遼隧の戦い
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| 遼隧の戦い | |
|---|---|
| 戦争: | |
| 年月日:236年-238年 | |
| 場所:遼東の遼隧 | |
| 結果:公孫氏の滅亡 | |
| 交戦勢力 | |
| 魏 | 公孫氏 |
| 指揮官 | |
| 司馬懿 | 公孫淵 |
| 戦力 | |
| 4万 | |
遼隧の戦い(りょうすいのたたかい)は、中国の三国時代に遼東の遼隧(現在の遼寧省・海城市)でおきた争乱で、遼東を代々支配し半ば独立政権を築いた公孫氏と魏との大規模な軍事衝突をさす。236年から238年まで続き、結果、公孫氏が滅亡した。
目次 |
[編集] 詳細
公孫氏は、後漢の時代より遼東半島に移り住み、その地で勢力を強めたが、当時の中国歴代の王朝は遼東を絶域としており周辺の異民族との流通交易の一切を行なってこなかった。そのため、公孫氏が代々、半独立の政権を築く流れに拍車をかけていった。のちに後漢末期の戦乱を経て三国鼎立後、一転して国益と隣国への牽制もかねて魏をはじめとする王朝が辺境部族と交流をもちかけるようになると、公孫氏もまた、魏に臣従する姿勢を見せながら呉の孫権とも結ぶなどして局外中立の道を模索せざるを得なかった。そうしたなかで呉は、蜀の北伐を横目に幾度か遼東に周賀と裴潜を送り込もうと謀るも、魏の田豫に敗戦する。これを利用しようと公孫氏の全権・公孫淵は、孫権に使節を送り呉に恭順を示すふりをしながらも、呉からの使者を襲撃し、その首を魏に送ることで、曹叡より楽浪公と専断権を勝ち得るなどして巧みな外交で乗り切った。
[編集] 遼隧での対陣
237年、ついに高句麗と通じ遼東へ出兵した孫権は、魏が派遣した毋丘倹と対陣。毋丘倹は鮮卑らに命じて軍を遼東に駐屯させたことで、孫権は臣下の強まる反発の声をうけ、いったん親征を断念する。この機に、魏は公孫淵に対し上洛を命じたが、公孫淵は断固拒否した。同年、公孫氏は挙兵して遼隧で毋丘倹と戦い、これを撃退する。これを契機として、公孫淵は燕王を称して、年号を紹漢と定め独立政権確立を宣言。周辺の部族を掌握して玉璽を与え、魏との国の境をめぐって抗戦をやめることはなかった。
[編集] 公孫氏滅亡
238年になり、公孫氏の台頭に業を煮やした魏の曹叡は、太尉の司馬懿を4万余の兵とともに公孫淵征伐に遼東に派遣した。公孫淵もまた、卑衍・楊祚らに数万の軍を率いさせて遼隧に派遣した。公孫淵は、遼隧に数十里(『三国志』には二十里、『晋書』には六・七十里ほどと記されている)の塹壕をほり、司馬懿の軍を迎え撃ったと言われる。司馬懿が遼東に到着すると、公孫淵は卑衍に司馬懿を迎え撃たせたが、司馬懿は胡遵らを派遣して卑衍を破った。遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だと見た司馬懿は、いちど東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻。公孫淵は、遼隧に残した軍をやむなく撤退させ都の守備に当たらせたが、この後は次第に防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲される。
同じ頃、公孫淵は孫権に謝罪とともに援軍を求める使いを出したとされる。しかし、長雨の時期にさしかかり兵糧も底をつきてしまったため、公孫淵は人質を出して落ち延びようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕え、処刑。その子公孫脩、一族も次々と討たれ、こうして遼東公孫氏は滅ぼされた。
その戦後処理で司馬懿は、魏に対する反抗勢力を再び生まぬためもあり、一帯に生き残った15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡き骸で京観を作ったことが知られ、後世に伝わる。
[編集] その後の影響
- 遼東を支配していた公孫氏が滅亡した同じ年、倭国が魏に使節を派遣。奇しくも、公孫氏の支配が遼東半島から消滅した事で、日本はこの時点より中国大陸の文化に触れることが可能になった。
- 遼東公孫氏を滅ぼした魏は、その後も手を緩めず完全に遼東半島を勢力下に置き、ついには高句麗とも国の境をめぐって衝突するようになった。244年、魏は毋丘倹を送り、高句麗侵攻のすえに陥落させるまでにいたる。
最終更新 2009年10月28日 (水) 14:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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