農業工学

農業工学の最新ニュースをまとめて検索!

農業工学(のうぎょうこうがく、agricultural engineering)は、農学の一分野で、農業に関する課題について、土木工学機械工学を応用して研究する学問農林工学(のうりんこうがく)ともいう。

目次

[編集] 概要

農業工学は土木工学を応用して、灌漑、農業給排水、干拓開拓圃場整備など農業生産社会基盤となる大地に関する問題を扱う学問農業土木学、また、機械工学を応用して、農業機械やカントリーエレベータなど、農産物生産、貯蔵、加工のための機械施設に関する問題を扱う学問の農業機械学とがある。

農業工学の教育と研究をするために、日本の大学の農学部の多くにはかつて農業工学科あるいは農林工学科が設置されていた。農業工学に対する需要の変化に伴って、全国の農業工学科は1990年代に相次いで姿を消した。現在、農業工学科を設置する大学農学部としては唯一、北海道大学大学院農学研究科・農学部があるのみで、下記外部リンクのとおり農業環境工学など他学科との合併または農業工学科単独での学科名の改称が相次いだ。

国家公務員採用I種試験において、「農学II(農業工学系)」は、農業工学を学んだ者を主な対象とする試験の区分である。国家公務員採用II種試験においては、「農業土木」が農業工学、なかでも農業土木学を学んだ者を主な対象とする試験の区分である。

技術士 (農業部門)には、専門科目として、農業土木、農村地域計画、農村環境、などがある。日本技術者教育認定機構のJABEEプログラムでは、プログラム名は「農業土木プログラム」である。


[編集] 歴史

[編集] 農業土木教育の変遷

農業土木教育は、明治の近代化の課程で近代的学制の施行が行われ、近代農業土木もこれまでの水田農業体系を踏まえて成長する制度的基盤が与えられて、欧米の科学技術を輸入しつつ、公的に教育研究する学制を築き上げていく。

前期農業土木は独自の水田農業体系をつくり上げたが、その知識体系のなかでも水利技術などが役人世襲的な行政知識のなかに閉じ込められていて、近代的公教育のなかで一般化される必要があった。

欧米科学技術の輸入に基づく近代学制の創出期においては、日本的水田農業体系は視野の外に置かれていて、前期農水利の知識体系の継承については、武士の解体に伴い制度的には断絶することになる。ただしこの部分は実際のところ、農村の指導層あるいは水利組織等によって受け継がれていった。

札幌農学校は設立時マサチューセッツ農科大学をモデルにして基礎的学理を教授しつつ、極めて実践的な開拓指導者の養成を志向していた。当時の科目には、農業土木学あるいは土地改良学という名前は見出せないが、基礎的科学に加えて、測量学、土工学、経済学農業園芸学等もあげられ、全体としての性格は基礎科学を重視したアメリカ的開拓学の体系であり、いわば今日の農業土木の性格に近い面を持っていたのである。

札幌農学校より2年後開設される駒場農学校の初期の授業科目では、農業土木あるいは土地改良についての授業科目はほとんどなく、わずかに測量土木工学が一年次にあげられるにとどまった。

札幌農学校は、その後、東北帝国大学農科大学(明治40年)、北海道帝国大学(大正7年)と拡充されていくが、アメリカ的開拓学の体系を日本独持の水田農業体系と結びつけて、開拓科学の体系を拡充していくことにはならず、次第に分化を進めて、一般の分化科学を並列させる高等教育機関に変わっていく。札幌農学校の持っていた農業土木的性格は、一方には土木工学に吸収され、他方には農業物理学に継承されている。そのため、近代農業土木学をつくりだす主流とはならずに終わった。

明治19年、駒場農学校は東京山林学校と合流して東京農林学校となる。このときには、農業土木と土地改良論が科目としてあげられた。

明治23年、文部省の憩い要請により、東京農林学校は帝国大学農科大学(後の東京帝国大学農学部)となる。これは農学を単科大学としては認めても、総合大学に属するものではないとしてきたヨーロッパ流の伝統を超えたものであり、日本政府の農学建設への意欲を示すものである。

明治26年、農科大学に講座制が敷かれるが、農業土木学は農学の講座に属する授業科目にとどまる。

ところで当時、田区改正の気運は盛り上がっており、明治20~24年にドイツに留学した農務官吏酒匂恒明は、明治25年に「米作新論」を著し、外国と日本の土地整理の比較を行い、翌26年には「土地整理論」を公刊している。この情勢のなかで学生時代を過ごし、明治28年に帝国大学農科大学を卒業した上野英三郎は、大学院で耕地整理の研究を続け、耕地整理法制定の翌33年に、農学第二講座分担の講師に任命され、農業工学関係の講義を担当することになった。農業土木の大学教育への登場である。

このころ、ヨーロッパの土地整理をモデルにすることについて議論が起こり、横井時敬などによる日本の水田農業体系に照合する耕地整理や土地改良を論説も表れた。農商務省は明治38年の耕地整理法改正を機に耕地整理を奨励、そして耕地整理技術者養成のための耕地整理講習制度を定め、東京高等農学校(東京農業大学の前身)に依頼して中学校卒業者を対象に講習を開始した。

