大日本帝国陸軍の軍人が着用した制服のこと。軍服一般については軍服を、幕末期の軍服については幕末の軍服を参照。

旧陸軍では、建軍(藩兵を解散して御親兵鎮台兵を設置する)の頃から政府として服制の統一を図るようになった。当初はフランス陸軍に範をとっていたが、普仏戦争以降はドイツ陸軍の軍服に範をとるようになった。

陸軍の服制は、「陸軍将校服制」(後に廃止)、「陸軍下士以下服制」(後に廃止)、「陸軍服装規則」(明治34年9月21日陸達第59号。後に明治45年軍令陸第1号)や「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)、昭和5年陸達第8号などによって規律されていた。

目次

[編集] 天皇の軍服

大元帥としての天皇の軍服は「御服」と呼ばれ、海軍の服装令(軍令)ではなく「天皇ノ御服ニ関スル件」(大正2年皇室令第9号)によって定められていた。基本的には一般の陸海軍の将官と変わらないが、階級章が通常のものよりも長さが若干長く、大将を示す3つの星章(海軍では桜花章)のほかにひとまわり大きい菊花章がついていた。

海軍の第一種軍装および正装・礼装では将官を示す袖章の線が、一般の大将は太線2本に中線3本であるのに対し中線が4本あった。海軍の式典に参加する場合には当然、海軍の軍服型の御服を着用したが、通常は陸軍の軍服型の御服を着用する場合が多かった[1]

昭和20年の終戦後、陸海軍廃止が定まったことから、従来の陸軍式御服及び海軍式御服に代って、(詰め襟タイプの)新しい天皇御服が制定された。(同時に皇族服も定められた)。昭和20年11月8日に新御服を召して伊勢神宮に参拝した。

皇室令及附屬法令廢止ノ件(昭和22年5月2日皇室令第12号) により、皇室令がすべて廃止されたことにより、天皇御服と皇族服も同時に廃止された。

[編集] 正装(将校等)

[編集] 正装を着用すべき場合

正装を着用すべき場合は、時代により多少の変遷はあるが概ね次の通りである。

[編集] 様式

明治6年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。将校等は、立襟ダブルボタンの半マンテル、長袴(ストレートズボン)に短靴の正装を用いた。細部の改正を経つつ、この基本形は最後まで用いられることとなった。

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、将校及び同相当官は、正帽、正衣、正袴、飾帯(但し、飾帯は、佐官以上(但し、隊付及び伝令使を除く。)、会計・軍医・馬医部の佐官相当官以上及び参謀科尉官がこれを用いる。)、白手套(白手袋の意味)、下襟飾緒(参謀科及び伝令使のみ。)、正剣(正剣に代わって、軍刀を帯びるのは、将官が軍隊を率いる場合、参謀科将校が観兵式等に当りその職を奉じる場合、伝令使及び隊付の佐尉官の場合である。)及び短靴を着用することとなっていた。

「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)によると、一般将校の第1種帽(正帽)は、濃紺絨の地質。日章は金色直径1寸7分。目庇は革で、表が黒、裏が萌黄色。頤紐(あごひも)が黒革で幅が3分5厘、頤紐釦が直径3分であった。第1種帽には、横章が付された。上下部縫際に蛇腹組み金線小線(幅1分5厘)1条を付すほか、階級により別に金線が付された。少尉は金線小線1条とし、大佐に至るまで小線1条ずつ増えた。少将は金線大線(幅9分)1条及び小線1条とし、大将に至るまで小線1条ずつ増えた。また、頂上に五芒星が付された。正衣袖章は、金線で表され、少尉及び同相当官を1条として、大佐及び同相当官の金線6条に至るまで、1条ずつ増えてゆく。

明治45年2月24日改正[2]では、第1種帽を正帽と改称すると共に、庇の裏が黒革(元は萌黄色)となり、顎紐の幅が3分7厘(2厘太くなる)、顎紐止め釦の直径3分5厘(5厘大きくなる)となる。

昭和13年(1938年)5月31日による改正[3]では、正衣について、各部将校の飾帯の定色の区別がなくなり、一律に緋色となる。

[編集] 正装(下士卒等)

明治6年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。下士卒にはシャコー帽が採用された。

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士及び同相当官は、正帽、正衣及び正袴を着し、前立を装し、各科所用の兵器を携帯し、乗馬の者は長靴を、徒歩の者は脚絆を着用した。但し、飾隊儀仗の整列等にあって、隊付徒歩の下士卒は、下副官及び曹長のほか、皆背嚢を負い、毛布蹄鉄状に付し、その上に外套を付着し、嚢中に定規の器具を収め、脚絆を袴下に着用した。また、工兵及び鍬兵の下士卒は毛布の代わりに各工具を付着した。また、隊外の下士は、兵科に関せず、総て軍刀を帯びた。なお、1880年(明治13年)には、官営千住製絨が操業を開始し、国産の羅紗地が用いられるようになった。

「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)でも下士卒第1種帽のシャコー帽は維持された。兵科の下士・兵卒(輸卒及び憲兵を除く)の第1種帽は、シャコー帽であった。憲兵及び各部の下士・兵卒の第1種帽は将校のそれに近いものであった。

