辰吉丈一郎
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 本名 | 辰吉 丈一郎 |
| 通称 | 浪速のジョー |
| 階級 | バンタム級 |
| 国籍 | |
| 誕生日 | 1970年5月15日(39歳) |
| 出身地 | 岡山県倉敷市 |
| スタイル | 右ボクサーファイター |
| プロボクシング戦績 | |
| 総試合数 | 28 |
| 勝ち | 20 |
| KO勝ち | 14 |
| 敗け | 7 |
| 引き分け | 1 |
辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、男性、1970年5月15日 - )は、日本のプロボクサー。ただし、日本では元ボクサー(後述)。岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第24代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「𠀋」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。身長164cm、リーチ178cm、右ボクサーファイター。血液型はB型。両手の握力は50kg以上、左の方が少しだけ強い。入場曲は死亡遊戯メインテーマ(なお、一時期、友人の元光GENJI・諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOE」を使用したこともあった)。
目次 |
[編集] 来歴
ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけを持って大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。
粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。
なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。
1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。
1989年9月29日、韓国スーパーバンタム級2位の崔相勉を2回2分47秒KO勝ちでプロデビュー。プロデビューしたあと、どうしても靴磨きセットが欲しくて万引きしたことがある。
1990年9月11日、日本王者の岡部繁を連打でつめてKOで下し、国内最短タイ記録となる4戦目で日本バンタム級王座を獲得。
1991年2月17日、世界ランカーのアブラハム・トーレスとの試合はトーレスのジャブに最後まで苦しみ辰吉が負けていたとの声が出るほどの大苦戦の末の引き分けとなる。トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議。この試合は世界戦でないにもかかわらず、昼間の時間帯とはいえ当時としては異例の生放送がされた。この試合まで強烈な左のボディブロー、チャンスの時の畳み掛けるようなコンビネーションや華のあるボクシングでこれまでの日本の選手にない強烈なインパクトの勝利を重ね、トーレス戦後に日本最短7戦目で世界を狙っていた辰吉陣営はこの苦戦を目の当たりにし、世間を納得させるためにも世界戦の前にさらにもう一戦をはさむことを余儀なくされる。
1991年5月19日、1階級下の世界ランカー、レイ・パショネスをアウトボックスして判定勝ち。KOできなかった辰吉は泣いて悔しがったが、このときの辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せ付けずにアウトボクシングした試合を評価する声は多い。
1991年9月19日、8戦目で世界初挑戦。グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOに降し、WBC世界バンタム級王座獲得。8戦目での世界王座奪取は国内選手としての史上最短タイ記録。辰吉の他に8戦目で世界王座奪取を果たしたのは新垣諭(JBC未公認のIBF世界バンタム級)と名城信男(WBA世界スーパーフライ級)しかいない。
しかし、同年12月、無敗のWBC世界バンタム級5位、李勇勲(韓国)との初防衛戦に向けてトレーニング中、左眼網膜裂孔が判明し、長期間の休養を強いられる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ、王座陥落。しかし負けたのは、双子の弟「丈二郎」と言い張っていた。
その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。12回判定勝ちを収め、暫定王座を獲得した。
ところが、同年9月、今度は左眼網膜剥離が判明し、暫定王座返上。引退の危機に。しかし、1994年7月2日、ハワイで復帰戦を行い、3回KO勝ち。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられる。
同年12月4日、WBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、12回判定負け。暫定王座から陥落。
その後、1996年3月3日と翌1997年4月14日の2度にわたり、WBCスーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑むが、いずれも敗戦。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。
同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑戦。圧倒的不利の予想を覆し、7回TKO勝ち。約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。試合後のインタビューでは「ファンのために試合をしているわけではないのにこれだけ応援してくれてありがとう」と答えるが、ファンは総立ちで彼の勝利を祝福した。またシリモンコンは減量に失敗しふらふらの状態であったとのこと。その後、シリモンコンは一気に3階級上のスーパーフェザー級まで階級を上げている。
1998年3月8日にはホセ・ラファエル・ソーサ(アルゼンチン)の挑戦を退け、初防衛。同年8月23日には同級1位の指名挑戦者ポーリー・アヤラ(アメリカ)と対戦し、2度目の防衛に成功。
12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦を行うも、6回KO負けを喫し、王座陥落。
1999年8月26日、挑戦者として大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)でウィラポンと再戦するも、7回TKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。
2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。
2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラと対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。
2005年4月16日、日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい[1]。
現在プロボクサーを目指している長男・寿希也(じゅきや)とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]。
しかし、国内でのリング復帰期限である2008年9月25日を迎え、さらに大阪帝拳ジムが辰吉の試合を組む意思がないことを再三に亘って明言しているものの、辰吉本人は一貫して現役に拘っており、「オレはどこでも試合する」と意欲満々である[3]。