翌39年には、帝国大学農科大学にも依頼、第一種としては在学生または学士、第二種としては高等農林学校卒または高等工業学校土木科卒を対象とし、本格的な講習を行うようになった。これにより、耕地整理受講者という形で、農業土木技術者集団が形成されるようになった。これを基盤にして、明治40年には耕地整理研究会が発足した。これは農業土木技術者集団のソサエティとなり、後の農業土木学会を生む母体となった。

耕地整理新法成立の翌々年(明治44年)、東京帝大農科大学に農業工学講座が認められ、農業土木は近代的学制のなかに正式に位置を占める。ただし耕地整理事業そのものは地主による土地投資が中心であった。したがって、大規模に展開するものではなかったのである。そのため大正3年、耕地整理法はまたまた改正され、湖海の埋立ておよび干拓を加えて、耕地整理とはいいながら、戦後の土地改良の範囲にほぼ近いものになった。

その年から始まった第一次世界大戦(大正3~7年)は,工業の一層の成長、都市の拡大を促し、新たな米需要の増大をもたらした。米騒動(大正7年)を契機として、政府は積極的な食糧増産政策に乗出し、大正8年開墾助成法を発布し、開墾事業に利子補給を行うことを決めた。さらに大正9年には、これまで控えていた朝鮮産米増殖計画を打ち出す。大正10年には、臨時治水調査会が設けられ、農地防災の重要性が強調され、大正12年には用排水幹線改良補助要項が打ち出された。これにより、潅漑排水事業は、国の補助を受けつつ、県営の事業として、中小河川改修も含めて大々的に行われるようになった。

このころ、文部省は特色のある高等農林学校(高農)の建設をめざしていたが、このような背景のなかで農業土木は注目され、大正10年、新設の三重高等農林学校に農業土木学科が初めて設けられた。大正11年には九州帝国大学農学部に農業工学講座が設置され、さらに大正12年、京都帝国大学に農学部を新設する際には,新しく農林工学科が設けられることになり、翌13年、農業工学第一、第二講座が設置された。東京帝大には大正14年に、農業土木学専修が設置される。

この時までの農業土木の成長に常にかかわってきた上野英三郎は、大正14年5月、職務中に倒れ急逝。新しい体制、農業土木教育のスタートを後進に委ねる。上野の偉業を記念して農業土木学会は、昭和46年、農業土木学会賞のなかに上野賞を設けた。

昭和に入ると、一連の国庫補助のほか、昭和4年には開墾助成法が改正され、事業費そのものに補助が出されるようになった。同年には、耕地整理研究会を発展的に解消して農業土木学会が設立され、農業土木学の体制が大学・学会の両面において整う。翌5年には、国営の農業土木事業が始まり、巨椋池干拓事業が着手された。時の蔵相高橋是清(昭和6~11年)は積極的な公共投資政策を打ち出し、諸々の諸政策とともに昭和7年には救農土木事業を大々的に実施する。農業土木の役割が情勢のなかで大きな変化を遂げ、単に作物生育の場を整備する技術にとどまらず、農村振興そのものにかかわる事業となり、また地主の土地・利水条件整備に必要な技術にとどまらず、国民経済発展に向けての財政政策が必要とする事業へと変わる。

昭和10年、東京帝大の農業土木専修は正式に学科として認められ、昭和13年には九州帝大に農業土木学専修が認められた。昭和16年に、農地開発法が制定、農地の開発改良が強力に進められることが決まるとともに、実施機関として農地開発営団が設立する。農業土木技術者の養成は急務となり、同年に宇都宮高等農林学校東京農業大学専門部に農業土木学科が設けられ、翌17年には岐阜高等農林学校にも設立された。

現代農業土木の母体および発展の基礎条件は、戦前の昭和期に形成されたのであるが、戦争へ突入という事態のために、その開花は戦後に委ねられた。

戦後は農地開発営団が解散させられ、緊急開拓事業はこれまでの開墾、干拓、潅漑排水等に加えて集落計画、公共施設計画も必要とした。この期の農業土木は、昭和40年代後半以降に本格的に現れる農村計画、地域計画をいち早く体験している。折から農地改革の実施、その関連において昭和24年土地改良法が制定。土地改良事業の主体が地主から農業者に移されるとともに、土地改良事業への公共の援助が約束され、国営土地改良事業の実施も定められた。

さらにこれまで事業は耕地整理組合(農林省所管)、施設の管理は普通水利組合(内務省所管)と分裂していたのを、土地改良区に一本化された。これらは土地改良を国の施策として重視することを意味し、土地改良発展の制度的整備であった。

このような動きは、農業土木技術者養成にも反映し、終戦直前の盛岡農林専門学校愛媛県立農林専門学校の農業土木科新設に続いて、終戦直後から学制改革期(昭和24年)に向けて、北海道大学農業物理学科(後の農業工学科)をはじめとして新たに4農専に農業土木科が誕生するが、戦後の学制改革は、学制そのものの変革を進め、昭和22年に教育基本法、学校数育法が新たに制定され、農専は次々と新制大学農学部へと移行していく。

[編集] 関連項目

[編集] 農業工学系学科を設置する大学および短期大学

下記 学術(外部リンク) を参照。

[編集] 学術(外部リンク)

[編集] 国の研究機関(外部リンク)

最終更新 2009年10月4日 (日) 08:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【農業工学】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!