[編集] 礼装

寺内寿一陸軍大将(左端)。前立や飾帯を着用しない。

「陸軍服装規則」(明治45年軍令陸第1号)では、前立・飾帯を着用しないほかは正装に同じと規定された。

[編集] 通常礼装

[編集] 昭和13年制式以前

通常礼装においては原則として長袴、短靴を着用した。(閑院宮載仁親王
陸相就任祝賀会。左海軍軍服は米内光政、中央陸軍軍服は板垣征四郎、奥陸軍軍服は東條英機

明治初期にはこの分類はなかった。後にこの分類が採用されたが、軍装と大差がなかった。明治45年2月24日の陸軍服装規則によれば、暑中以外は、次のものを着用した(軍楽部・騎兵科・参謀・副官・週番将校・特務曹長には特則あり)。軍帽・軍衣・長袴・短靴・刀・刀緒・刀帯。なお、当時の規則によれば、勲章類を略綬ではなく本章を用い佩用するか否かで通常礼装と軍装とが区別されるわけではない(軍装では勲章・記章の佩用をしないことが許されていたに過ぎない)。

[編集] 昭和13年制式以降

後に昭和13年制式で、正肩章に擬似した礼装用の肩章が定められ、通常礼装時にはこれを着用する定めとなった。これにはドイツ陸軍の影響があったのではないかという説も一部である[4]

当改正にて通常礼装(通礼)が改正された。通常礼装は自身が受勲受章している勲記章類を略綬ではなく本章を用い佩用し、別個の通常礼装用の肩章を肩に付け(例外あり)これを、正衣国家総動員法発令や緊迫した戦時の状況下で廃止こそされなかったものあまり用いれられなくなってきた)着用に変わる通常礼装とした。

昭和13年制式では、通常礼装用の肩章が制定された。本章自体の材質は丸打金線又は丸打黄絹線。星章色は銀色、桜花釦は金色で、基本は正衣の肩章と変わらないが、釦部分には新しく桜花が付き(正肩章は無地)、装着方法も正肩章とは異なり、上衣の肩に設けられた切れ込みの孔に金具を挿し込み、裏地部分の紐で括り固定する為、裏の装着金具の仕様が異なる。

一部の青年将校には正衣に費用を掛ける必要が無くなった為に、この肩章に費用を掛けそこらの上官より上等な肩章にする者もいた。初中期に作られた軍衣は大抵肩の切れ込みの機構を持ち肩章も使われていたが、大戦突入後の緊迫した戦時下に於いてはあまり使用されなくなっていき、同時に軍衣の機構も省略されていった。

[編集] 軍装

[編集] 軍装の沿革

  • 1873年(明治6年)~1906年(明治39年):紺系色の詰襟で、将校は肋骨服又はボタン留め、下士卒はボタン留め又はホック留めのもの。初期には下士卒はシャコー帽を着用した。
  • 1904年(明治37年)~1938年(昭和13年):茶褐色の詰襟、ボタン留め。
  • 1938年(昭和13年)~1945年(昭和20年):茶褐色の折襟、ボタン留め。

[編集] 明治6年制式

1875年(明治8年)

将校の軍衣は黒い肋骨服。

明治6年制式では、下士卒の略帽は、目庇のない形状であったが、明治8年に目庇のある形状に改正され、以後目庇のあるものが用いられ続けた。

[編集] 明治12年以降

[編集] 将校・同相当官

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、将校及び同相当官は、軍装に際しては、軍帽(第2種帽と考えられる)、軍衣、軍袴、白手套、下襟(襟カラー)、飾緒(参謀官及び伝令使のみ)及び軍刀を着用した。

但し、軍袴については、乗馬には短袴を用いた。また、隊付徒歩の士官は、戦時出征の場合及び平時であっても衛兵勤務及び行軍野営演習等の場合には、背嚢を負い、外套を背嚢上に付着し、脚絆を着用した。また、会計・軍医・馬医部の将校相当官は、軍装にあっても軍刀に代えて正剣を帯びた。

[編集] 下士卒・同相当官

1882年(明治15年)当時の砲兵下士卒の軍装

明治12年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士卒及び同相当官の軍装は、同時期の正装に同じであり、次の点のみ異なっていた。

  • シャコー帽に前立を装着しないこと。
  • 徒歩の下士卒は、脚絆を袴下ではなく袴上に着用し、予備靴を背嚢の両側に付し、食器(飯盒)を嚢の外部中央に付着し、飲器(水筒)を携帯したこと。

[編集] 明治19年制式

明治19年制式は、1886年7月6日に定められた[5]。それまでのフランス型からドイツ型への大きな転換となった。第2種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官以下は紺絨であった。

将校等の第2種帽横章及び袴の側章の地質
区分 第2種帽横章 袴側章
兵科 将官 緋絨 濃紺絨 緋絨
憲兵佐尉官・憲兵下副官 第2種帽なし 藍絨 緋絨
近衛隊に属する佐尉官・下副官 緋絨 一般に同じ 一般に同じ
屯田兵佐尉官・下副官 黄絨 藍霜降絨 緋絨
近衛隊以外 歩兵佐尉官 黄絨 濃紺絨 緋絨
砲兵佐尉官
砲兵上等監護
黄絨 濃紺絨 黄絨
工兵佐尉官
工兵上等監護
黄絨 濃紺絨 鳶絨
輜重兵佐尉官 黄絨 濃紺絨 藍絨
騎兵佐尉官・下副官 黄絨 茜絨 萌黄絨
歩兵下副官 黄絨 紺絨 緋絨
砲兵下副官 黄絨 紺絨 黄絨
工兵下副官 黄絨 紺絨 鳶絨
輜重兵下副官 黄絨 紺絨 藍絨
各部 監督部・軍吏部の将校相当官 花色藍絨 濃紺絨 花色藍絨
衛生部の将校相当官 深緑絨 濃紺絨 深緑絨

