郡上一揆
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郡上一揆(ぐじょういっき)とは、江戸時代、美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で発生した、大規模な一揆である。別名、宝暦騒動、宝暦郡上一揆。約4年にわたる一揆であり、この騒動の結果、老中はじめ 幕府指導者数人が免職、郡上藩主は国替となる。このように、農民のみならず、幕府、藩の大量処罰の例は他には無く、「唯一農民が勝った一揆」とすら呼ばれている。
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[編集] 経緯
[編集] 一揆のきっかけ
宝暦4年(1754年)、郡上藩主金森頼錦は、藩の財政難を解消するために、年貢の取り方を、それまでの定免法から検見法に変えようと考える。同年2月、藩が庄屋たちを呼び出し、年貢の取り方を、検見取りに変えることを命じる。同年7月、農民たちは年貢制度に反対し、那留ヶ野(現、郡上市白鳥町)に集まり嘆願書をつくり、藩に差し出す。同年8月、庄屋を中心にして、代表が、中桐村の南宮神社(現、郡上市八幡町初音)に集まり、傘連判状をつくって団結を固め、藩に検見取りの取りやめを願い出る。さらに何千人とも言われる多数の農民が藩の役所に押しかけ、「十六ヶ条の願書」を差し出すという強訴を行った。郡上藩の3人の国家老はその願いを聞き入れ、江戸の藩主に伝えることを約束した書状を農民たちに渡した。
しかし郡上藩は、財政再建の為には検見法しかないと考えた。そこで、「検見法」は郡上藩も幕府から命令されているという立場をとることを密談により画策した。 幕府からの通達役として勘定奉行の部下の役人、美濃笠松(現在の羽島郡笠松町) の美濃郡代代官、青木次郎九郎が任命される。
[編集] 駕籠訴の決行
宝暦5年(1755年)7月、笠松代官所で青木次郎九郎より「検見法」の執行についての申渡しが庄屋たちに言い渡される。これは役職権限外のことであった。庄屋が拒否を申し出ようとすると、足軽達によって打ち据えられそうになったため、庄屋はやむをえず「検見法」を受諾する書面に押印してしまった。さらに代官は一年前に渡した十六ヶ条のお墨付きと三家老の免状を返すよう命令した。
同年8月、郡上藩に2名の飛脚役が派遣され、このお墨付きと免状を持ち帰ろうとする。しかしこの事は事前に村々に触れていたこともあり、飛脚は母野(現、郡上市美並町)で村人達に追いつかれ、免状は行方不明となる。免状がなくなった罪で、小野村半十郎、組頭弥兵衛、飛脚の孫兵衛・甚十郎は村預けとなる。さらに青木次郎九郎に反抗的であった橋詰村庄兵衛が捕らえられた。 また、笠松郡代からの命令書をもった庄屋代表と足軽が郡上へ向かっていることを知った村人たちは母野に陣取り、「検見法」を承諾しその命令書をたずさえた庄屋達が郡内に入るのを食い止めた。 そして再び村人の有志70人余りが那留ヶ野に集まり、傘連判状をつくって団結し、江戸にいる藩主金森頼錦に願い出ることを決めた。
同年9月、村人代表40名が郡上藩の江戸屋敷に行き、前の「十六ヶ条の願書」に加え、「十七ヶ条の願書」を出す。村人代表40名は監禁された。さらに郡上藩の農民への取締りが厳しくなり、数千人いた一揆運動参加者は500人まで減少してしまう。このころ、一揆賛成派を「立百姓」「立者」、一揆反対派、裏切り者を「寝者」と呼ぶようになり、村人内での対立が起きる。そこで立百姓は関(現関市)の新長谷寺付近に拠点を移した。
同年11月には代表5人(善右衛門、長助、喜四郎、定次郎、藤吉)が、江戸城大手門前で、駕籠で登城する老中酒井忠寄の行列に嘆願書をもって飛び込むという駕籠訴を決行する。5人は取り調べを受けた後、宿預けとなる。 1756年(宝暦6年)4月、郡上郡全体の115か村代表による傘連判状がつくられた。 同年8月、江戸の評定所や北町奉行所で、駕籠訴の取り調べが行われ、代表5人はお咎めの無いまま、12月に郡上に送り返され、庄屋預かりとなった。
宝暦7年(1757年)6月、 前谷村定次郎、切立村喜四郎の名で立百姓たちが団結を固めるよう呼びかけるおふれが回る。これは、「寝者たち本人とその子供や家来とは、たとえ路地で出会っても決して挨拶もしてはならない。この回状を村々で写しておき、仲間のひとりひとりに読み聞かせるように。」という厳しいものであり、寝者やその家族は疎外されてしまうことになる。
同年12月、立者の太平治の釈放をめぐって甚助と由蔵が中心となり郡上八幡城下で暴動が発生。甚助が捕らえられ、順当な裁判もなく打ち首となった。
[編集] 歩岐島騒動
