近衛師団

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近衛師団
旧近衛師団司令部(現東京国立近代美術館工芸館)
創設 1891年(明治24年)12月14日
1943年(昭和18年)6月1日
(近衛第1師団及び近衛第2師団に改編)
廃止 1945年昭和20年
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務/特性 歩兵
自動車化歩兵(1940~))
所在地 東京-台湾-東京-
-東京(近衛第1師団)
-マレー半島-スマトラ島(近衛第2師団)
編成地 東京
通称号/略称 宮(~1943)
隅(1943~)(近衛第1師団)
宮(1943~)(近衛第2師団)
補充担任 東京師管区
最終上級部隊 第25軍(近衛第2師団)
担当地域 宮城
最終位置 東京(近衛第1師団)
スマトラ島 メダン(近衛第2師団)
主な戦歴 日清 - 日露 - 二・二六事件
宮城事件(近衛第1師団)
マレー作戦 - シンガポールの戦い(近衛第2師団)
  

近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。

なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。(また、「近衛師団」の近衛歩兵連隊とは別に「王室師団」の近衛歩兵連隊があることに注意。)

日本の近衛師団は、東宮皇太子)は近衛歩兵第1連隊付となるのが通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となった。現代の日本で例えるならば、皇宮警察というよりも、むしろ中央即応集団である。

日本以外の近衛師団については近衛兵親衛隊を参照のこと。

時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵砲兵工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。

目次

[編集] 特徴

  • 近衛師団は他の師団と異なり、特定の地域からの徴兵によるのではなく、全国から選抜された兵によって充足されていた。近衛師団に所属することは、郷土の誇りとされ、地方の名士から一席設けられることも多かった。
  • 制服にも一般部隊と違いがあった。
    • 一般部隊は第一種帽(後に正帽)のクラウン部が紺色、明治38年制以前の第二種帽(後の軍帽)の鉢巻が黄色、騎兵の胸飾紐が一般部隊は黒であるのに対し、近衛兵はそれらの部分が赤であった。
    • 一般騎兵の下士官兵用にはドルマン式上着が無くなった後も、近衛騎兵には近衛騎兵下士官供奉服として残された。
    • 軍帽の帽章の五芒星に周囲を囲む桜葉が付いていた。
    • 近衛師団には常に新しい軍服が支給され、その古着は一般部隊へ回された。
  • 近衛歩兵連隊は、近衛歩兵第1連隊が近歩一、近衛歩兵第2連隊が近歩二、近衛歩兵第3連隊が近歩三、といった具合に略称で呼ばれた。
  • 師団編成となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵部隊などが統合されていた。

[編集] 沿革

[編集] 成立前史

江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩長州藩土佐藩(薩長土)に依存する脆弱な体制であった。

そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。

この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組され、「天皇および皇居の守護」という任務が課せられた(この当時の近衛兵については近衛参照)。

1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。

1874年(明治7年)、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊が編成される。

1877年(明治10年)、西南戦争では、鍋田川の戦い、田原坂の戦い、城山の戦いに参加。

1891年(明治24年)、鎮台が廃止され、代って師団が編成されることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加することとなった。

師団編成となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵部隊などが統合されていた。

その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による陸軍の解散まで、各地の戦いに参戦していった。天皇及び皇居の警護に当たった近衛師団は留守近衛師団と呼ばれた。初期は留守近衛連隊が、のちには近歩六などがそれにあたる。

[編集] 歴史

[編集] 日清戦争

日清戦争に従軍、台湾平定(乙未戦争)で先発する。後発した乃木希典率いる第二師団と平定するも、山根信成近衛第二旅団長、北白川宮能久親王近衛師団長をはじめ、多くの戦病死者を出した。

[編集] 日露戦争

日露戦争では第1軍指揮下。長谷川好道率いる近衛師団(近衛第一旅団と近衛第二旅団から構成される)と、 梅沢道治率いる近衛後備混成旅団が出征した。長谷川好道鴨緑江会戦及び遼陽会戦の軍功により朝鮮駐剳軍司令官に就任したため、沙河会戦以降は浅田信興近衛第一旅団長が近衛師団長となった。沙河会戦では旅団長梅沢の功績により、後備近衛混成旅団が「花の梅沢旅団」と呼ばれた。奉天会戦にも参加している。
また、日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、輸送されていた後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘ロシアウラジオストク巡洋艦隊装甲巡洋艦3 隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下千余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。

[編集] 二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件では近歩三から反乱士官を出すも、天皇は「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン」と述べている。詳細は、二・二六事件を参照のこと。

[編集] 日中戦争

1939年(昭和14年)、動員下令、近衛第2師団の前身となる近衛混成旅団となる。近衛混成旅団は第21軍に所属、南支那方面軍として広東に上陸する。近衛混成旅団は「広東作戦」、「南寧作戦」(「翁英作戦」は中止)に参加し、南寧を包囲する中国軍と激戦を展開した。

