野村沙知代
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野村 沙知代(のむら さちよ、本名同じ、旧名:伊東 芳枝(いとう よしえ)、1932年3月26日 - )は、日本のタレント。愛称は「サッチー」。星座は牡羊座。血液型はB型。
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[編集] 家族・親族
夫はプロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルス前監督の野村克也。
実子に元プロ野球選手の野村克則、アメリカ球界代理人の団野村(野村克晃)、ケニー野村(野村克彦)がいる。
[編集] 来歴
- 若い頃より、東京の田園調布出身でコロンビア大学留学、元皇族等と自称しており、1996年10月、国会議員に立候補したが落選した(後述)。しかし実弟の伊東信義、次男のケニー野村らにより以下の経歴が暴露されている。沙知代は福島県西白河郡西郷村に生まれ、一年後に一家で上京し、東京市荒川区に在住。父の伊東巳之吉は東京市内でバスの運転手をしていたという。1944年3月、東京都荒川区立第二瑞光国民学校(現在の荒川区立第二瑞光小学校)を卒業後、一家で故郷の福島県に疎開し、旧制福島県立白河高等女学校(現在の福島県立白河旭高等学校)に入学しようとするも、結局白河市の電電公社に電話交換手として就職。つまり大学には入学していないばかりか受験資格さえ持っていないことになる。電話交換手の職は長く続かず、終戦後10代のうちに家出、東京に戻り、しばらく実家とは音信不通となる。東京に戻った沙知代は新橋にあった第一ホテル(現在の阪急阪神第一ホテルグループ第一ホテル東京)に出入りした。終戦後東京の主要ホテルのほとんどがGHQに接収され、米軍の将校たちの宿舎となっていた。第一ホテルも同様であり、沙知代は第一ホテルの厨房で皿洗いのアルバイトをしながらホテルに滞在する。しばらくすると実家に手紙を送ってくるようになり、妹や信義を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートやコーラを与えたり、後には妹や信義の学費の援助もするなど、家族関係は悪くなかったという。東京での住まいや生活の子細は家族に明かさなかったものの、信義によれば米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったので、彼らに媚を売ることで糧を稼いでいたと思われる。また沙知代は現在も英語をある程度理解することが出来るが、この頃米兵と接する過程で覚えたものである。沙知代はこうした生活を進駐軍が撤退した1952年頃まで5年以上続けていたという。
- 実弟伊東信義によると、幼少の頃より虚言癖があったそうである。「自分は伊藤博文の家系」と、全くの別姓でありながら言いふらしていたという(読みは同じだが、漢字表記が別)。また、万引きの常習犯で、度々警察沙汰を起こしていた、とも後述の自著の中で信義は明かしている。
- マスコミの調査によると、沙知代は地元で電話交換手の職についていた頃、地元のミスコンテストに「電話交換手 伊東芳枝(住所は白河市)」として出場。優勝し「ミス白河」に選ばれ、地元新聞に写真入りで紹介されているという。その後間もなく電話交換手を辞め家出したようである。