宝暦8年(1758年)2月24日、一揆推進派の組織分裂を目論んだ藩の足軽や寝者たちが、歩岐島村(現、郡上市白鳥町)の一揆のまとめ役の一人、四郎左ェ門の家に押し入り、 大切な帳面や金銭などを奪いとった。これに怒った近隣の立者(一揆推進派)たちは、二日後に歩岐島村に集まり、 足軽五十余人との間で大乱闘となる(歩岐島騒動)。この騒動を利用し、駕籠訴を行ない軟禁されていた喜四郎と定次郎は脱走し、吉十郎、吉郎治を伴い江戸へ向かった。
同年3月、9人の村人たちが北町奉行所へ再度嘆願書を提出したが、取り上げられずに終わる。そこで、喜四郎、定次郎は関で活動していた四郎左ェ門らと連絡を取りあった。
[編集] 箱訴の決行
喜四郎、定次郎は、最後の手段として箱訴の計画をすすめ、四郎左ェ門に代表6人を江戸に向かわせるよう連絡をとった。同年4月2日、郡上からの6人の代表(治右衛門、伝兵衛、藤次郎、太郎右衛門、孫兵衛、弥十郎)が目安箱に訴状を入れ、箱訴を決行する。
[編集] 裁判開始
同年6月に、郡上藩預かりの越前国大野郡石徹白村(現郡上市白鳥町)でおこった石徹白騒動の箱訴も重なったこともあり、ついに幕府は郡上金森藩の本格的な調査を開始した。同年7月20日、老中酒井忠寄は寺社奉行阿部正右を長とする 五人の詮議掛を任命し、郡上金森藩を詮議した。翌日から12月25日まで、ほとんど毎日取り調べが行なわれ、老中、若年寄、三奉行など幕府役人、郡上藩主金森頼錦、藩役人、そして美濃国郡上郡、越前国大野郡石徹白村の村人数百人に及んだ。この審議には、将軍徳川家重からの特例として、将軍の側衆であった田沼意次も参加している。
同年8月、江戸に身を隠していた喜四郎、定次郎、吉十郎、吉郎治は北町奉行依田和泉守政次の役宅へ訴状をもって訴え出た。4名は直ちに入牢となる。
[編集] 役人への判決
同年10月、幕府役人への判決が言い渡される。主なものは以下の通りである。百姓一揆が原因で老中など幕閣や藩主が免職や改易になったのは、江戸時代でこの郡上一揆のみであった。
- 老中 本多正珍 - 免職
- 若年寄 本多忠央 - 領地没収(遠江国相良藩)
- 美濃郡代代官 青木次郎九郎 - 免職
- 郡上藩藩主 金森頼錦 - 領地没収・お家断絶 盛岡藩預かり
- 郡上藩の役人も、死罪、追放、遠島などが言い渡される
[編集] 農民への判決
郡上の農民は、江戸での長期の牢獄生活とさらにきびしい詮議と拷問で21名が獄中で病死した。同年12月25日、26日に判決が下された。主なものは以下の通りである。
- 定次郎 - 獄門
- 四郎左ェ門 - 獄門
- 喜四郎 - 獄門・牢死
- 善右衛門 - 死罪
- 長助 - 死罪
- 藤吉 - 死罪
- 治右衛門 - 死罪
- 伝兵衛 - 死罪
- 藤次郎 - 死罪
- 太郎右衛門 - 死罪・牢死
- 孫兵衛 - 死罪
- 弥十郎 - 死罪
- 由蔵 - 獄門
- 吉十郎 - 三十日手鎖
- 吉良治 三十日手鎖 など
- その他、百人以上の村人が、死罪、追放、遠島、役職取り消し、過料銭などの処罰が課された。
[編集] 郡上一揆の後
郡上金森藩取り潰しの後、宝暦8年(1758年)10月から岩村藩藩主松平乗薀が郡上八幡城を預かることとなった。同年12月、丹後国宮津藩から青山幸道が4万8,000石で入った。青山氏の支配は その後明治維新までつづく。一揆の原因である検見法について翌年から実施されることになるが、農民たちの願い出により一定期間定免法のままの村もいくつかあったという。
この郡上一揆を記念して、郡上市一円には、「宝暦義民碑」「郡上義民碑」など、一揆に加わり犠牲になった農民たちを記憶にとどめるための記念碑が数多くある。義民を最も多く出した郡上市白鳥町では、白鳥踊りの時に、義民の功績を称える「宝暦義民伝」が踊られる。郡上市白鳥町には「郡上宝暦義民太鼓」という太鼓が演奏される。これは「傘連判状太鼓」「直訴太鼓」「乱闘太鼓」「踊り太鼓」の四場面で構成された太鼓で、当時の農民姿に扮し面をつけた演者が演奏するものである。
[編集] 映画
『郡上一揆』(2000年公開)
- 製作・配給:映画『郡上一揆』製作委員会
- 監督:神山征二郎
- 脚本:加藤伸代、神山征二郎
- 原作:こばやしひろし「郡上の立百姓」
- 音楽監督:和田薫
- テーマ音楽:姫神「大地炎ゆ」
- キャスト:緒形直人、岩崎ひろみ、古田新太、前田吟、山本圭、篠田三郎、林美智子、日色ともゑ、須藤温子、犬塚弘、平泉成、樋浦勉、並樹史朗、高橋長英、内藤武敏、尾美としのり、河原崎建三、永島敏行、林隆三、加藤剛 ほか
- 製作プロダクション:神山プロダクション
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年10月7日 (水) 04:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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