[編集] 仏印進駐

近衛混成旅団は第五師団や台湾混成旅団とともに、第22軍に所属。仏印進駐を担当する。仏印進駐はヴィシー政権の了承のもと行われたが、小競り合いは存在した。

近歩一・近歩二は、仏印進駐完了後,復員することなる。この復員は、南支那方面軍が事実上廃止(第23軍に改組)され、印度支那派遣軍(司令官・西村琢磨、歩兵団長・桜田武)が復員するのと同時期である。

近衛混成旅団と印度支那派遣軍歩兵団は、両者とも桜田武が旅団長・歩兵団長として指揮をとったので桜田兵団と呼ばれていた。この桜田兵団が留守近衛師団の近歩六などと加わり、留守近衛師団から近衛第一師団となる。 一方、近歩三・近歩四、近歩五等は、河田混成旅団長の近衛混成旅団から近衛師団として南方軍第25軍に所属、タイ王国を経てマレー作戦に参加することとなった。

[編集] 第二次世界大戦

上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、昭和16年(1941年)12月8日から昭和17年(1942年)1月31日のマレー作戦には第25軍に属し、近衛歩兵第3連隊、同第4連隊、同第5連隊及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。

[編集] 改編

1943年(昭和18年)6月1日に、スマトラ島メダン方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団が編成される。更に、1944年(昭和19年)7月18日に留守近衛第2師団を基幹として、近衛第3師団が編成される。終戦時の近衛第3師団は千葉県成東にあって連合国軍の関東上陸作戦(本土決戦)に備えていた。
近衛第2師団と近衛第3師団がそれぞれ作戦地に赴いていたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当した(はずであった)。

詳細は各項目を参照のこと。

[編集] 宮城事件

1945年(昭和20年)8月10日未明にポツダム宣言受諾が決まり、それを天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせることが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛師団長へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの反乱を知り、反乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる(宮城事件)。のちにこの事件は半藤一利(初発表時は諸事情により名義上大宅壮一の名で出版)により『日本のいちばん長い日』として小説化され、映画化も行われた。

[編集] 戦後

ポツダム宣言受諾後、近衛連隊でも軍旗奉焼、復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した(皇宮警察は存続したが、禁衛府皇宮衛士総隊は完全解体されたため)。

また、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。

[編集] 師団長

近衛師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 明治24年12月14日 小松宮彰仁親王  
2 明治28年1月28日 北白川宮能久親王 台湾征討を指揮する。戦病死。
3 明治28年11月9日 野津道貫  
4 明治29年5月10日 佐久間左馬太  
5 明治29年10月14日 黒木為楨  
6 明治30年10月27日 奥保鞏  
7 明治31年1月14日 長谷川好道  
8 明治37年9月8日 浅田信興  
9 明治39年7月6日 大島久直  
10 明治41年12月21日 上田有沢  
11 明治44年9月6日 閑院宮載仁親王  
12 大正元年11月27日 山根武亮  
13 大正4年2月15日 秋山好古  
14 大正5年8月18日 仁田原重行  
15 大正6年8月6日 由比光衛  
16 大正7年8月9日 久邇宮邦彦王  
17 大正8年11月25日 藤井幸槌  
18 大正11年2月8日 中島正武  
19 大正12年8月6日 森岡守成  
20 大正14年5月1日 田中国重  
21 大正15年7月28日 津野一輔  
22 昭和3年2月28日 長谷川直敏  
23 昭和4年8月1日 林銑十郎  
24 昭和5年12月22日 岡本連一郎  
25 昭和7年2月29日 鎌田弥彦  
26 昭和8年8月1日 朝香宮鳩彦王  
27 昭和10年12月2日 橋本虎之助 二・二六事件では宮城警備を指揮する。
28 昭和11年3月23日 香月清司  
29 昭和12年3月1日 西尾寿造  
30 昭和12年8月26日 飯田貞固  
31 昭和14年9月12日 飯田祥二郎  
32 昭和16年6月28日 西村琢磨 シンガポールの戦いを指揮する。
33 昭和17年4月20日 武藤章 昭和18年6月1日近衛第2師団に改称
近衛第1師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和18年6月10日 豊島房太郎 留守近衛師団長から転じる。
2 昭和18年10月29日 赤柴八重蔵  
3 昭和20年4月7日 森赳 玉音放送盤を奪う反乱計画に反対して殺害される。
4 昭和20年8月15日 後藤光蔵 師団の復員を指揮した後に初代禁衛府長官に転じる。
近衛第2師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和18年6月1日 武藤章  
2 昭和19年10月5日 久野村桃代  
近衛第3師団長
代数 補職日 師団長名 備考
1 昭和19年7月18日 林芳太郎  
2 昭和20年5月23日 山崎清次  