- 第一ホテルで知り合った米軍将校と1957年に最初の結婚。前夫との間に団(ダン)、ケニーが生まれた。沙知代は喫茶店兼スナックを開業したが家事も仕事もせず、前夫が店を処分して一家でアメリカに渡るも、間もなく日本に帰国して事業を興し、後に沙知代の脱税の舞台となる株式会社ディーアンドケイを設立。1960年代に日本でブームとなっていたボウリングに目をつけ、前夫の縁故を頼りにアメリカからボウリング用品を輸入する仕事を始めた。しかしその後前夫と別居し沙知代一人で仕事をするようになる。沙知代はこの仕事を通じて実業家小佐野賢治や堤清二の知遇を得たとされ、英語を話せたこともあり、堤の紹介で茶道裏千家出身の評論家塩月弥栄子の秘書となった。塩月の秘書として通訳や経理などを担当していたが、塩月の名前で勝手に買い物をしたり、塩月の著書の印税を横領したとの疑いをかけられ解雇された。このように政界・財界等に人脈を広げる中で、当時プロ野球界きってのスター選手の一人であった野村克也と知り合い、1973年7月には克也との間に克則が生まれた。その後1976年5月に前夫と離婚が成立、1978年4月克也と結婚した。克也も前妻と離婚しての再婚である。
- ケニー野村は子供の頃、初詣に行った際、賽銭箱に入らなかった現金を拾い集めるよう命令された。それも、高額紙幣を狙う様に言われた上、多数の神社仏閣で繰り返させられた。
- 伊東信義が、自著を出版する以前の週刊誌へのインタビューで語った話によると、沙知代は未婚のまま生まれた克則を父・巳之吉の子、即ち信義の弟として籍に入れようとしたという。その後、野村が認知している。また、そのインタビューの中では、沙知代の前夫が離婚後自殺した事や、それに責任を感じた巳之吉が前夫に戒名を与え供養した事、野村の前夫人がその後病死した事にも触れていた。
- ありもしないことで選手に激怒したり勝手にロッカーを出入りしたりするなど当時在籍した南海ホークスでの沙知代の評判は悪く、後の野村更迭の原因にもなった。選手起用に口出しする事も多く、助監督ならぬ“女監督”と揶揄されたほどであった。
- 少年野球チーム「港東ムース」のオーナーを務め、選手の親も含めた厳しい指導(暴力も含む)で知られた。ムースを退団した選手への仕打ちとして、他のチームや学校に圧力をかけ、その後野球を続けられなくなったり、親には持参金や土産を強要したりするなどの行動をとったことが、一時はワイドショー番組で大々的に報じられた。次男のケニーが独身時代、後に妻となる女性の息子がムースに所属していたが、このケースで野球が続けられなくなったことを、ケニーは自著で明らかにしており、ケニーが絶縁する大きな理由となっている。このチームには中日ドラゴンズの井端弘和、埼玉西武ライオンズのG.G.佐藤、北海道日本ハムファイターズの須永英輝も所属していた。
- 克也との結婚時の騒ぎ以来その存在はある程度世間に知られていたが、1980年代から「野村克也の妻」としてマスコミにたびたび現れるようになり、タレント活動をはじめる。克也が監督を務めたヤクルトスワローズが1992年以降複数回にわたってセ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇をなし遂げたことなどにより、1990年代には沙知代もテレビ、ラジオ、雑誌等に頻繁に登場した。1995年には三男野村克則がヤクルトに入団するなど家庭の話題も多く、全国で講演会を開くなど活動の場を広げ、「猛妻」「猛母」として知られるようになる。
- 「森田一義アワー 笑っていいとも!」のレギュラー出演者となった1996年からいわゆるサッチー騒動が勃発する1999年にかけてはタレントとして最も活発に活動し、「全盛期」を迎えていた。その横柄な態度や特有の威圧感から世間の好感度は決して高くはなかったものの、乱暴な言動や単なる悪口が「歯に衣着せぬ物言い」「社会のタブーに挑戦する発言」などとマスコミにもてはやされた[1]。ワイドショーなどがその毒舌を取り上げ、ことあるたびにコメントを求めるなど「ご意見番」としても遇されていた。時には政治や社会問題についても発言していたことから、衆院選候補者に擁立される動きが出るまでに至ったのであった。
