里見氏

里見氏の最新ニュースをまとめて検索!

里見氏
120x120px
二つ引両
本姓 清和源氏新田氏
家祖 源義重
種別 武家
出身地 上野国碓氷郡里見郷
主な根拠地 安房国
著名な人物 里見義実里見義弘
支流、分家 斯波氏、船田氏、大井田氏、正木氏、尾崎氏、竹林氏、山本氏、小原氏、粟屋氏、竹林氏、山本氏、小原氏、仁田山氏、太田氏、古山氏、牛沢氏、大島氏、鳥山氏蜂須賀氏、伊賀氏、堀内氏、海保氏、豊岡氏、富岡氏、田中氏今西氏、小沢氏、真崎氏、久永氏、田井氏、木戸氏、木部氏、金野氏、北角氏、西塚氏、馬場氏、木山氏、中屋氏、吉野氏、中村氏、藤沢氏、正木氏、東条氏、天津氏、中里氏、中沢氏、小谷氏、鍋田氏
凡例 / Category:日本の氏族

里見氏(さとみし)は、房総地方を領した戦国大名本姓源氏家系源義重を祖とする新田氏庶宗家

目次

[編集] 里見氏の起こり

里見氏は贈鎮守府将軍新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とし、別名「大新田」氏ともいう。里見の名は新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に移り、その地の名を苗字としたことに発する。また系図によると新田竹林六郎太郎とも称していることから新田荘内にも所領を持っており、里見氏の本拠を竹林(高林)郷とする研究もある。鎌倉時代になると、義俊の長子里見義成源頼朝に仕えて御家人となった。義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍した。

鎌倉時代末の里見義胤(義俊7世孫)の代になると本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加。新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、戦後越後国守護代に任ぜられた。南北朝の動乱では一族が南朝方・北朝方に別れ戦ったが、南北朝統一後にその一部が鎌倉公方に仕え、上野国常陸国などに所領を与えられた。しかし里見家基が結城合戦において鎌倉公方足利持氏の遺児、春王丸・安王丸)方についたため、足利義教の命を受けた幕府軍の攻撃を受け滅亡した。

その後、詳細は不明だが家基の子息、里見義実安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。これが安房里見氏の祖とされている。しかし、安房里見氏初代義実・二代成義を架空の人物とする説もあり、安房里見氏の出自は不明な点も残っている。また、近年では天文の内訌によって、嫡流家を倒して宗家の地位を奪った里見義堯とその子孫による系譜の改竄が行われたとする見方が濃厚となっている。

[編集] 安房里見氏

戦国時代になると里見氏は関東副帥関東管領の異称)もしくは関東副将軍を自称して安房一国を確実に掌握していった。永正5年9月25日に安房国一宮鶴谷八幡宮に納められた棟札には「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」の名とともに「副帥源義通(里見義通)」の名が記されている。これは安房里見氏3代目とされる里見義通の実在性と安房支配の確立を示す明証であると考えられている。その後の古河公方家の内紛に際しては、小弓公方足利義明を奉じ、上総下総相模へたびたび侵入し、後北条氏をはじめとする反小弓公方派の大名国人と争う。大永6年11月26日里見実堯里見義豊とする説もある)が三浦郡鎌倉郡へ侵入し、鶴岡八幡宮を焼き、玉縄城下で北条方と戦った時も小弓公方の意向に従ったものであるとされている。

天文2年(1533年7月27日、里見義豊が里見実堯を討ち一時実権を握るが、翌年4月6日には実堯の実子の里見義堯が、後北条氏の与力を得て、里見義豊の籠もる稲村城を落し、義豊を自害に追い込み家督を継いだ。この一連の内紛を天文の内訌(稲村の変)と呼ぶ。近年では、庶流である里見実堯・義堯父子による宗家に対する下克上の一環であったとの見方が強まっている。このため、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」と呼んで区別する研究家もいる。

