重松通雄
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛媛県 |
| 生年月日 | 1916年9月16日 |
| 没年月日 | 1979年12月26日(満63歳没) |
| 身長 体重 |
179cm 68kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1936年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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重松 通雄(しげまつ みちお 1916年9月16日 - 1979年12月16日)は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
越智中学校から1936年に創立したばかりの阪急軍へ入団。1939年に自身初の二桁勝利となる13勝を挙げた。1941年に召集され、1942年に大洋軍で復帰。1944年に再び召集され、終戦後の1947年に金星スターズで再びプロ野球に復帰した。1950年は西日本パイレーツに在籍[1]、同年選手引退。
翌1951年からパイレーツと合併した西鉄ライオンズの二軍監督へ就任。その後も西鉄で投手コーチを務めるなど1969年までコーチとして在籍した。二軍監督・コーチ時代は鉄拳制裁をも辞さない指導から「鬼軍曹」として恐れられ、後に自身も鬼軍曹として知られる河村英文の著書「西鉄ライオンズ―最強球団の内幕」でも当時のエピソードが取り上げられている。また、同書では、重松が「日本初のアンダースロー投手である」という旨の発言をしたエピソードも紹介されている(日本初のアンダースロー投手については、西鉄時代の同僚である武末悉昌説もある)。
なお、日本プロ野球は1937年 - 1940年、1942年 - 1944年に、規定投球回ではなく規定登板数を採用していたが(1939年は規定完投数)、重松は1937年秋シーズンに防御率7.20を記録している。これは現在も規定投球回(規定登板(完投)数)到達者としてはプロ野球のワースト記録となっている(1年1シーズン、および規定投球回制の下でのワースト記録は、2004年に斉藤和巳が記録した6.26)。
[編集] 背番号
- 22 (1936 - 1940)
- 20 (1942 - 1943)
- 18 (1947)
- 14 (1950)
[編集] 通算成績
234試合 63勝82敗 投球回数1343 356奪三振 防御率3.06
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.22~ :1950年6月28日、藤本英雄の完全試合達成時にパイレーツの先発投手であった。
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最終更新 2009年11月2日 (月) 05:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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