野末陳平
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野末 陳平(のずえ ちんぺい、1932年1月2日 - )は、日本の放送作家、政治家、経済評論家。元参議院議員。野末陳平事務所代表。静岡県出身。
[編集] 略歴
東京都立西高等学校、早稲田大学文学部東洋哲学科卒業。大学時代は道教研究家として有名な福井康順に教えを受け、研究者として誘いがあるほどの秀才であったという。”陳平”の名は、実在する中国秦末から前漢に活躍した陳平から採ったと思われ、中国の古文・歴史・思想についての著書を多数出版しているが、元々師匠の福井が道教の専門家だったためか、道家よりの姿勢が目立つ(ちなみに前漢の陳平も道家であり、また老子や儒教についての著書もある)。
本名は野末和彦であったが、選挙活動をする際に本名より有名なペンネームの陳平に本名を変えた。ちなみに、姓名判断については著書を出すほど造詣が深く、フリーアナウンサーの「みのもんた」の名付け親としても有名である。
野坂昭如と「ワセダ中退・落第」として新宿松竹文化演芸場で週刊誌漫才をやった事がある。
三木鶏郎が主宰していた冗談工房のメンバーとして、1950年代後半からテレビ、ラジオの構成作家として活躍。放送作家ブームと共に脚光を浴び、サングラスをトレードマークとして、同窓で同業の野坂昭如と共に「黒メガネ族」とも言われた。後年のイメージからは考えられないが若手女性タレントに対し下ネタを連呼する役どころで娯楽番組に出演する事もあった。テレビ司会者や俳優、ラジオパーソナリティとしても活躍。余勢をかって当時隆盛していたピンク映画にも出演したこともある。
1971年に参議院選挙で初当選し、以後当選4回(海江田万里を秘書として雇用)。税金関連のエキスパートである。無所属から、新自由クラブを経て税金党を結成、代表となる。しかし、党勢が振るわず、1990年にそれまでの反自民の立場から一転して自由民主党に入党し、有権者からは変節と批判された。その後の政界再編では新生党、新進党へと移るが、最終的にはこれも離党して無所属となり、「政界渡り鳥」として所属政党を転々とした。
1995年に任期満了となって政界を去り、翌1996年に大正大学教授となる。1998年、自由連合顧問就任。1999年の東京都知事選挙に出馬し、乱立する有力候補の一人となったが、のちに出馬を取り下げて舛添要一候補の応援に回った。2002年に勲二等旭日重光章を授与される。2003年、大正大学を定年で退職。
立川談志の「立川流」にもBコースとして入門し、「立川流野末陳平」の高座名を貰っている。2008年8月まで、東京MXテレビの「談志・陳平の言いたい放だい」に談志と共に出演していた。
なお、税金党の比例区当選者が死去したため、繰り上げ当選した星野朋市も新進党までは行動を共にしたが、星野はその後も新進党に留まった。1995年参議院選挙では比例18位と当選圏外に置かれたが、再選。さらに自由党、保守党に移籍した後引退した。野末の自著『国会議員、人とお金のお作法』(講談社)では、名指しこそしていないが星野を批判しており、両者の関係はしっくりいっていなかったと思われる。
最近は東京の自宅と琵琶湖の老人ホームを行ったり来たりしていると自身のブログで言っている。
[編集] 外部リンク
- 野末陳平オフィシャルページ「野末陳平の半蔵門通信」
- 野末陳平通信(本人のブログ)
最終更新 2009年11月24日 (火) 13:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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