[編集] 第2種帽

明治19年制式。市瀬文三郎
佐官の第2種帽には濃紺線2条が入った。明治31年10月以降の写真(明治33年制式又はそれ以前の制式)だが、明治19年制式とそれほど大きな差はない。由比光衛
左側が明治期の軍帽。右側が後年の軍帽。
第2種帽の星章(帽章)

第2種帽は天井部分の喰出(はみだし)が小さいタイプであった。第2種帽の星章(帽章)は金色で中心より尖頭に至るまで5分(1.5cm)。眼庇は黒革、幅1分5厘(0.5cm)の頂端線は喰出に付した。下部(鉢巻部分)の高さは1寸7分強(5.2cm強)で、横章は将官・佐尉官・各部等で色が異なっていた。

将官の下部(鉢巻部分)は緋絨に幅1分(0.3cm)の濃紺線3条が入るような形状であった各兵科佐官及び各部同相当官は黄絨に濃紺線2条、各兵科尉官及び各部同相当官は黄絨に濃紺線1条であった[6]。。上等監護及び下副官以下は濃紺線が入らない。

なお、将校相当官は、それぞれ相当する将・佐・尉官の形状に同一で、ただ緋絨ではなく、それぞれの部の定色が用いられた。

[編集] 軍衣

下士卒軍衣は、紺絨の立襟ボタン留めの短上衣で、上衣の襟に識別色が付き、肩章には所属の連隊番号が付され、階級は袖の線により表示される。

[編集]

「袴」とは長ズボンを指し、乗馬ズボンは別に「短袴」として規定されていた。袴の側章について、将官及び同相当官は幅1寸1分の大線2条及び幅1分の小線1条を付した。佐尉官は大線幅1寸3分の大線1条を付した。もっとも、騎兵佐尉官の「袴」は、短袴型であった。

[編集] 明治26年制式

[編集] 明治26年制式概要

明治26年制式は、将校・准士官・下副官の、夏衣のみの改正で他の服装については改正はない[7]。これは明治33年制式でも継続された。将校等夏衣は白立襟5つ銀ボタン。ポケットは左胸と左右腰部に蓋なしのものが付された。階級は袖章で区別したが、将佐尉官は銀星の数で、大中少はその上部に付された線の数で判別した。

その後、特務曹長及び監視区長が設けられたことに伴い、「陸軍各兵特務曹長及監視区長服制ノ件」(明治27年勅令第110号)が制定された。陸軍各兵特務曹長及び監視区長の服制は、各々その兵科の下副官と同じとされた。

また、明治26年4月6日に憲兵刀が廃止され、憲兵下士兵卒は騎兵刀を佩用することとなった[8]

[編集] 戦地服(北清事変)

1900年(明治33年)に起きた北清事変では、白い軍服に代わってカーキ色の軍服が現地部隊に限って貸与された。

[編集] 垂布(在台湾陸軍軍人)

明治32年7月7日に制定された「在台湾陸軍軍人ノ日覆ニ白布ヲ垂下ス」(明治32年7月7日勅令)により、在台湾の陸軍軍人は夏季日覆いの後方に白布3条を垂下することが認められた。これは炎熱の地に服務することから日射から後頭部を保護する目的で定められた特則である。

[編集] 明治33年制式

この頃の伏見宮貞愛親王

明治33年制式は、明治33年9月8日に制定された「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)に基くものである。従来の陸軍将校服制及び陸軍下士以下服制等が統合されて一つの勅令となった。

[編集] 第2種帽

将校等第2種帽は明治19年制式から殆ど変更はなかった。ただ、監督部の横章が銀茶絨(明治19年制式では軍吏部と共に花色藍絨であった。)に変更された程度であった。

将校等の第2種帽は、濃紺絨で、星章は金色で、横章が官によって異なった。下士卒第2種帽は、色が紺絨と将校用のそれよりも色が薄くなり、星章が真鍮である点などが異なっていた。大線は幅1寸5分であった。

[編集]

将校等の衣(冬用の通常勤務服を指す)は、肋骨服(騎兵を除き胸章は、角打黒毛糸組で直径2分、胸部左右各5個。)であった。物入れは腰部左右に各1個。正衣同様の袖章によって階級を区別した。

下士卒衣(騎兵・軍楽部除く)は紺絨立襟5つボタン。物入れは、左胸裏面に1個付された。工兵のみ右胸部にも付された。襟章・肩章の色によって、近衛部隊や兵科各部を区別した。階級は袖章で区別した。

騎兵を除く各兵兵卒の袖章について、黄絨小線幅2分は、上等兵は3条、1等卒は2条、2等卒は1条。袖口より2寸上り、表半面に付着し、各間隙は1分である。騎兵を除く各兵下士の袖章について、平織り金線幅2分・黄絨大線幅8分各1条は共通である。黄絨小線幅2分は、曹長・1等工長は3条、軍曹・2等工長は2条、伍長・3等工長は1条。