[編集] 近衛師団に属した軍人

  • 滋野清彦長州藩):日清戦争時、現役復帰して留守師団長を務めた。
  • 梅沢道治仙台藩):日露戦争では、近衛歩兵第4連隊長から近衛後備混成旅団長となり、沙河会戦で梅沢旅団の名を挙げる。
  • 森林太郎津和野藩):明治31年(1898年)10月-近衛師団軍医部長(陸軍一等軍医正)となる。
  • 土屋光春陸軍兵学校卒):明治時代に近衛歩兵第1旅団長。
  • 鮫島重雄:明治16年2月に近衛師団参謀。明治22年に近衛師団参謀。明治27年6月18日近衛師団参謀長(工兵大佐)。日清戦争中の師団参謀長。後に陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。
  • 白川義則陸士旧1期):明治19年近衛工兵中隊(工兵科下士官)。明治35年2月に近衛師団参謀。後に陸軍大将勲一等功二級男爵。
  • 大谷喜久蔵(陸士旧2期):明治30年10月11日-明治31年近衛師団参謀長(大佐)。
  • 橘周太(陸士旧9期):明治21年(1888年)12月に近衛歩兵第4連隊附となる。明治28年(1895年)12月に近衛歩兵第4連隊中隊長となる。後に陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級を受け、軍神と称えられる。
  • 久松定謨(仏サンシール陸軍士官学校卒(旧11期相当)):明治24年12月に近衛歩兵第2連隊附(歩兵少尉)。明治28年1月近衛師団副官(中尉)。日清戦争に出征。明治30年12月近衛歩兵第2連隊中隊長(歩兵大尉)。大正3年5月11日に近衛歩兵第1連隊長。後に陸軍中将正二位勲一等伯爵。旧 伊予松山藩主。
  • 三井清一郎(陸士6期):明治30年代に近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる(陸軍歩兵大尉)。後に陸軍主計中将従三位勲一等功四級、貴族院議員
  • 真崎甚三郎(陸士9期):近衛歩兵第1連隊長。
  • 篠塚義男(陸士17期):1914年(大正3年)9月歩兵第1連隊中隊長(大尉)。
  • 東條英機(陸士17期):近衛歩兵第3連隊中隊長(大尉)経験あり。後に陸軍大将従二位勲一等功二級。
  • 前田利為(陸士17期):大正12年(1923年)年8月7日-近衛歩兵第4連隊大隊長、後年に近衛歩兵第2連隊長となる。加賀前田侯爵家当主。
  • 阿南惟幾(陸士18期):近衛歩兵第2連隊長。翌年、東京陸軍幼年学校長。二・二六事件に対して幼年学校長として厳しく非難した。後に陸軍大将。終戦時の陸軍大臣。8月15日未明、自決。宮城事件とほぼ同時。(森師団長のように殺害されたわけではない)
  • 原守(陸士25期):近衛歩兵第4連隊長。歩兵第23旅団長を経て留守近衛司令部付。最後の陸軍次官(陸軍中将)。初代第一復員次官。
  • 栗林忠道(陸士26期):昭和18年(1943年)6月-留守近衛第2師団長(陸軍中将)。
  • 李王垠(陸士29期):昭和14~15年(1939~1940年)に近衛歩兵第2旅団長。李王家当主。
  • 小畑信良(陸士30期):1940年(昭和15年)5月~1941年(昭和16年)に近衛輜重兵連隊長として、1942年(昭和17年)2月~1943年(昭和18年)に近衛師団参謀長として勤務。後に少将。
  • 岩畔豪雄(陸士30期):陸軍中野学校設立後、1941(昭和16年)年8月10日~1942年2月3日、近衛歩兵第5連隊長。シンガポールの戦い後、岩畔機関の長、第25軍参謀副長、第28軍参謀長(陸軍少将)。
  • 西久保豊成(陸士33期):大正10年10月26日-近衛歩兵第3連隊附(陸軍歩兵少尉)。
  • 中橋基明(陸士41期):近衛歩兵第3連隊第7中隊。二・二六事件の重要な首謀者の一人。
  • 北白川宮永久王(陸士43期):昭和6年10月-近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵少尉)、昭和12年3月-近衛野砲兵連隊中隊長(陸軍砲兵大尉)。皇族。
  • 小泉親彦(東京帝大医学部卒):昭和7年(1932年)-近衛師団軍医部長(陸軍軍医監(少将相当官))。後に軍医中将となり厚生大臣となった。
  • 黒田長久(東京帝大理学部動物学科卒):第2次世界大戦中、近衛師団に属した。

[編集] 最終所属部隊



[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月14日 (土) 21:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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