- 1996年10月20日施行の第41回衆院選に東京5区から新進党公認候補として立候補するも、第3位で落選(得票43347、惜敗率51.1%。同選挙区の当選者は自由民主党前職の小杉隆、得票84731)した。選挙前の9月21日、当時の新進党党首小沢一郎が自ら野村邸を訪問し、沙知代に「あなたは広く国民の意識を代弁できる方です、私たちが目指す政治改革に是非参加して頂きたい」と出馬を要請した。この選挙において新進党は小選挙区同党公認候補の比例代表へ重複立候補を原則として認めない方針で臨み、選挙区事情などからごく一部の候補者のみ特例措置として重複立候補を許可したが、沙知代は比例代表東京ブロックにも重複立候補した[2]。比例名簿第6位にランクされたものの、こちらも落選となった。なお東京ブロックでは5位の候補者まで当選したため、沙知代は比例代表次点となった。次点であったことがその後大きな影響を及ぼすことになった。
- 落選後も引き続き芸能活動を続けた。1997年には「快傑熟女!心配ご無用」の「熟女」(回答者)に起用され、1998年には東京都の遊園地「としまえん」のポスターに、水着姿でメリーゴーラウンドに乗って登場。同様のテレビCMも放映された。
- 1999年、克也が阪神タイガース監督に就任。克也が出演したキリン「ラガービール」の関西地区限定テレビCMに声のみ出演した。
[編集] サッチー騒動
- 1999年3月31日、「大沢悠里のゆうゆうワイド」(TBSラジオ)のレギュラーを降板した女優の浅香光代が、同日の放送中に以前舞台で共演し、非常に親密であると見られていた沙知代に対し、「ふざけるんじゃないよ。いったい何様のつもりだってえの」と強烈に批判。浅香の発言を受けた沙知代は講演会で「どうせ売名行為でしょ」「金持ち喧嘩せずよ」等と発言。このやりとりから始まったとされる、いわゆるサッチー騒動が、長期にわたってテレビのワイドショーを賑わせた。タレントのデヴィ夫人・十勝花子・美輪明宏のほか、落合博満夫人の落合信子や、浅香の夫世志凡太、更にかつてハワイ滞在中などに沙知代に容姿に関するかなりの悪口を言われ面罵されたという元フィギュアスケート選手の渡部絵美らが沙知代批判派に回り、一方、日本料理人の神田川俊郎や占い師の細木数子、テレビプロデューサーのテリー伊藤らが沙知代擁護派に回るなど、各界を巻き込む騒動となった。
- 騒動勃発前後から、以前より月刊誌『噂の真相』などで取り沙汰されていた婚歴やコロンビア大学留学(沙知代の著書『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』では「コロンビア大学精神心理学部卒業」「元同時通訳者」と明記) 等の経歴に関する疑惑が再燃。実弟の伊東信義や長男のダン、次男のケニーの証言などが取り上げられ、経歴問題は騒動の中心となっていった。浅香の批判も経歴問題に及んでいたが、この疑惑に関して沙知代は当初目立った反論をせず沈黙、週刊誌『フォーカス』の取材に対して「読売(東京読売巨人軍)の陰謀だ」「コロンビア大学ではなくコロラド大学に留学した」などと答え、話をはぐらかし、マスコミの取材からも逃げ回っていた。疑惑が持たれていた経歴は1996年の総選挙時に選挙公報に掲載した経歴そのものであったことから公職選挙法違反の疑いも出たが、1992年の第16回参議院議員通常選挙において虚偽の経歴を掲げて当選した新間正次と異なり、沙知代は落選し議員ではなかったため、当初この件に関する捜査当局の動きは特になかった。
- 1999年3月、統一地方選挙東京都知事選挙に自由民主党衆議院議員の柿澤弘治が党の方針に反して立候補。選挙に際して衆議院議員(東京都第15区)を辞職した。このため補欠選挙が行われることとなったが、1996年10月の衆院選において新進党から比例代表東京ブロックに立候補(比例第2位)し当選、当時自由党衆議院議員であった東祥三が立候補を表明。東は現職の衆議院議員であったが、既に新進党が解散していたことから、自身の地元である小選挙区東京15区での鞍替え当選を意図したのである。東が立候補するためには衆議院議員を辞職することになるが、仮に東が辞職した場合、旧新進党の比例名簿はそのまま有効であることから、次点であった沙知代が繰り上げ当選することになる。