連合国軍占領下の日本

連合国軍占領下の日本の最新ニュースをまとめて検索!

連合国軍占領下の日本
日本の国旗
日本商船管理局旗
菊花紋章
準国章: 菊花紋章
ファイル:LocationMapJapan.png
標語 (なし)
公用語 日本語(事実上の公用語)
首都 東京
天皇 昭和天皇
連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー1945年1951年
マシュー・リッジウェイ1951年1952年
内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王1945年
幣原喜重郎1945年-1946年
吉田茂1946年1947年
片山哲1947年-1948年
芦田均1948年
吉田茂(1948年-1954年
通貨
国歌 君が代

連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)とは、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である。

目次

[編集] 概要

日本政府は、1945年8月14日ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。その翌8月15日昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。そして1945年9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、日本は連合国の占領下に入れられた。

降伏文書の調印に先立ち、同年8月28日からイギリス連邦による協力を受け、アメリカ主導で組織された連合国軍による日本への進駐が開始された。その軍政は、アメリカ南北戦争後の北軍による南部の占領政策や、中国の辛亥革命における清室優待条件を模範としている[要出典]

1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に日本政府が調印し、1952年4月28日にその条約が発効し、正式に国家としての主権が回復された。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年4月28日が終戦の日となる。

[編集] 統治

日本の歴史
 表示ノート編集履歴 
アメリカ国立公文書館の計画書による日本の分割統治計画

アメリカ大統領ハリー・トルーマンダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)に任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の大部分はアメリカ軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

日本の間接統治の最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に占領業務を行うこととなった。

[編集] 分割案

第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治となるなど)を計画していた。しかし、天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。

[編集] 政策

連合国軍最高司令官総司令部」も参照

占領初期に掲揚が禁止された日章旗
日本商船管理局 (SCAJAP)旗。占領下の日本商船旗。国際信号旗のE旗の端を三角に切り落としたもの。日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた

[編集] 憲法

日本国憲法」も参照

1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。

象徴天皇制
連合国軍は、皇室に対し改革を行い、天皇は新憲法によって政治権力を失い、多数の皇族が財産を没収され、皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、連合国軍によって殺された皇族はおらず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、進化論の基本概念もまた特に抵抗なく教育されており、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
戦争放棄
憲法に「戦争放棄」を明記して、日本を軍事的脅威たらしめないこととした。日本は後の朝鮮戦争期に、同戦争に国連軍の1国として派兵していたアメリカの意向により戦力を保有することになるが、その解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。

[編集] 政治

東京裁判
連合国は極東国際軍事裁判を通して、「戦争指導者」とされた人物を「処罰」した。併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルグ裁判同様、右派や旧国家勢力のみならず、国際法学者(ラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」や「復讐目的の裁判」や「事後裁判だ」と批判される。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。 「平和に対する罪」などの新しい概念を生み出し、新たな戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげたと評価する意見もある[誰?]
結党の自由と政治犯の釈放
治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ逆コース)。これら左翼政党は保守政党や英米に対し対立姿勢を強めていくこととなる。
財閥解体
「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻ることとなった。
農地改革
地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は保守政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
学制改革
各都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。

[編集] 文化、思想

言論の自由
GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコード、ラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより新聞雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。連合国の批判、占領軍の政策や極東国際軍事裁判を批判したもの、軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。なお、新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止された。プレスコードによる言論統制は依然として存在したが、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった[1]
伝統文化の排斥
軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[2]
世論対策
占領軍として進駐していたアメリカ軍の兵士が、ガムチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。
その一方で占領軍兵士による強盗強姦殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反米感情が起こることを防いだ他、占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。
宗教の自由
第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。

[編集] 領土

外地など領土の剥奪
ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地台湾朝鮮)・租借地関東州)・委任統治区域(南洋群島)を失った。
また内地についても、南樺太千島列島が占領され、南西諸島小笠原諸島伊豆諸島についても施政権が停止された(後に施政権を回復)。
第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で占領していた東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国でもある勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、日本の教育を受けた者や、抗日の独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。宗主国との戦争を経て、ほぼ全ての国が独立した。

[編集] マッカーサーへの手紙

占領期を通じて、日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は復員に関する要望・嘆願、天皇制民主主義に関する意見、などであった。

書簡の一例
一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)

[編集] 年表

凡例

  • 月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
    • 月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
1945年
東京湾に停泊する戦艦ミズーリ上で降伏文書調印(中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣、左後方に侍しているのは加瀬俊一
国際連合が発足
海軍省が廃され第二復員省が発足
1946年
1947年
1948年

逆コースが始まる。

1949年
1950年
  • 1月 地方政治が進駐軍政から離れる。
  • 2月14日 ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
  • この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。
  • 4月25日 池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョゼフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
  • 5月12日 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
  • 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
  • 6月16日 国家地方警察本部(現在の警察庁)、全国のデモ・集会禁止令。
  • 6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年まで)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
  • 7月 小倉で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が憲兵に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった(小倉黒人米兵集団脱走事件)。
  • 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
  • 7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。
  • 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
  • 8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
  • 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
  • 9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
  • 10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。
  • 11月10日 NHK東京テレビジョン実験局、テレビの定期実験放送を開始。
  • 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
1951年
マシュー・バンカー・リッジウェイ将軍
1952年

48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。

日本は北緯29度以南の南西諸島小笠原諸島を残存主権を保持しつつもアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太千島列島朝鮮半島台湾南洋群島を放棄した。

1953年奄美諸島1968年に小笠原諸島、1972年琉球諸島が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。

進駐軍のうちアメリカ軍は、講和成立と共に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」に基づいて駐留継続(在日アメリカ軍へ衣替え)。

[編集] 脚注

[ヘルプ]

[編集] 参考文献

  • 江藤淳、閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本 文藝春秋 平成6年(文春文庫)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
日本の連合軍占領期
外国の連合軍占領期

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月14日 (土) 14:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【連合国軍占領下の日本】変更履歴

ご利用上の注意