その後、里見義堯は後北条氏と手を切り、再び小弓公方方につく。その後は後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を混じえた。このころの里見氏は第一次国府台合戦第二次国府台合戦における大敗、後北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜けた。そして次第に上総へと勢力を拡大していった。

義堯の跡を継いだ里見義弘は越後の上杉氏、甲斐の武田氏と同盟を組み、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになった。そして天正5年(1577年)には、たびたび干戈を混じえた北条氏政と和睦し、最盛期を迎えた。

義弘が天正6年(1578年)に死ぬと、お家騒動や上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いに勝ち、里見氏の当主となった里見義頼豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得る事に成功する。

義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原の役における遅参・惣無事令の違反により秀吉の怒りを買い、上総・下総を没収された。このとき徳川家康がとりなした事により、以降里見氏は徳川氏と誼を通じるようになる。

その後関ヶ原の戦いで功を挙げ常陸鹿島にて3万石が加増された。また、義康の弟の里見義高上野板鼻藩主に任じられた。だが、慶長18年(1613年)に里見義高が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となった。しかし実際は、彼には100人扶持ほどの糧米しか与えられておらず、配流と同じ扱いだった。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。

実際には、忠義には正室に2人の女子がいたほか、側室に3人の男子がいたといわれている。これについては、跡継ぎがいないとの理由は幕府の口実であるとする説と里見氏再興の旗印を必要としたために一族あるいは家臣の子を偽って「忠義の子」としたとする説の両説がある。忠義の子であるとされている里見利輝は、もと家臣の印東氏に育てられたという(前述のように忠義の子であることを疑う説もある)。子孫は越前鯖江藩間部氏に仕えた。他の子も子孫を残しており、それぞれ150俵取りの下級旗本や他家に仕官したという。一方、忠義の叔父義高は改易後、酒井家に預けられ、子孫は出羽庄内藩の家臣として仕えている。

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』はこの安房里見氏の初期を舞台に家臣達が活躍する物語である。

主要な家臣として正木氏がいる。

[編集] 安房里見氏・歴代当主

  1. 里見義実
  2. 里見成義
  3. 里見義通
    里見実堯(※1)
  4. 里見義豊
  5. 里見義堯
  6. 里見義弘
    里見梅王丸(※2)
  7. 里見義頼
  8. 里見義康
  9. 里見忠義
  • ※1…本来実堯は甥である義豊の後見人とされており、「里見氏九代」とする場合、歴代当主には含まない。また、近年では当主・後見人であったとする記録も後世の創作とされている。
  • ※2…義弘の嫡男。近年では正式な里見氏当主であったとする説が有力である。

[編集] 系図

 新田義重
  ┃
 里見義俊
  ┣━━━┓
  義成 田中義清
  ┣━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━┓
  義基 大井田義継 鳥山時成 豊岡義行 義直(出羽里見氏)
  ┣━━┳━━━┳━━━━┓
  義秀 氏義 牛澤重基 太田義宗
  ┣━━━┳━━━━┓
  忠義 栗屋基秀 高林時秀
  ┃
  義胤
  ┃
  義連
  ┣━━━┳━━━━┓
  基義 山本胤幸 仁田山氏連
  ┣━━┓
  家兼 満俊
  ┣━━━┳━━━┓
  家基 堀内満氏 家成
  ┃
  義実
  ┣━━┳━━┳━━━┳━━━┓
  成義 成頼 義秀 中里実次 元迎
  ┣━━━━━━━┳━━┳━━━┓
  義通      実堯  義富 東条義倫
  ┃       ┃      ┃
  義豊      義堯    横小路堯重
  ┣━━━┓   ┣━━┳━━┳━━┓
  家宗 小倉貞通 義弘 堯元 堯次 義政(水戸藩士)
          ┣━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━┓
          義頼 義重(里見梅王丸) 正木義俊 薦野頼俊
          ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┓
          義康 正木時茂 正木義断 正木忠勝 康俊 義高
          ┣━━┓
          忠義 忠堯
          ┣━━┳━━━━━━━┓
          利輝 貞倶(旗本) 広部義次
          ┃
          義安
          ┃
          義旭(間部家仕官)
          ┃
          義孝