東の動向によっては沙知代が国会議員になる可能性が出てきたため、にわかに重大事に発展しかねない事態となった。浅香が沙知代批判を口にしたのも沙知代の繰り上げ当選の可能性が高まっていたことがきっかけで、浅香は「あんな人が代議士になったら私は許さないよ。とんだ税金の無駄遣いだ」と沙知代批判を始めたのであった。しかし補欠選挙には主に自民党の意向により与党統一候補(当時は自自公政権)として自民党都議会議員の木村勉の擁立が決まり、東は自由党党首小沢一郎の指示に従い立候補しなかった。東の立候補断念は表向きには与党の足並みを乱さないための配慮であり、また以前から衆議院議員を辞職して直ちにまた衆議院議員の選挙に出馬することになる鞍替え立候補自体への批判があったことが要因だが、沙知代が繰り上げ当選した場合に発生したであろう批判や不都合、経歴詐称により直ちに公職選挙法違反で捜査開始となる可能性を小沢らが懸念したための判断であった。
- 以後政界に飛び火することはなかったものの、次期総選挙までは沙知代が繰り上げ当選する可能性はなお残っていた。1999年7月、選挙公報などに虚偽の経歴(コロンビア大学留学、1972年に克也と結婚した、等の経歴)を公表したとして浅香光代らが公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で東京地方検察庁に計7件の告発を行った。日本テレビ系ワイドショー「ザ・ワイド」の取材で、コロンビア大学の同窓会による卒業生名簿に「伊東芳枝」「野村沙知代」の名前がないことは判明していたものの、捜査員が渡米しコロンビア大学で調査した結果、大学の事務当局には当時の留学生の学籍原簿や単位認定記録等が残っておらず、経歴を詐称しているという証拠は見つからなかった。また克也との関係は克則の誕生日等から1972年には既に事実婚であったと認定された。同年10月1日、全件とも嫌疑不充分により不起訴処分となったが、その後沙知代は繰り上げ当選の権利を辞退する意向を表明した。
- この結果、沙知代の選挙立候補について、小沢一郎の候補者選定についての責任を問う声が上がった。1999年7月19日、沙知代が公職選挙法違反の疑いで告発されたことについて小沢は記者の質問に答え、「新進党は色々な皆さんのグループが合同してつくった政党でして、それぞれの方々の各界の方々を候補者として推薦して頂きました。今、あなた方が一所懸命、話題にしている野村さんのことの事実関係については私は存じ上げておりません、詳しくは。また事実かどうかの確定もなされておらないと思います、今も。ですからその意味でそのことに関しての論評する立場ではありません。色々その当時、各界各層の皆さんから候補者を推薦して頂き、私が最終的にお願いに行ったことは事実ですけれども。」「他の政党にもいっぱい色んな候補者いたでしょ、いるでしょ、今でも。だからそれぞれ、それぞれがその時々皆の方々の推薦で、結果として、私が立場上、私は野村さんをそれ以前知らなかったし、私がすべて全部何百人の候補者のことを全部何から何まで知った上でやるっちゅうものではありませんから。組織体としての、そして特に新進党は色んなグループの組織が集まった方の中からそれぞれの方を推薦してもらっているわけですから、自民党にもいくつも色んな事実として確定した事件を起こした方もありました。ほかの政党だってあります。今、野村さんが別に何のあれもしたわけではありませんし。その当時いろんな皆さんが好意的に推薦してくれて最終的に候補者になった。私が最終的にお願いに行った。それでいいんじゃないですか。」等と述べ、自身に責任はないとの認識を示した。
- 繰り上げ当選の可能性による重大な問題があったものの、騒動が始まった直後はタレント達の口喧嘩の類と見なされており、これを面白がった人々などにより沙知代の講演会やイベントは大盛況となっていた。しかし浅香が沙知代を公職選挙法違反で告発する構えを見せると状況が変化。違法行為を行った疑いのある人物を役所が招待するわけにはいかないとして、1999年5月に予定されていた埼玉県狭山市主催の講演会は中止となった。更に狭山市と同日に千葉県木更津市主催の講演会をダブルブッキングしていたことが発覚し、木更津市側が激怒。次第に沙知代への批判が高まっていった。