[編集] 夏衣

将校等夏衣は明治26年制式夏衣に同じ。夏衣袖章は将佐尉を星章の数で、その上の線の数で大中少を表した。下士卒夏衣は白立襟ホック留め。袖章は衣とは異なり山形。

[編集] 明治37年戦時服

濃紺絨の明治37年戦時服の軍衣の大将。大山巌

日露戦争1904年(明治37年)2月10日宣戦布告、1905年(明治38)9月1日休戦成立。)に際しては、戦時服が「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)、その後「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)により定められた。

「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)では、将校・同相当官・准士官の軍衣を夏衣同様の製式で作成することを認めた。もっとも、夏衣のままの白色では目立つため、濃紺・紺絨の地質で、袖章も黒色とした。釦の数は5個又は6個と幅を持たせた。また、将校以下の、夏衣、夏袴、日覆い、垂布は、茶褐色とすることを認めた。

[編集] 明治38年戦時服

「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)では、45式軍衣に類似した服制が定められた。後年の軍帽と同様の形式のものが第二種帽として制定される。将校相当官の帽用星章と頤紐釦(顎紐を留めボタン)は銀色。

襟部に、襟章(兵科各部定色の布)及び襟部徽章(隊附はアラビア数字、後備隊附はローマ数字、国民軍附は右側にローマ数字で左側にアラビア数字。)を着用した。

[編集] 明治39年制式

1906年(明治39年)4月12日、「陸軍戦時服服制」は「陸軍軍服服制」と改められた[9]。これによって、臨時のものであった陸軍戦時服は以後も着用するものとなった。もっとも、陸軍軍服服制にいう第2種帽、衣、袴、外套等の地質は、下士卒等にあっては当分の間、濃紺絨を以て茶褐絨に代用することが許された。これは、大量の濃紺絨の生地が余ってしまったことからこれを費消するための過渡的措置であった。

ここに、日本陸軍の軍装は従来の濃紺色・紺色から茶褐色へと色彩面で極めて特徴的な転換が行われ、この茶褐色の軍装は陸軍解体まで使用され続けることとなった。

[編集] 明治45年制式

[編集] 明治45年

明治45年(1912年)制式(四五式)は、明治45年勅令第10号による改正によるものである。「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)をほぼ踏襲している。平時着用の軍服としては初めて、茶褐色の生地を採用し、緋色の装飾が付されるもので、幾度伸び改正を経ながら昭和13年制式(1938年)が採用されるまでの20年間以上、使用された。

この軍装が主に使用された戦争は次の通りである。

[編集] 軍帽

軍帽の地質は茶褐絨。鉢巻及び天井喰出は緋絨。天井喰出の下部において、左右両側に金色金属の鳩目打小孔各2個を付す。帽章は星章とされたが、近衛師団に属するものに限り、星章を桜葉で囲んだ。

[編集] 軍衣

[編集] 軍衣全体

軍衣の地質は茶褐絨。物入れは、将校の場合、左右各2個(胸部のものには蓋付き、腰部のものには蓋無し。)。下士兵卒の場合は、左右胸部に各1個(蓋付き)。将校用の鏑袖は4寸(約12センチメートル)。

釦は、兵科将校准士官は金色金属、各部将校相当官准士官相当官は銀色金属、兵科下士卒は赤銅、各部下士卒は白銅。

袖章は、将校は緋絨で、下士卒は蛇腹組緋毛糸。鏑の全周に、喰出しに付す。

下士兵卒の軍衣には、左脇下に、表が茶褐絨、裏が褐色麻製の剣留め1個を付した。

[編集] 襟章

襟章は、鍬形で兵科各部の定色絨(兵科区分のない将官には無し。各部将官は有り)。背中は1枚の生地からできていた。襟部徽章は、歩兵・騎兵・野砲兵・工兵・輜重兵隊附は、それぞれの連隊又は大隊の番号をアラビア数字で、台湾歩兵隊附は右に桜で左にアラビア数字、臨時朝鮮派遣歩兵連隊中隊附は右に日章と中隊番号を左に連隊番号を、独立守備大隊附は右に特別章を左に大隊番号を付すなどした。

[編集] 肩章

着脱式の縦長の肩章の地質は緋絨。線章・星章は、兵科将校准士官・下士は金色、各部将校相当官准士官相当官・下士は銀色金属。兵科兵卒の星章は黄絨、各部兵卒の星章は白絨。

[編集] 夏衣

将校同相当官の夏衣は、地質が茶褐布又は茶褐薄毛織りである点を除き、将校同相当官軍衣に同じ。但し、袖章(緋絨の線1本)は付さなかった。

下士兵卒の夏衣は、地質が茶褐布である点を除き、下士兵卒軍衣に同じ。但し、袖章(緋色の線1本)は付さなかった。

[編集]

将校・同相当官には、茶褐絨の「長袴」・「短袴」及び茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏長袴」・「夏短袴」が規定されていた。

下士兵卒には、「軍袴」・「夏袴」のみが規定されていた。騎兵科・軍楽部を除く各兵科各部下士兵卒のそれはストレートズボン型(長袴)、騎兵科下士兵卒のそれは乗馬ズボン型(短袴)であった。

