逢坂関

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逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)は、山城国近江国の国境となっていた関所相坂関合坂関会坂関などとも書く。

東海道東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。

目次

[編集] 位置

近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。しかし、逢坂二丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

[編集] 歴史

大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された[1]。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年(895年12月3日12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。

逢坂関は鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた[2]。その後、逢坂関は再設されたが、寛正元年(1460年)に伊勢神宮造替のために大津に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており[3]、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。

[編集] 文学への登場

逢坂関は歌枕としても知られ、百人一首でも二つの歌で詠まれている。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第十番)

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第六十二番)

また、枕草子の「関は」の段には「逢坂、須磨の関、鈴鹿の関」と記されている。

[編集] 脚注

  1. ^日本紀略』延暦14年8月15日(795年10月6日)条
  2. ^ 「師守記」同年6月26日
  3. ^ 『三井続燈記』

最終更新 2009年7月19日 (日) 06:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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