- 1999年6月には実弟の伊東信義による暴露本『姉野村沙知代』が発売された。
- バッシングが最過熱していた1999年7月、日本テレビ系列の番組『おしゃれカンケイ』にゲストとして出演した際、番組唯一のスポンサーである資生堂が商品イメージを損ねるとして、その回だけスポンサーを降板するという事態が起こった。この時、番組は、当時放送していた日本テレビのドラマの番組宣伝で繋ぎ、スポンサー無しだったにも関らず、関東地区25.7%、関西地区22.5%(ビデオリサーチ調べ)の番組史上最高視聴率(関東・関西共に)を獲得した。
- 1999年7月20日、CDシングル「SUCH A BEAUTIFUL LADY」をインディーズレーベルから発売。当初は同年6月30日にワーナーミュージック・ジャパンからの発売が予定されていたが、発売が延期となっていた。
- 沙知代は「エッセイスト」としても活動していた。1985年8月、処女作となったエッセイ『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』(潮出版社)を発表。同著作は同年の第4回「潮賞」ノンフィクション部門特別賞を受賞した。しかしサッチー騒動が始まると、沙知代の経歴への疑惑からゴーストライターの存在などが取り沙汰される騒ぎとなった。こうした中、当時・潮賞選考委員の本田靖春が月刊誌『現代』1999年9月号(8月発売、講談社)において、自身の連載「私の同時代ノート」に「野村沙知代に賞を与えた不明を恥じる」を発表。「彼女が世に出るきっかけにつながっているとしたら、私は不明を恥じるばかりでなく、いささかなりとも責任を感じずにはいられない」と自己批判し、後に選考委員を辞任した。一方同じく選考委員であった筑紫哲也と柳田邦男は沈黙したままであった(その後、柳田も本田同様に辞任し、後任には猪瀬直樹と鎌田慧が務めた)。沙知代に賞を与えたことについて潮賞選考委員に対する批判はさほどなかったものの、以後潮賞はすっかり権威を失い、第20回(2001年)を最後に中止に追い込まれた。
- 1996年10月、外国人記者クラブに招かれ会見。「昭和27年暮れにコロンビア大に行き、翌昭和28年の春季講習から受講を始め、32年にかけてコロンビア大学に留学していた」と発言。この発言や、1996年秋に行われた衆院選の際、選挙期間中に「コロンビア大留学」と印刷した名刺を配っていた事実により、1999年に実弟伊東信義らが沙知代を経歴詐称で東京地検に公職選挙法違反で告発。同年10月18日、東京地検特捜部は浅香の時と同様不起訴処分の決定を下した。
- 経歴詐称疑惑ははっきりしないまま収束したが、この騒動以後沙知代のテレビ・ラジオ等への出演は大幅に減り、タレント活動も徐々に低調となっていった。次第にマスコミもこの騒動を取り上げなくなっていった。
- 2000年2月1日、ナイタイより『写真集野村沙知代―Stay Young forever』を発売した。
[編集] 脱税容疑での逮捕とその後
- 2001年5月、実の息子であるケニー野村による告発本『グッバイ・マミー』が発売され、マスコミは再び沙知代の話題を頻繁に取り上げた。
- 2001年12月5日に、次男・ケニーの告発により、法人税法と所得税法違反(脱税)容疑で東京地検特捜部に逮捕された。同日夜、夫の克也も、成績不振と沙知代の脱税容疑のため阪神タイガースの監督を辞任した。(後任は星野仙一。皮肉なことに、万年最下位と言われた阪神は、星野政権時《2003年》に18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。)沙知代の容疑は1999年までの3年間に、沙知代個人と沙知代が社長として経営する会社「ノムラ」「ディーアンドケイ」の2社の所得計5億7000万円余りを隠し、所得税と法人税合わせて約2億1000万円を免れた疑い。一方ケニーは沙知代から2000年末に所得隠しに協力するよう電話で要請された会話を録音し、マスコミに公開。警察の捜査にも協力した。野村邸には家宅捜索が入った。