[編集] 将官・同相当官の特則

将官・同相当官には、次の特則があった。

  • 通常の茶褐絨の「軍帽」以外に「紺絨帽」が規定されていた。
  • 通常の茶褐絨の「軍衣」以外に「紺絨衣」が規定されていた。
  • 通常の茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏衣」以外に「白夏衣」が規定されていた。
  • 通常の茶褐絨の「長袴」・「短袴」及び茶褐布又は茶褐薄毛織の「夏長袴」・「夏短袴」以外に「白長袴」・「白短袴」が規定されていた。

[編集] 大正7年

大正7年5月4日付陸軍省副官「衣袴及外套仕様改正ノ件陸軍一般ヘ通牒」(陸普第1462号)によると、大正7年度支給の下士卒への衣袴及び外套から新様式のものが給与されるようになり、それに「改四五式」の捺印がされた。これは、軍縮時代で必要とする募兵数が減少したことから、徴兵検査の基準が高くなり、体格の良い兵卒が増加したため、寸法を全体的に見直した改正である。この段階では、外見上、四五式と改四五式との差は実際には全く無かった。

[編集] 大正9年

大正9年5月28日陸達第38号により、夏衣袴の「茶褐布」を自今染色の分から帯赤茶褐から帯青茶褐に改正した。理由としては次の点がある。

  1. 帯青茶褐の方が保護色として優れている。
  2. 帯赤茶褐は汚損が目立ちやすい。
  3. 帯青茶褐の方が色相として高尚である。
  4. 染料輸入上好都合である。
  5. 経費は若干上がるが、被服費予算内に収まる。

[編集] 大正11年

大正11年勅令第415号によって、大正11年9月26日に改正された。この改正では、次の改正がなされた。

  • 軍帽及び軍衣(冬用の軍服)の地質について、従来は茶褐絨のみとされたが、茶褐布も許容されることとなった。
  • 従来は、軍衣及び外套には袖章(将校緋羅紗玉縁縫込み、下士官兵蛇腹織緋線、パイピングともいう。)が、長袴(冬用のズボン)及び短袴(冬用のズボン)には側章がそれぞれ付されていたが、これを廃止して、夏衣と軍衣とを全く同じ製式とする。これは戦闘時における迷彩性を高める目的や過剰な装飾を除くことで経済性を追求したものと考えられる。一般に、改45式で緋線が廃止されたと言われるのはこの改正を指している。

[編集] 昭和5年

昭和5年(1930年)制式(所謂「昭五式」)[10]では、尺貫法からメートル法に採寸を改められた。このタイプを「昭五式」(しょうごしき)と呼ぶのは、下士官兵へ支給された軍衣等にこの押印がなされていたことによる。このような押印は官給品ではない将校准士官の軍衣等にはない。従って、将校准士官の軍衣等を昭五式と呼称するのは誤りであり、あくまで昭和五年制式の軍衣等である。

下士官及び兵卒の軍衣について、生地節約のため背中の裁断が二枚はぎになる。(この二枚はぎになるのは将校准士官も共通。)下士官兵の軍衣は着丈がやや短くなり、裏地が七分裏になる。生地も繊維が太くざらざらしたものになり旧制式の改四五式と比べ質がやや落ちる。全体的に事変に対する大量動員を見越した、節約・省略型の改修と言える。

他方、将校軍衣では、襟を高く、ウエストは絞り、襟章の形も凝り、シャープな造形の雨蓋、丈はやや短く、短袴は腿部の膨らみの大きな物、生地色は濃緑や茶褐のものが流行する。軍帽もチェッコ式(チェコ式、チェック式とも。天の前の方を高くする形状)やクラッシュ型(芯金を抜き天の中部をへこます形状)と言った、大正11年制式時代まで標準だったロス式の襠の整った控えめな形を打破する大型で派手なものが流行し、目庇も小さめで額に吸い付くかの如く急角度な見栄えのする物も同時に流行った(逆に明治よりの古参老齢の上級将校達からは派手と思われ不評であった)。それまで質や外見で将校と下士官兵に特に大差は無かったが、この青年将校文化が華やかなりし頃は、外国軍の要素(ナチス・ドイツの軍装の影響を強く受けたと言われている。もっとも、立襟から折襟への変更は世界的な流れでありそれを受けたものともいいうる。)を取り入れ、明らかに将校と解る昭和新時代の当時の若者らしい自己主張を持った軍装が多く現れた。

下士官兵用外套については、生地節約のため、シングル釦になるが腰部は帯革留鉤式のままと変更された。もっとも、過渡期以降にも旧制式であるダブルの改四五式(四五式)外套と、今回の新制式であるシングルの昭五式外套とが併用される事も珍しくなかった。夏外套は剣留式である。

この軍装が主に使用された事変・事件は次の通りである。

[編集] 昭和13年制式

陸軍大将(東條英機)。立折襟軍服であるが、青年将校が好んだ襟の開きが小さく立襟に近い仕立て。
右胸に兵科各部定色の胸章が付されている。(瀬島龍三中佐)

1938年(昭和13年、皇紀2598年)制式(所謂「九八式」)とは、陸軍服制改正(昭和13年勅令第392号)による改正に基づくものである。第二次世界大戦に入ると、主要各国が戦闘服と勤務服を別に採用(ドイツにおいては迷彩服も採用)し始めていたのに対し、日本陸軍はこれに追随することはなかった。このタイプを「九八式」と呼ぶのは、下士官兵へ支給された軍衣等にこの押印がなされていたことによる。このような押印は官給品ではない士官の軍衣等にはない。

