郷士
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郷士(ごうし)とは、江戸時代にあった武士身分の階級の一つをさす歴史学用語。幕府・各藩により身分や支配の実態が異なる為、共通する定義を打ち立てるのは難しいが、一般的に農村に居住(在郷)する下級武士を指す。苗字帯刀を許されており、出自がはっきりしている者も多い。
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[編集] 概要
通常、江戸時代における武士は原則的に城下に集住する(こちらを城下士あるいは藩士という)のに対し、村(在、または在郷)に住む武士を呼ぶ。身分は概ね城下に住む武士(藩士)より下、百姓より上という身分的中間層である。
郷士を大きく分類すると次のようになる。
- 兵農分離以前に武士身分であった者が武士身分を維持しながら農村に居住し続けたケース。
- 百姓、町人身分であった者が武士身分へ取りたてられたケース。
- 富商、豪農など百姓・町人身分であった者が、大名家に対しての献金や新田開発の褒美として士分としての郷士に取り立てられた者。これら富商、豪農も出自は地侍、改易された戦国大名の一族や家臣である事が多い。
- その他
- 下級武士がその低い身分故に城下で家禄のみによって生計を維持できず、城下郊外又は農村で農業を営むことを許されたケース。
- 特別の所以があるもの(十津川郷士など)。
以上は郷士となった経緯によって分類したものだが、これらに共通する本質的な性質は以下のように整理できる。郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の4点を併せ持つ者としている。
- 城下士とは明確に区別され、在郷していること
- 所持地の全部、または一部を「知行」として与えられ、生活の基礎をそれに置くこと
- 家臣団の身分階層性のなかに「郷士」(名称は各様)として正式に位置付けられていること
- 軍役を負担すること(但し、負担しない場合もあり)
また、木村は郷士と混同されやすく、しかも郷士とは言い難いものとして以下の者を挙げている。これらは郷士という存在を考える際に別物として除外する必要がある。
- 城下士でありながら、なんらかの事情により在郷している者
- 陪臣にして在郷している者
- 大庄屋など上層農民で苗字帯刀御免など武士並の格式を許可された者
特に混同しがちなのは3点目の上層農民や豪商などで苗字帯刀御免など武士並の格式をもつ者であろう。この場合、生活の基礎はあくまでも農民的土地所有や商業にあり、また家臣団には入っていない。
このような郷士身分ではないものの苗字帯刀を許された特権的な百姓・町人は全国的に存在した。百姓身分ではあるが、彼らは地域の有力者として支配の末端に位置する庄屋などの村役人に任ぜられたり、あるいはその子弟が足軽(薩摩藩)として用いられたりした。支配の末端に連なるその役儀や藩財政への貢献ゆえ、特権として苗字帯刀を許されたのである。彼らの中には、非公認の自称や私称として「郷士」を名乗る者も存在したが、制度ではなく私称であるので、学術的に郷士を考える際に混同すべきではない。
また、郷士内においても、細分化された階層に分かれている場合がある。例としては、旧族郷士と取立郷士の別や給地・知行高、村役の有無などである。代々郷士の身分格式を世襲した郷士の他に、一代郷士として一代限りの郷士とされた者もいる。
なお、他の各時代・国において正規の武士、騎士より下位の軍事的特権階級を郷士と表記することがある(英国のEsquire、スペインのhidalgo等)。
[編集] 郷士の例
[編集] 水戸郷士(水戸藩)