- 脱税容疑での逮捕、起訴により、沙知代を擁護する人々はいなくなり、サッチー騒動は一応の幕が下ろされた。
- 沙知代は同年12月26日に起訴、翌日5000万円の保釈金を納付し釈放された。東京地方裁判所で開かれた裁判で沙知代は「老後の為の貯蓄欲しさに脱税した」と犯行の動機を語り、起訴容疑をすべて認めて反省の弁を述べ、初公判で結審した。贖罪のため500万円の寄付を行ったことなどが反省の気持ちを態度で示したものとされ、2002年5月1日、東京地方裁判所は懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を下した。また追徴課税も行ったほか、沙知代本人に約2600万円、沙知代の会社に約3600万円の罰金も課した。検察も沙知代も控訴せず、判決は確定した。
- この後しばらくマスコミには姿を見せなかったが、2003年1月2日放送のTBS・『サンデージャポン』新春スペシャルに出演しテレビ復帰、脱税逮捕などの心境を語った(学歴詐称などは一切ふれなかった)。
- 2002年、沙知代と野村有紀子(克則の妻)の共著書『日本一勇気ある嫁』の中の記述で名誉を傷つけられたとして、ケニーの妻が沙知代側に損害賠償などを求めた民事訴訟を起こす。一審の東京地裁は沙知代側に計100万円の支払いを命じる判決を言い渡し、沙知代側が控訴。2003年2月、二審の東京高等裁判所は一審を支持し、沙知代側の控訴は棄却。敗訴確定。
- 2004年11月17日、フジテレビ・『クイズ!ヘキサゴン』で息子・カツノリの妻である有紀子とともに出演にした。
- 2005年2月1日、フジテレビの特別番組・『世界絶叫グランプリ』では全米の超恐怖と言われる4大マシーンを表情を変えずに乗った。
- 2005年8月3日、20歳若返り整形手術を10月末に行うとの記者会見があった。夫の克也は「外面じゃなく内面をもっときれいにしてくれたら良いのに」と「らしい」ぼやきを言った。
- 2006年1月放送のフジテレビ・『イマだ! タレント再生工場 「ノムさん」』において、留学問題も大学側が後に認めた(本当に認めたかどうかは不明)など一連のバッシングを振り返っていた。
[編集] 以前から数々のトラブル
- 1999年に起きたミッチー・サッチー騒動で取り上げられた騒動以外にも、過去に様々な芸能人やその関係者とトラブルを起こしていた。以下はその一例。
- 1995年、テレビ朝日の「さんまのナンでもダービー」に出演した際、周囲への配慮の欠如とあまりの横柄な態度に司会者の明石家さんまが激怒、さんまは「二度とあんな奴使うな!」とスタッフに猛抗議したが、スタッフはこれを受け入れるどころか逆にさんまが沙知代に謝罪するよう要求した。これがさんまと番組スタッフとの確執の発端となり「ナンでもダービー」は後に打ち切りとなり、さんまはテレビ朝日と事実上の絶縁状態となった。尚、この番組の打ち切り以降、さんまは1996年春の特番以来、「ま。いっか、」、「ミュージックステーション」、くりぃむしちゅー初の冠番組「くりぃむしちゅーの一度だけいい夢見させてスペシャル」(2003年9月26日放送)、「アメトーク」に出演しただけで、ほとんどテレビ朝日制作の番組に出演しなくなった。現在、テレビ朝日制作の番組への出演は2、3年に1回にあるかないか程度である(系列局の朝日放送等の制作番組には出演している)。