そして、同年10月、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たした。
この試合に関して、日本ボクシングコミッション(JBC)は試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。
12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。これに対しJBC側は不快感を示し、近日中にタイ側に質問状を送ることを明らかにした。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は所属する大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉側は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せている。
2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界タイトル戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明している。
[編集] エピソード
- ボクシング番組の解説などでパンチドランカーの症状(呂律が回っていない)を見せている。
- ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。松本によると辰吉が電話口でアニメについて一方的に熱く語る為、松本は相槌をうつだけの電話応対に回っている。
- 交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
- 北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
- 布袋寅泰、イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。
- ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
- 一人称はボク。俺やワイとは決して言わなかったが、最近は「俺」と発言している。
- 公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らず。不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。喧嘩では拳は使わず(理由は相手が大怪我するから)平手打ち(掌底)を使っていたという。本人いわく、これが効果抜群で、フォローに肘打ちを併用すれば文句無しだったらしい。
- 中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。これも恩師の影響が大きかったとか。
- 中学生の頃、下校途中にヤクザに車を横付けされからまれたことがある。その時、「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら車に近づき、隙を突いてキーを抜き取り道路脇の草むらに向かって投げつけ、笑いながら走って逃げたことがあるという。
- 本格的にボクシングを始めて、わずか3回目のスパーリングで国体2位の選手を左ボディブロー一発で倒したことにより辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとのこと。そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在の夫人と出会ったことが、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけとなった。その夫人と夫婦喧嘩になった際、辰吉の顔を打ち据えようとした夫人の平手をスウェーバックで避けてしまい、背後の壁に後頭部を痛打し悶絶する。
- 1987年の沖縄国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が「文句あっか」と言ったのを辰吉が「儲かってまっか?」と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
- 非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。
- タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1997年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
- レフェリーのリチャード・スチールに「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と言わしめた。
- 現在は、大阪帝拳ジムにて現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
- 昔はシンナー遊びの常習者だったことを公言している。だが、シンナー遊びの集合時間に遅刻したときに、仲間たちの狂態を素面で目の当たりにし、「これではいけない」と悟りシンナーをやめたという。
- 一時期、自分の試合のことを「試合ではなく作品です」と語り、作品の完成を目指していたこともある。
- ライバルであったビクトル・ラバナレスのことを「友人である」と語る。そのことについてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。
- 初めて世界タイトルを獲ったグレグ・リチャードソン戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。
- 初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで!」とコメントした。辰吉は父から泥棒でもなんでもいいからとにかく一番になれと言われ、ボクシングの世界で一番になり喜んだ。
- ポーリー・アヤラと対戦した際、バッティングで眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。その際、負けたものと勘違いしたのか、全国テレビ生放送中にもかかわらず、子供のように泣きじゃくってしまった。
- 辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。
- 今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまではことあるごとに「負けたら引退」と語っていた。これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。
- ボクシングアナリストの増田茂によれば、辰吉はオーソドックススタイルであるが実は左利きであることを明かしている。そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとのことである。
- 辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ますべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋太平洋と順番にタイトルを獲ってから世界にいきたいと語っていた。
- ガードが低いことに対しては、「相手のパンチは見えている、当たっているように見えても殺している」と反論していた。対戦したラバナレスはディフェンスはそんなに悪いとは思わなかったと語っていた。
2009年現在、亀田興毅と間違われることがあるという。本人によれば、走っていると、通りすがりのおばちゃんに、弟は元気なん?等と聞かれ、俺は弟はおらんと答える。よく話してみると、亀田興毅と勘違いされたらしい。 薬師寺保栄と雑誌で、対談し、タッくん・ヤっくんで芸能界デビューしないかと誘われる。
[編集] 戦績
- アマチュアボクシング:19戦 18勝 18RSC 1敗
