遠山一行

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遠山 一行(とおやま かずゆき、1922年7月4日 - )は東京府出身の音楽評論家実業家

日興證券会長遠山元一の長男として東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれ育つ。クリスチャンの家庭であり、一行自身もプロテスタントの信仰で育った。

1929年成城学園小学校に入学。同級に加藤一郎がいた。1933年、いわゆる成城事件(成城騒動)により自主退学し、第2学期から麻布区立南山小学校に転校。1935年府立高等学校尋常科に入学。第1学年2学期からピアノを朴啓成(後の属啓成)に師事。1939年、府立高等学校文科乙類に進学。酒井悌(やすし)にチェロ和声学を学ぶ。1940年から成城学園の合唱団に加わり、ヨーゼフ・ローゼンシュトックの指揮のもとにハイドンオラトリオ『四季』、モーツァルトレクイエム』、バッハマタイ受難曲』などを演奏。1942年東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、属啓成のもとで一時中断していたピアノのレッスンを再開。1943年12月、第1回学徒動員により東部第6部隊に編入され、戦時中は1945年7月から甲府の連隊で暗号教育の教官を務めるなど、1945年9月に復員するまで内地で軍隊生活を送る(この間、1944年9月、入隊中に帝大美学科を卒業)。1946年4月、東京大学大学院に進み、音楽美学を専攻。同年、『音楽する心』が『音楽之友』誌の7・8月合併号に掲載されたところ野村光一に注目され、野村の勧めで10月から毎日新聞に音楽時評を執筆。1948年4月、慶應義塾高等学校講師となり、西洋音楽史を担当(1949年3月まで)。当時の受持ちのクラスに林光がいた。同年9月、齋藤秀雄たちの発議により子供のための音楽教室が開かれたことに伴い、同教室で音楽理論と音楽史を講じる(1951年夏まで)。同年、遠山偕成会長に就任。1949年から1950年まで日興證券監査役を務める。この間、1949年4月にフェリス女学院短期大学音楽部助教授となる(1957年3月まで)。同年5月から東京藝術大学音楽学部講師を兼任。

1951年に渡仏し、聴講生としてパリ音楽院パリ大学に入学。前者ではジャック・シャイエのもとで、後者ではノルベール・デュフルクのもとで音楽史を学ぶ。1957年に帰国。1959年から桐朋学園短期大学教授(~1974年)。この間、1960年12月まで讀賣新聞で音楽時評を担当。

1962年、遠山音楽財団を設立し、理事長に就任。同年、妻子と共に再び渡仏。1963年5月、母が脳腫瘍で歩行困難となったため帰国。

1966年古山高麗雄たちと『季刊芸術』誌を創刊。1976年、『ショパン』で第18回毎日芸術賞受賞。1979年、フランス文芸勲章オフィシエ章を受ける。

1983年、民間人として初めて東京文化会館館長となる。1985年紫綬褒章および中島健蔵音楽賞を受ける。1987年、京都音楽賞受賞。1991年東京芸術劇場館長を兼務。日本音楽コンクール委員長などを歴任。1993年勲三等旭日中綬章受章。1995年から1996年まで桐朋学園大学の学長を務める。1998年文化功労者に選ばれる。

その他の著書に『私の音楽手帳』『いまの音むかしの音』(講談社)や『遠山一行著作集』全6巻(新潮社)などがある。

季刊芸術出版株式会社社長、東京音楽ペンクラブ会長、日本近代音楽財団理事長。遠山偕成と偕成ビルディングの各会長。

妻ともども愛猫家であり、自宅の庭に住みついた野良猫たちに「トンデレラ」「シンデレラ」(1977年当時流行していたキンチョールのテレビCMに因む)などの名を付けて可愛がっていたことがある[1]ジャズ愛好家でもあり、ジョン・コルトレーンマイルス・デイヴィスのファン。特にマイルスについては「アメリカ人のクラシック奏者で、これだけの音楽家を私は知らない」と発言している[2]

妻の遠山慶子ピアニスト。弟の遠山信二指揮者。末弟の遠山直道ダヴィッド社社長。長男の遠山公一は西洋美術史家で、慶應義塾大学文学部教授

[編集] 脚注

  1. ^ 遠山一行『猫好きの話』p.44(小沢書店1996年
  2. ^ 遠山一行『猫好きの話』p.171(小沢書店1996年

最終更新 2009年11月3日 (火) 05:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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