[編集] 上衣

[編集] 襟部分

将校軍衣は2ホックの立折襟だが、下士官兵軍衣は開襟式折襟。将校は、体格や志向に応じて襟ホックは1又は2とすることが許された(首周りの窮屈さを嫌う一部の老練高級軍人らは1フック折襟といった緩めの形を好んだ)。立折襟(ならびに開襟式折襟)への移行については、同様な軍装を採用していたドイツ軍への傾倒によるものという説、当時交戦していた中華民国軍の軍服(ドイツとの軍事協力により、ドイツ国防軍の軍服に倣って採用していた。)の影響と見る説、そもそも従来伝統である立詰襟では首元が窮屈であり実戦向きではなく(主に下士官兵軍衣。立詰襟の場合、窮屈さを緩和する為に襟高を低くすると体裁が悪くなる為)、同時に襟部の体裁をも考えこの新形式にまとまったという説などがある。

また、同時に、将校用の九八式開襟折襟夏衣も制式採用され、夏季や南方などでは、開襟状態で着用する事が出来た(詳細、写真は当項下記述の「開襟夏衣防暑衣略装等」参照)。

昭五式期に引き続きおおよそ昭和15年辺りまで、衣袴徽章軍装に対する青年将校文化はそのまま継承され、当時代では新しく、従来の立詰襟を彷彿とさせる襟の開きが小さい整った仕立て等が好まれる様になり、台襟(立襟)と折襟の間にスナップボタンを仕込み折襟部を固定したり、折襟の先を鋭角にしたり、中には首周り全体を覆うかの如く見た目窮屈そうな派手な襟を持つ軍衣まで登場した。

この立襟から立折襟への改正によって帝国陸軍の軍衣の体裁が大きく様変わりした事によって、階級に限らず昭五式時代からの一部の古参軍人の中には、己が古参と云う事を誇示する為ないし、立詰襟自体に愛着があった者は旧制式の昭五式を好んでわざわざ着用されるといった事も、大戦末期や終戦時まで多々あった(下士官兵軍衣では過渡期に於いて「従来の昭五式軍衣の襟に九八式襟章を付ける様に」との服令がだされた)。

軍からは質素倹約に励め(いたづらに軍衣を新調せずに立襟軍衣を改造する様に奨励する)というお達しが出ていた為、新しく仕立て直しをせずに従来の立襟軍衣を新式の九八式軍衣に改造するといった事も多く、その際は新しく折襟部分の布を立襟部分に付け足すといった工程が踏まれた。なお、そのお達しを「軍衣の新調は認めない」と極端に誤認された事があった為、後日撤回緩和されている。

[編集] 胸章

兵科各部は定色山形(M字型)で右胸に着用した胸章により区別した。将校の胸章は線の幅は5ミリメートル、全幅は39ミリメートルとされた。下士官兵の場合は、将校のそれに幅3ミリメートルの台地が全周に付された。

昭和15年(1940年)に昭和15年8月1日陸達第33号及び昭和15年勅令第585号による改正が行われる。そこでは、胸章が廃止された。達の時点では憲兵を除く各兵科の胸章が廃止されることとなっていたが(各部は存続)、勅令では憲兵を含めて兵科区分の胸章が廃止された(そのため、憲兵科には旭日形の襟に付ける憲兵徽章が別個制定された。)。

[編集] 襟章

階級章は襟章となる。縦が18ミリメートル、横が40ミリメートル。下士官兵は長方形(俗称座布団)、将校は平行四辺形とされた。将校襟章の星章の造型は昭五式期までの将校肩章で使われていた立体型から、平型に変更された。1940年(昭和15年)には、兵長の階級章が新設された。

[編集] 脇裂(将校)

勅令中には、将校軍衣の脇裂(サイドベンツ)についての定めがある。右脇裂は実際には裂かない。左脇裂は裂け目の裏面の下端に釦を付して開閉できるようにした。これは、将校等は刀帯を上衣の下に帯びていたため、軍刀を左の脇から出す必要があったことによる。長さは腕骨上端より下ること210ミリメートルが基準とされた。

[編集] 肩章(将校)

通常礼装参照。軍装には着用されなかった。

[編集] 肩章(下士官兵)

下士官兵用の着脱式の肩章(横長)が制定された。肩章は、冬衣の地質に同じで、星章及び釦は金色金属、下士官の線章は平織黄絹線又は金線。

肩章は、長辺が12センチメートル、短辺を5センチメートルとし、襟側1.5センチメートルの位置に釦(金色金属)を付すと共に狭まり、最短辺は2.7センチメートルである。

下士官は、肩端に平織黄絹線又は金線の線章を付す。曹長・上等兵は星章3個、軍曹・1等兵は星章2個、伍長・2等兵は星章1個(伍長・2等兵は肩端から5センチメートルの位置に星章1個を付す)を付す。将校及び下士官兵の肩章については、俗に「通礼肩章」などと呼ばれる事もあるが、陸軍服装令上では下士官兵に通常礼装と称する服装は存在しないため誤りであり、あくまで制式名称は「肩章」である。