- 1996年1月、笑っていいとも!のテレフォンショッキングのコーナーに角盈男の紹介でゲスト出演したあと、同年4月から金曜コーナー「サッチーとスポーツ新聞を読もう!」のコーナーレギュラー出演。金曜日はレギュラー陣にこの当時、中居正広(SMAP、現・火曜レギュラー)、ナインティナイン(岡村隆史・矢部浩之、翌年3月降板)がいたが、このコーナーには司会のタモリと2人でのみ出演した。素行がかなり悪く、中居・ナイナイの3人は困り果てており、司会のタモリに何度も相談していたと言う。このことについては中居はラジオのニッポン放送「Some girl' SMAP」、ナイナイも同ラジオ局「オールナイトニッポン」でも語っていた。そのためか、わずか半年でそのコーナーも終了、降板している。しかし、2006年10月20日には降板して以来、10年間出演が一切なかった『笑っていいとも!』にゲストで出演した。
[編集] 出演していたテレビ番組
- 『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)
- 『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)
- 『徹子の部屋』(テレビ朝日)- ゲスト
- 『土曜ワイド劇場 嫁姑が謎に挑戦6』(テレビ朝日)- 本人役で出演。
[編集] 出演していた映画・舞台
- 中条きよし特別公演「必殺三味線屋勇次」(1998年、大阪新歌舞伎座)
- 必殺! 三味線屋・勇次(1999年、松竹)
[編集] 近況
2006年シーズンに夫克也が東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任した頃から徐々にテレビ等のメディアに復帰。2008年末頃から再び頻繁にテレビ番組に顔を出すようになり、全盛期同様のキャラクターと役回りを演じている。また文筆活動も再開している。
- 2007年8月、映画『喰いしん坊!~大食い開眼編~』(メディアワークス配給)に出演。
- 2008年5月 小説『老疼の雫』を上梓。
- 2008年6月~ CM「高須クリニック ドバイ編」に出演。
- 2008年12月2日 克也とともにTBSテレビ「私は貝になりたい 絶賛上映中」に出演。
- 2009年1月22日 克也とともにTBSテレビ「うたばん」に出演。
- 久々に中居正広(司会)と番組共演。
- 克也の新曲『女房よ・・』(作詞野村沙知代、補作詞坂口照幸、作曲三木たかし、2009年1月21日発売)を披露。
- 2009年2月5日 克也とともにytv「ダウンタウンDX」に出演。
- 2009年2月20日 TBSテレビ「中居正広の金曜日のスマたちへ 輝く女シリーズ~中高年のシンデレラ 歌手 秋元順子~」に出演。
- 2009年2月22日 克也とともにフジテレビ「ボクらの時代」に出演。
- 2009年3月12日 TBSテレビ「うたばん」に出演。
- 2009年3月19日 克也とともにフジテレビ「森田一義アワー笑っていいとも テレフォンショッキング」に出演。
- 紹介されたのは克也のみ。
- 2009年5月15日 日テレ「サプライズ」に出演。
- 2009年9月16日 TBSテレビ「隣の嫁姑バトル2009」に出演。
[編集] 著書
- 『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』 潮出版社 1985年8月 ISBN 4-2670-1030-7
- 『叱ってしつけるほめて育てる 野村沙知代の親子塾』 海竜社 1991年10月 ISBN 4-7593-0297-2
- 『女は賢く妻は可愛く』 海竜社 1993年10月 ISBN 4-7593-0363-4
- 『猛母猛妻』 扶桑社 1996年9月 ISBN 4-594-02091-7
- 『あなた、男の鑑定できますか チェックポイントは、この17カ所』 クレスト社 1997年12月 ISBN 4-87712-066-1
- 『夫婦をみがく33の秘訣 夫婦のあり方、この組み合わせの妙』 成美堂出版(成美文庫) 1999年8月 ISBN 4-415-06856-1
- 『I amサッチー 挑発~沈黙の200日』 バウハウス 2000年4月 ISBN 4-89461-176-7