- プロボクシング:28戦 20勝 14KO 7敗 1分
| 戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1989年9月29日 | ☆ | 2R 0:47 | KO | 崔相勉 | プロデビュー戦 | |
| 2 | 1990年2月11日 | ☆ | 2R 2:18 | KO | チャーチュード・エウアンサンパン | ||
| 3 | 1990年6月28日 | ☆ | 7R 2:10 | KO | サミュエル・デュラン | ||
| 4 | 1990年9月11日 | ☆ | 4R 2:51 | KO | 岡部繁 | 日本バンタム級タイトルマッチ | |
| 5 | 1990年12月18日 | ☆ | 2R 3:04 | KO | ジュン・カーディナル | ||
| 6 | 1991年2月17日 | 分 | 10R | 判定 | アブラハム・トーレス | ||
| 7 | 1991年5月19日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | レイ・パショネス | ||
| 8 | 1991年9月19日 | ☆ | 10R 3:00 | TKO | グレグ・リチャードソン | WBC世界バンタム級タイトルマッチ | |
| 9 | 1992年9月17日 | ★ | 9R 1:19 | TKO | ビクトル・ラバナレス | WBC王座陥落 | |
| 10 | 1993年2月11日 | ☆ | 2R 1:55 | TKO | ホセ・ルイス・ベガヒル | ||
| 11 | 1993年7月22日 | ☆ | 12R | 判定2-1 | ビクトル・ラバナレス | WBC世界バンタム級暫定王座決定戦 | |
| 12 | 1994年7月2日 | ☆ | 3R 2:48 | KO | ホセフィノ・スアレス | ||
| 13 | 1994年12月4日 | ★ | 12R | 判定0-2 | 薬師寺保栄 | WBC世界バンタム級王座統一戦 | |
| 14 | 1995年8月26日 | ☆ | 9R 2:59 | TKO | ノエ・サンティヤナ | ||
| 15 | 1995年11月23日 | ☆ | 8R 2:55 | TKO | ヘロニモ・カルドス | ||
| 16 | 1996年3月3日 | ★ | 11R 2:47 | TKO | ダニエル・サラゴサ | WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ | |
| 17 | 1996年12月21日 | ☆ | 10R 1:02 | TKO | フェルナンド・アラニス | ||
| 18 | 1997年4月14日 | ★ | 12R | 判定0-3 | ダニエル・サラゴサ | WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ | |
| 19 | 1997年7月26日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | リカルド・メディナ | ||
| 20 | 1997年11月22日 | ☆ | 7R 1:54 | TKO | シリモンコン・ナコントンパークビュー | WBC世界バンタム級タイトルマッチ | |
| 21 | 1998年3月8日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | ホセ・ラファエル・ソーサ | WBC防衛1 | |
| 22 | 1998年8月23日 | ☆ | 6R 3:00 | 負傷判定3-0 | ポーリー・アヤラ | WBC防衛2 | |
| 23 | 1998年12月29日 | ★ | 6R 2:52 | KO | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | WBC王座陥落 | |
| 24 | 1999年8月26日 | ★ | 7R 0:44 | TKO | ウィラポン・ナコンルアンプロモーション | WBC世界バンタム級タイトルマッチ | |
| 25 | 2002年12月15日 | ☆ | 6R 1:10 | TKO | セーン・ソー・プロエンチット | ||
| 26 | 2003年9月26日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | フリオ・セサール・アビラ | ||
| 27 | 2008年10月26日 | ☆ | 2R 2:47 | TKO | パランチャイ・チュワタナ | ||
| 28 | 2009年3月8日 | ★ | 7R 1:03 | TKO | サーカイ・ジョッキージム |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 現役復帰の経緯と今後の展望
2003年9月以降、2008年10月のタイ国における復帰試合に至るまでの5年余りもの間、辰吉は全く試合を行っていなかった。先述の様に長期ブランクを経て海外で復帰を果たしたものの、現在日本におけるプロボクシング興行に出場するため必要な、JBCの発給するボクサーライセンスは更新・保持しておらず、また後述のように今後も更新・再取得出来ない身分にある。
2007年5月に37歳の誕生日を迎えたことで、JBCルールに基く強制引退の対象となったが、辰吉はWBC世界バンタム級、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内に再起すれば厳しい条件付ながら日本国内での現役続行が可能な立場にあった。とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能な立場にある上、当時所属先であった大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示していたため、実際に特例措置の申請と試合実施は実現しなかった。
そして2008年9月25日をもって上記特例期間が終了し、辰吉は事実上国内での試合出場が不可能となった。今後は、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃、あるいは先述のタイ国での試合出場と同様に、外国のコミッションでライセンスを申請し、日本以外の各地で試合に出場することは今後も可能である。だが、海外のジム所属の“逆輸入”選手として日本で試合を行う際には、JBCに臨時のボクサーライセンスを申請し、これを取得することが必要である。しかし既に強制引退選手の対象となっている上、JBCはタイのコミッションやプロモーターに辰吉に試合をさせないよう求めているため、試合が許可される可能性は低い。
2009年3月8日、再起後2戦目でタイ国スーパーバンタム級1位のサーカイ・ジョッキージムに7R 1:03TKOで敗れた。辰吉は試合後に再戦を希望したが、その後サーカイは福岡県内での試合でKO負けしリング禍の犠牲者に。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| 前王者 グレグ・リチャードソン |
第18代WBC世界バンタム級王者 1991年9月19日 - 1992年9月17日 |
次王者 ビクトル・ラバナレス |
| 前王者 辺丁一 |
WBC世界バンタム級暫定王者 1993年7月22日 - 1994年12月4日 |
次王者 薬師寺保栄 |
| 前王者 シリモンコン・ナコントンパークビュー |
第24代WBC世界バンタム級王者 1997年11月22日 - 1998年12月29日 |
次王者 ウィラポン・ナコンルアンプロモーション |
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最終更新 2009年11月18日 (水) 11:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【辰吉丈一郎】変更履歴

