軍神
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軍神(ぐんじん、ぐんしん、いくさのかみ、いくさがみ)とは:
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[編集] 概要
軍神とは戦勝や武運長久を祈願し、聞き届けてくれるといわれる神を指す。日本では天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を、葦原中国に降されるにあたり、武甕槌神と経津主神が先発して平定したという故事に由来する。また中世、武士の時代になると武家政権の長であった源氏が石清水八幡を氏神とし、各地に八幡神(鶴岡八幡宮など)を祀ったところから、武士達に軍神として崇拝された。その神々を祀った鹿島神宮、香取神宮は特に軍神として崇められるようになる。近代以降になると別に勇猛な戦死者の美称としても用いられるようになった。
[編集] 伝統的な軍神
西洋では、ギリシア神話のアレスやローマ神話のマルスなどが軍神とされる。また中国では蚩尤や関帝などが軍神とされる。
日本では、
などが軍神とされた。
その他の軍神たちについてはCategory:軍神を参照のこと。
[編集] 中世-近世の日本
中世武士の時代になると源氏が石清水八幡を氏神とし、各地の源氏も八幡神を祀ったところから、八幡神を軍神とした。
[編集] 戦国時代の日本
越後の戦国大名・上杉謙信は、あまりの戦上手として軍神と呼ばれ、他の大名に恐れられていた。
[編集] 近代の日本
戦死の記事も参照のこと。 明治以降の日本で、軍神と称された軍人としては乃木希典大将、東郷平八郎元帥のほか以下に列する人々が著名である。公式のものではなく、主にマスコミが尊称として用いていた。軍隊内においても精神的な指導としてもあった。また、この時代は歴代天皇に忠誠を尽くした日本史上の人物も軍神の象徴として神格化された。
[編集] 復興軍神
[編集] 広瀬武夫中佐
日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた海軍少佐(戦死後に海軍中佐。)広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍上等兵曹(戦死後に海軍兵曹長)杉野孫七を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死した。
決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに[1]軍神とされた。のちに唱歌『広瀬中佐』に「杉野は何処、杉野は居ずや」のように歌われた。
[編集] 橘周太中佐
日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長であった陸軍少佐(戦死後に陸軍中佐)橘周太は、首山堡攻略に当り最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げた。特にこの日(8月31日)がかつて東宮武官として側近く仕えた皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の誕生日であったことから、命を賭して首山堡攻略に努めたとされている。彼の戦死もまた『橘中佐』という唱歌に歌われた。
[編集] 肉弾三勇士
第一次上海事変時、国民革命軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した独立工兵第18大隊(久留米)の3兵士のことを指す。昭和期には入って初めての軍神。
- 江下武二 一等兵
- 北川丞一 一等兵
- 作江伊之助 一等兵
東京・芝の青松寺には、彼らの銅像の一部が残されている。
[編集] 九軍神
大東亜戦争中のハワイ海戦(真珠湾攻撃)において、甲標的に乗組み、未帰還となった海軍大尉(戦死後に海軍中佐。)岩佐直治ら以下の9名が軍神とされた。
実は潜航艇は1隻2人乗りで、生存者の酒巻和男少尉は捕虜となったのだが、“生きて虜囚の辱めを受けず”と教える戦陣訓によってこの事実は隠された(所謂“大本営発表”の嚆矢 但しVOAの報道により実態は密かに流布された)。
[編集] 加藤建夫少将
大東亜戦争中のベンガル湾上空におけるイギリス空軍機との空戦で被弾し、1942年に戦死した陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)加藤建夫が軍神とされた。軍神とされた理由としては、加藤は日本軍史上最多の7枚の感状(個人感状・部隊感状合わせ)を受賞の古参の戦闘機操縦者であり、何よりも高潔ながらも愛嬌があり、誰からも信頼されるその人柄の良さ、軍人として優れた指揮官であった事からとされる。また、加藤はその名を配した加藤隼戦闘隊として有名な帝国陸軍飛行第64戦隊戦隊長であり、後に加藤や部下の戦隊隊員達の活躍や最期を描いた戦争映画「加藤隼戦闘隊」が作られ、同隊の部隊歌も有名となった。
[編集] 関連項目
- 軍神神社