[編集] 大井田氏

義継とその子の氏継が、越後魚沼郡大井田郷(新潟県十日町市)を領地としたことから始まる。大井田氏は越後新田党をまとめ、新田義貞が数十騎で挙兵した際には、経隆が越後より二千騎の軍勢で参上し、義貞軍の中核として鎌倉攻めに加わった。建武新政からは経隆の次男氏経(式部大夫、弾正少弼)が義貞配下の将として勇戦し、湊川の合戦での敗北の後、越前に拠った義貞を救援すべく越後で二万の兵を集めたが、義貞の戦死の報を受け瓦解してしまった。この後、本拠の大井田城が足利方の大軍の攻撃を受け、かろうじて滅亡はまぬがれたものの、小土豪として続くことになる。 戦国時代は長尾氏の台頭と共に、特に近隣の上田長尾氏と関係を深め、氏景は長尾政景の弟、景国を娘婿とし、上杉景勝の幼少時の守役も氏景の弟が務めた。景勝が上杉家当主となってからは、景国と子の基政は側近として上杉家中でも重きをなしたが、天正18年(1590年)に突如、景国は切腹を命じられ、基政は乱心により他家預かりとなり断絶した。 大井田氏の名跡は、親族の島倉俊継が継ぎ、以後も米沢藩士として続いた。

[編集] 出羽里見氏(天童氏)

里見義成の次男 義直の家系に出羽国に移住して勢力を築いた一流がある。

南北朝時代出羽国成生庄に扶植した里見義景は子がなく、同じ源義国の家系で足利氏の一門斯波家兼の三男・天童義宗を養子とした。里見義宗は家督を継ぐと天童氏と称し、里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大していった。こうして新田系の家系ながら足利氏の血をひくこととなった天童氏は上之山氏、東根氏、鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立していった。南北朝時代から室町時代にかけての出羽国南部は斯波家兼の次男・最上兼頼にはじまる最上氏が国人を統合し支配圏を固めており、兼頼の実弟の養子入りした天童氏に対しても従属化を求めるようになる。しかし、天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であることから一定の独立を維持してきた。天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し、最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していった。

最上義光が羽州探題として勢力を拡大していくにつれ、天童氏にも従属化を求めるが天童氏がこれに従わなかったため、最上と天童の間で戦が起こった。停戦に及んだ義光は天童との講和を結び、天童氏の娘と婚姻。縁戚となった油断をついて天童氏を滅ぼしてその家臣団をも吸収した。以後、天童氏の一門や配下は最上家臣として最上家の覇道に貢献してゆくことになる。

[編集] 水戸藩士里見氏

里見義堯の五男に里見義政がおり、その五世里見義冬が水戸藩士となった。その他、出羽・里見氏の傍流に水戸藩士となった家系がある。主家・天童氏の滅亡により最上家臣となった里見一族は、最上家の勢力拡大に貢献するも、最上家親の代に御家騒動が勃発し、江戸幕府の命により改易されてしまった。最上家臣であった里見義親は、改易によって松平筑前守に再仕官したが、主筋の山野辺義忠水戸藩に仕官したのに伴い、自らも水戸藩に仕官することとなった。子孫に幕末の志士里見四郎左衛門親長がいる。親長は戸田三衛門忠之の娘と婚姻し、嫡男の親賢が生まれる。親長・親賢親子は、縁戚である水戸藩家老戸田忠太夫安島帯刀兄弟とも関係が深く、尊皇攘夷に邁進、天狗党の乱にて諸生党の攻撃を受けて討ち死にしている。

[編集] 庶家

天童氏 - 出羽国の有力国人。足利氏系の斯波家兼の三男天童義宗(里見義景の養子)が家祖)

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月12日 (木) 07:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【里見氏】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!