[編集] 上衣細部
  • 軍衣の釦は赤銅から金色金属へ変わる。
  • 下士官兵軍衣は腰部に物入れ(ポケット)がつく。
  • 下士官兵の冬衣は前身頃は総裏地に戻った。下士官兵は冬衣では両脇下に襠を付した。下士官兵の夏衣では襠の代わりに通気孔を設けた。

[編集] 略帽

鉄帽の下に被ることができる略帽(通称は戦闘帽・戦斗帽)が制定されたが軍帽も儀式・外出・常勤時・演習時など従来通り使用された。

鉄帽の下にかぶっても邪魔にならないように、目庇は45mmと短いものとなった。一般の者は横幅26mmの星章(台地について規定はない)、近衛の称呼を冠する近衛師団の軍隊に属する者は星章の周囲を桜葉が囲む形状で横幅50mm、縦38mmの帽章を付した。星章自体の材質は将校も下士官兵用と同じく黄羅紗製が基本的に一般だが、将校の中には金モール製の品を使う者も少なからず居た。

[編集]

将校用には、冬長袴・冬短袴・夏長袴・夏短袴が規定されていた。一方、下士官兵にあっては、袴については、それまで徒歩部隊と乗馬部隊で長袴(スラックス型)と短袴(乗馬ズボン型)を振り分けて支給していたが、下士官兵は短袴に統一され、徒歩兵種でも外出時は短袴にゲートルとなった。

[編集] その他細部

  • 軍刀について、第二佩鐶は廃止され記述も単に「佩鐶」のみとなる。正装時も第一佩環のみで佩く。
  • 外套に帯革留鉤が無くなり通常の剣留になる。

この軍装が使用された主な戦争は次の通りである。

[編集] 昭和18年制式

昭和18年制式。右胸に同年制定の将官隊長章を佩用している(写真向かって第3釦の左隣、瑞宝章の上))。「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する部隊に属する者(栗林忠道の場合は留守近衛第2師団長)の軍帽及び略帽は画像のように星章の周囲に桜葉を用いた帽章を着用する。左胸に中華民國國民政府(南京政府)の一級同光勲章副章、首に勲三等旭日中綬章を佩用している。

[編集] 改正の趣旨

昭和18年制式(所謂「三式」)[11]は1943年に改正された制式である。改正点は、戦況逼迫による軍服の簡略化と、秩序を維持するための階級の明示化である。階級の明示化としては、階級章の大型化や、将校軍衣及び外套への袖章の追加がある。

陸軍予備士官学校出身者など速成の将校には既製服が普及した。釦は金塗装の鉄製でのっぺりしたものとなる。鏑袖(折り返し)の省略、袴は膨らみがしぼみ、鉤ホックやバンド通しの省略、裾開の釦は3つに減る等の省略版が多く見受けられる。下士官兵用は生産・整備を容易にするため大中小の3サイズでの生産とした。一連の流れによる質の低下は続いていたが、昭和18年制式(所謂三式)として、本質的な差異は昭和13年制式(所謂九八式)と比べ基本的には無い。

当時はその時の状況(残品や部品の再利用)や着用者の好みにより、将校軍衣に於いては、昭和18年制式(三式)の袖章は付けても襟章は従来の小型の昭和13年制式(九八式)が利用される(その逆も)といった事が多々あった。

この軍装が使用された戦争は次の通りである。

  • 日中戦争後半(1937年(昭和12年)-1945年(昭和20年))
  • 太平洋戦争後半(1941年(昭和16年)12月8日-1945年(昭和20年))

[編集] 襟章

昭和13年制式(所謂九八式)軍衣では襟章について、階級による大きさに差異はなかったが(縦が18ミリメートル、横が40ミリメートル。)、この改正では、大きさ自体を階級により区別した。

まず、将校の場合、横が45ミリメートルと大きくなった。縦は、将官では30ミリメートル、佐官では25ミリメートル、尉官では20ミリメートルとされた。同時に星章の大きさも襟章自自体の大型化に合わせて拡大された。下士官の場合、長方形となる外は大きさは尉官に同じ。兵の場合、縦が18ミリメートルで、横が40ミリメートルと、従来の昭和13年制式(九八式)の襟章と同じである。

星章の並びについて、昭和13年制式(九八式)軍衣以前は昭和5年制式以前の立詰襟式肩章時代も含め、星章が中央に均等に来るように並べる事になっており、進級の度に階級章全体を買い替えねばならなかった。そこで、海軍の様な簡易的な、進級してもそのまま横に星章を付け足す事ができるように、端から順番に星章を埋めるように改正された。

  • 下記ギャラリーの襟章サイズは将佐尉官に限らず全て均一描写

[編集] 袖章

准士官以上の冬衣、夏衣及に袖章が制定された。袖章は、13年制で外套・雨外套に付された線章と、新たに制定された星章とからなっていた。線章は濃茶褐織紐で准尉は幅4mm線、将佐尉官は幅10mm線で袖の全周に付された。星章は、金線繍、黄絹繍又は黄絨で、茶褐絨の台地が付された。将官・佐官尉官は線章の数(1~3本)で、大中少は星章の数(1~3個)で表した。

例えば、線章2本で星章1個の場合は少佐となった。また、准尉は星章無しの4mm袖章1本のみとなった。

[編集] 胸章

[編集] 航空胸章

制定当初は航空関係の職種に属している兵科将校ないし航空士官候補生のみが佩用する事となっていたが、翌1944年(昭和19年5月9日には航空関係の職種に属する将兵全て(整備兵や技術部航技将兵等も含め)が佩用する事と改正された。