- 『どうすれば、言いたいことが言える自分になれるか?』(テリー伊藤との共著) アスキー 2001年2月 ISBN 4-7561-3692-3
- 『母稚園 サッチーの母親学』 ぴいぷる社 2001年4月 ISBN 4-89374-150-0
- 『悪妻こそ、良妻』(野村有紀子との共著) 廣済堂出版 2001年9月 ISBN 4-331-50825-0
- 『あなたに伝えたい 眞由ちゃんは見ていた 詩画集』(ほんままさえ・絵) 北水 2001年12月 ISBN 4-939000-40-0
- 『日本一勇気ある嫁』(野村有紀子との共著) モッツ出版 2001年10月 ISBN 4-944214-18-9
- 『Nora 野良たちの選択 老犬は去り行くべきか…』(優亞・絵) 東邦出版 2004年5月 ISBN 4-8094-0365-3
- 『野村セオリー 絆』(野村克也との共著) 海竜社 2006年10月 ISBN 4-7593-0953-5
- 『老疼の雫』 文藝春秋 2008年5月 ISBN 4-1632-6990-8
[編集] 写真集
- 『写真集野村沙知代 Stay young forever』(大渕静樹・撮影) ナイタイ/ナイタイメディア販売 (発売) 2000年2月 ISBN 4-931538-00-2
[編集] 関連参考文献
- 伊東信義『姉野村沙知代』 ラインブックス 1999年6月 ISBN 4-89809-041-9
- 伊東信義『紙上「告発」法廷 サッチー嘘100語録 経歴詐称22・誹謗中傷29・人心攪乱28・虚偽申告21「全疑惑を徹底検証する!」(サッチー研究会・編集) 光文社 1999年9月 ISBN 4-3349-7236-5
- ケニー野村『グッバイ・マミー 母・野村沙知代の真実』 新潮社 2001年9月 ISBN 4-10-449001-6
- 野村克也『女房はドーベルマン』 双葉社 2002年5月 ISBN 4-5752-9424-1
[編集] その他
- 沙知代はドミンゴスのファンであり過去にライブに参戦したことがある。
- 上島竜兵に物真似されたが、本人は怒るどころか非常にこの物真似を気に入っている。夫の克也曰く「あいつも真似されるくらいの人物になったんだな…。」とこちらも大喜び。ものまね歌合戦でも上島の物真似に対し「アイ・ラブ・ユー」と返した。2009年2月5日放送の『ダウンタウンDX』で久々に共演した。上島は沙知代の格好で出演し同番組に出演した克也も上島を見て「似てるね、しかし。」と発言している。
[編集] 脚注
- ^ これまで田中眞紀子、デヴィ・スカルノ、細木数子、和泉節子、落合信子らマスコミにおいて重用される毒舌家の中年から年配の女性群がおり(いわゆる「熟女ブーム」)、沙知代はその代表格であった。こうした人々を支持する視聴層が以前から少なからず存在し、マスコミがそれに目をつけたのであった。
- ^ この選挙において新進党公認で重複立候補した候補者は沙知代のほか須藤浩(南関東ブロック、前職、落選)、一川保夫(北陸信越ブロック、前職、比例当選)、松田篤之(北陸信越ブロック、新人、落選)、宮本一三(近畿ブロック、前職、小選挙区当選)、加藤六月(中国ブロック、前職、比例当選)、東順治(九州ブロック、前職、落選)の計7名であった。うち北陸信越ブロック新人の松田篤之は元大蔵省造幣局長であり、政治・議員活動や行政経験のない重複立候補者は沙知代ただ1人であった。つまり沙知代の重複立候補許可は優遇措置であったと言える。
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最終更新 2009年11月19日 (木) 04:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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