徳川御三家のひとつ、水戸藩においても多くの郷士が登用された。平安時代末期以降、関が原の戦いまで常陸国の大名であった佐竹氏が約500年近く支配した領国においては、撫民的な意味合いや藩政の円滑な施行において土着の土豪の力は無視できず、徳川頼房、徳川光圀の代には、早くも旧佐竹氏の一門 大内氏、西丸氏、長山氏や、佐竹家臣であった大森氏、蓮見氏、野口氏、益子氏などの郷士が登用された。当初は佐竹氏の一門旧臣など、家柄が重い旧族郷士が多かったが、江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は次の類型にわけられるという。戦闘員たる郷士として、特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士にわけられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた。
しかし、水戸藩の郷士は役職の上下を別にして藩士と同列であり、その身分はきわめて重く藩の財政のために身分を切り売りするような政治手法は水戸藩にとり潔しとするものではなく、献金郷士は廃止の方向に進んだ。一方で水戸藩郷士はこれまでの郷士を本郷士とし登用に際してはきわめて厳格な措置をとる一方、郷士格、郷士列、郷士並といった新たな階級が定められ、郷士格は10石、郷士列は7石または無給、郷士並は7石、5石、または無給とされた。なお、郷士としての身分は格式代官列に並ぶことが最も栄誉とされ、御徒列、小十人列など郷士の中でも様々な身分が定められたという。
一方、幕末に入ると、黒船来航など西欧列強の外圧が強まると、藩内に尊王攘夷の機運が高まり、尊王や藩のために奔走する義民が多く現れ、彼らを賞するために郷士または郷士並に登用される例が見られた[1]。
[編集] 原方衆(米沢藩)
米沢藩上杉家は豊臣政権下では120万石の大大名家であったが、関ヶ原の戦いで30万石に減封された。しかし、家臣の召し放ちを行わなかったことから財政が逼迫した。更に1664年(寛文4年)には、3代藩主上杉綱勝が嫡子なく急死した。本来なら改易になるところを、吉良義央の子綱憲を末期養子に迎えることを特別に許されたが、更に石高を半分の15万石とされた。石高が半減したのに、また家臣の召し放ちを行わなかったため、没収された福島城に詰めていた下級藩士には知行を全くまたは家計を維持できない程度しか与えられない代わり、米沢城城下の郊外に屋敷の他に農地が当てられた。彼らは普段は農地の経営に専念でき、臨時の軍役にのみ従事すればよいとされた。このような下級武士を原方衆と呼んだ。なお、幕府に提出する城絵図には原方衆が居住する地域も武家地と明記されている。
宝暦5年(1755年)の地方の百姓による城下豪商宅の打ち壊し事件の首謀者は原方衆であった。
[編集] 土佐郷士(土佐藩)
関ヶ原の戦い以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣一領具足層を懐柔するため郷士に取り立てた。一方、掛川衆や山内侍と呼ばれる上士は、山内一豊が掛川城主だった時からの家臣や土佐入封前に大坂牢人を取り立てたものである。土佐藩における郷士は武士とはいえ、他藩に比べると徹底した差別下にあったため土佐藩上士とは同じ藩士とはいえ潜在的には対立、敵対関係にあったとされる。幕府や藩の権威が衰えた幕末には土佐郷士達の多くが尊皇攘夷運動に身を投じた。
著名な人物には土佐郷士をまとめ土佐勤王党を結成した武市半平太や、海援隊の結成や薩長連合の斡旋、大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬、初代衆議院議長の中島信行がいる。
また藩には土佐郷士の懐柔政策の一つとして、特別な家系や功績によっては上士扱いの白札とする制度があった。武市半平太は白札であった。
[編集] 肥後郷士(熊本藩)
実際の名称は郷士とは言わず在中御家人と呼ばれた。はじめは農村行政等の必要性から前領主、小西・加藤氏の帰農遺臣や土豪に士格を追認したのは他藩と同様である。また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせた。こうした例に「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。