造詣は胸章に合わせた裁断の地の台座布の中央に帝国陸軍の象徴である五芒星章)、囲む様にしての枝(近衛兵の軍帽の帽章に近い様式)、五芒星の下部分にプロペラ、桜枝の両横から長く出た航空機のとなっている。着用位置は軍衣向かって左側の物入れ(雨蓋)の上部分。

胸章のつくりには大きく分けて「モール編み品」と「織り出し品」とがあり、俗に前者を「将校用」、後者は「下士官兵用」と呼ばれているが、当時は必ずしもそうではなく、将校が質素な織り出しの胸章を付けていたり逆に下士官兵が立派なモール編みの胸章を付けていたりするので、単に生産時期によっての事実上の早い者勝ちだったのではないかという説もある。どちらも材質は五芒星と桜枝は金モールないし黄絹、プロペラと翼は銀モールないし銀糸だが、上述の「モール刺繍品」の五芒星は軍帽の星章に近い立体的な金属製であり刺繍品だけあって全体的に見た目は良い。

[編集] 空中勤務者章

上述の航空胸章より一段上の胸章であり、航空胸章が航空関係に属する将兵全般が佩用する物であったのに対し、この空中勤務者章は中でも航空機に搭乗する飛行兵(操縦士や航空機関士、等空中勤務者)のみとなる。造詣は蒼地の台座にデフォルメされたが翼を広げ首を向かって左に垂れていて、宛らナチスドイツドイツ陸軍)の国家鷲章(アドラー)に擬似(着用位置もほぼ同じ)している為、戦後現代では「ドイツ軍の影響を深く受けている形ではないのだろうか」と言われる事が多い。着用位置は航空胸章の上。材質は織り出し品が一般だが、中には私物だろうか金モール編みの物も見受けられる。

[編集] 船舶胸章

航空胸章が改正された1944年(昭和19年)5月9日に制定された。船舶兵といった船舶関係の職種に属する将兵らが佩用。着用位置、材質、つくりは航空胸章に同じ。造詣は蒼地台座の中央に、その上に覆い被さる様にして五芒星、錨両横にとなる。

[編集] その他細部

  • アルマイト製の各隊長章(将官・佐官・尉官による区別があった)が制定された。
  • 胸章を勅令中からも正式に除き、代わりに各部に属する者のために「識別章」を設けた。これを襟章の下部に付することとした。
  • 夏衣の両脇下に通気孔を設けることが認められた。

[編集] 戦時特例

[編集] 昭和19年特例

1944年(昭和19年)12月1日に大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例が制定される。夏・冬衣袴、外套、雨外套、略帽、雑嚢、水筒が省略化された。特例の軍装品は増産に拍車がかけられたが、実際には相当温存された。しかし僅かに着用が確認されている。

[編集] 昭和20年特例
国民服甲乙。

大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例中改正(昭和20年勅令第384号)により同特例が大東亜戦争陸軍軍人服制特例に改められ、軍衣袴の代わりに国民服を使用する事も可能となった。また、近衛部隊は、禁闕守衛勤務に服する場合を除き、桜葉で囲まれた(「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する部隊に属する者の)星章に代えて一般の星章を用いることができるようになった。

[編集] 軍楽部

軍楽部徽章が制定される。
軍楽部軍衣:濃紺絨、襟は緋絨、紺青絨定色襟章、紺青絨の袖章の下に緋絨のフラップが付く。軍袴は緋絨に紺青絨の側章が付く。

[編集] 開襟夏衣防暑衣略装等

  • 昭和13年6月1日陸達第31号により、防暑衣を折襟兼用立折襟と制定した。また、茶褐色の帽垂布が定められた。
  • また、その後、太平洋戦争開戦直前には、開襟平襟式(背広型)の夏衣・防暑衣(略装)も制定された。この開襟平襟式(背広型)の夏衣・防暑衣の前釦は、3~4個である。
  • 開襟夏衣・防暑衣には、開襟シャツないし、ネクタイ併用のワイシャツとを合わせて着用した。

[編集] 根拠法令

[編集] 脚注

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  1. ^ 英国王室においては海軍軍装が優先。
  2. ^ 明治45年勅令第10号による改正。
  3. ^ 昭和13年勅令第392号による改正。
  4. ^ 参考:『日本近代軍服史』太田臨一郎
  5. ^ 明治19年7月勅令第48号による陸軍将校服制改正、明治19年12月内閣達第14号。
  6. ^ 勅令の規則上では、将官の場合、上下端の大線が幅6分(18.2cm)で、間隙(濃紺絨部分)3条のそれぞれの幅は1分(0.3cm)、小線2条のそれぞれの幅は間隙に同じのものとされ、濃紺絨の生地に緋絨の線を4本縫い付けることとなっていた。佐尉官も同様の規定となっていた。
  7. ^ 明治26年勅令第25号。
  8. ^ 明治26年4月6日陸達第36号。
  9. ^ 明治39年勅令第71号。
  10. ^ 陸軍服制中改正(昭和5年勅令第74号)による改正に基づくものである。
  11. ^ 昭和18年勅令第774号による改正に基づくものである。

[編集] 関連項目

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最終更新 2009年11月9日 (月) 04:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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