また江戸時代中期以降、熊本藩は献金に応じ郷士格を乱発する傾向となり、昇格する格式によって金額まで定められ藩の収入の一部ともなり「寸志御家人」として制度化された。それによって与えられる身分は、「一領一匹」と「地士」以外は概ね「足軽格」程度であり、献金郷士は「カネ上げ侍」と陰口され、明治以降もそれらの子孫で士族となった者は「カネ上げ士族」といわれた。
[編集] 薩摩郷士(薩摩藩)
旧族居付大名であるため、外城制の存在などに見られるように中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは異なり、戦国時代における国人、在地武士、そして島津氏の九州統一戦で傘下に入った武士等が郷士として家臣団に組み込まれた。そのため、外城士とも呼ぶ。参勤交代、軍役等、果たす役目は、一般の藩士と同じである。
江戸時代初期は、鹿児島城下に住む武士は「鹿児島衆中」、外城士は所属する郷によって「出水衆中」や「国分衆中」と呼ばれ、大した区別はされておらず、大島代官附役などに郷士が任命されることも多かった。しかし、中期以降(特に島津重豪の藩政改革以降)、「鹿児島衆中」は「城下士」と呼ばれるようになり、「城下士」と「郷士」の間には厳格な身分差意識が誕生したといわれる。但し、その後も城下士との間に養子縁組や移籍による身分の移動や通婚関係はあった[2]。また、城下士が分家後に鹿児島から他郷へ移住し、郷士となる例も多かった。逆に、一族から藩主の側室を輩出したことにより、郷士から城下士に格上げされた例もある[3]。
更に、郷士内部でも身分の上下があり、上中級郷士は麓と呼ばれる武家屋敷街に住み、事実上地方行政を取り仕切った。また、上級郷士ともなると多くの農地山林を抱え[4]、さらに薩摩藩では武士同士の石高の売買が出来た[5]ために、持高制限[6]一杯まで石高を買い集めるなどして、身分は低くとも城下士以上に豊かな者が多かった。が、大半の郷士は無高であった(無高郷士)。これらの郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。
明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったと言われる。その後、城下士出身者の多くは郷里・鹿児島を離れ、藩閥の力で中央官吏や軍人として立身を目指し、一方の郷士出身者は警察で派閥を形成した[7]。また、中央に出られない者は地元で公務員、教師、警察官や消防吏員の道に進むものが多かった。戦前の鹿児島県においては新政下で「平民」に置かれた者がこれらの公職に就くことは至難の道であったといわれる[8]。昭和20年(1945年)の敗戦によりGHQのてこ入れがあるまで、鹿児島県政のこの政治構造は変わらなかった[9]。
[編集] 著名な郷士
- 中馬重方(薩摩藩)
- 坂本龍馬(土佐藩)
- 武市瑞山(土佐藩)
- 高山彦九郎
- 河野広中(三春藩)
- 清河八郎(庄内藩)
- 芹沢鴨(水戸藩)
- 八木源之丞
- 斎藤弥九郎
- 高木兼寛(薩摩藩)
- 寺島宗則(薩摩藩)
- 大浦兼武(薩摩藩)
- 赤崎貞幹(薩摩藩)
[編集] 脚注
- ^ 瀬谷義彦著『水戸藩郷士の研究』(筑波書林、2006年) ISBN 4-86004-064-3 参照。
- ^ 『島津家列朝制度』参照。
- ^ 田布施郷士であった江田氏及び田布施郷士や加治木郷士であった二階堂氏が島津綱貴の側室を輩出した縁で城下士になり、後に家老を輩出している。
- ^ 但し、これは制度上、石高に算入しない土地であった。
- ^ 本来違法だが、平民に売るものもいた。また、郷士と城下士間の売買も禁止されていた。
- ^ 薩摩藩では身分により持高が制限されていた。
- ^ 初代警視総監・川路利良が身分の低い与力出身で、城下士より郷士に同情的であったためと言われる。事実、立命館大学の山崎有恒の調査に寄れば、西南戦争以後、鹿児島県出身者の警視庁への採用率は大幅に上がっているという。京都新聞気になるリポート
- ^ 本富安次郎(旧長岡藩出身)の『薩摩見聞記』には「地元の役人、教師、警察官、みなこれ士族なのである」と驚きを持って書かれている。
- ^ 『鹿児島県の歴史』(山川出版社)、その他。

