野村秋介

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野村 秋介のむら しゅうすけ1935年2月14日 - 1993年10月20日)は、東京出身の右翼活動家・運動家。

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[編集] 来歴・事件歴

若年の頃は、出口辰夫(通称:モロッコの辰。後に暴力団稲川会四天王の一人となった)の舎弟だった。五・一五事件三上卓との邂逅を経て右翼開眼した。戦後新右翼の代表的な論客として知られた。

1961年に憂国道志会を結成し、(大悲会)会長に就任した( 「大悲」とは、菩薩が、万物に灌ぐ(そそぐ)宇宙的な悲しみ(慈悲)のこと)。

1963年7月15日、憂国道志会会員・松野卓夫とともに、神奈川県平塚市にあった自民党の政治家・河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入し、家人を家の外に出した家の河野邸を放火した(河野一郎邸焼き討ち事件)。この事件で、同年8月8日に起訴され、懲役12年の実刑判決を受けた。

出所後の1977年3月3日、元楯の会の実動部隊班長・伊藤好雄、元大東塾森田忠明、元楯の会西尾俊一とともに、散弾銃や拳銃あるいは日本刀を持って、東京都千代田区大手町経団連会館を襲撃し、職員12人を人質にとって籠城した。早い段階で人質を8人を解放し、人質は4人となった。警察側の十何時間という長い説得や、三島由紀夫未亡人瑤子による説得の中で、野村秋介らが「人質に危害を加えない。そして警察方に投降する。現行犯逮捕される。ただし、自分達には手錠をかけない」との形で合意した。同年3月4日、野村秋介らは、警察に経団連会館の中で逮捕された。この際、手錠はかけられなかった。野村は懲役6年の実刑判決を受け、再び服役した(経団連会館襲撃事件)。

「ヤルタ・ポツダム体制打倒」と「日米安保条約破棄」を軸に、反権力の右翼としての思想を強く主張した。その批判対象は政界・財界からマスコミにも向けられた。

1983年第37回衆議院議員総選挙東京都第2区から新井将敬が出馬したが、同選挙区石原慎太郎候補の秘書により、『北朝鮮から帰化』という中傷シールが選挙ポスターに貼られた(黒シール事件)。その際、石原慎太郎候補事務所に猛抗議に行った。

1985年3月から、静岡県浜松市で、一力一家組事務所撤去活動が起ると、「一力一家問題を考える会」を立ち上げ、暴力団・四代目山口組(組長代行は中西一男)一力一家(組長は青野哲也)を擁護した[1]

1986年フィリピンモロ民族解放戦線に拉致されたカメラマンの石川氏を、遠藤誠弁護士、黒沢明らと協力して救出。この件で野村は、マニラ日本大使館の対応に「無名のカメラマンという理由で見捨てた」と激しく批判した。

1992年第16回参議院議員通常選挙に際して、日本青年社等が組織した「たたかう国民連合・風の会」から横山やすしらと共に比例区で立候補した。その際、『週刊朝日』誌に「ブラック・アングル」という風刺イラストを連載していたイラストレーター山藤章二が、これを「虱の党」と揶揄した作品を発表した。マスコミの中で特に朝日新聞にこだわっていた野村秋介は抗議の姿勢をより強めた。

選挙後、藤本敏夫らとともに、少数派・諸派の立候補者を排除するマスコミの選挙報道を公職選挙法違反として刑事告訴した。民事裁判も起こしたがいずれも認められなかった。

翌年の1993年10月20日、朝日新聞社東京本社に社長の謝罪を受けるために訪れ、社長ら首脳と話し合いの後「天皇弥栄(すめらみこと いやさか)」と三度言い残し、拳銃で自決した。

[編集] 参考文献

[編集] 逸話

  • 韓国統監府初代統監伊藤博文の暗殺者安重根を憂国の志士と称えていた。立場が違えど、理念を持った体制反逆者に共感したのである。
  • 河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた時のことである。寡黙で朴訥、勤勉な獄中左翼朴判岩(在日韓国人)が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたが、それにも関わらず看守に虐待されているのを見かねて、野村秋介が横田秀雄管理部長に朴判岩の勤勉さ、良識ある行動を報告した。すると1カ月もしないうちに、朴判岩に仮釈放面接が下った。朴判岩は野村秋介にお礼を言ったが、野村秋介は「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と、答えた[2]
  • 野村は先輩に可愛がられた。野村は、昭和維新運動の先輩であり、戦後民族運動の重鎮である葦津珍彦、中村武彦に私淑し師事した(葦津からはかなり厳しく叱責されたことが幾度もあるが、終始師として謙虚に相対した)。また、この二人も風変わりな野村をとても可愛がり、高齢をおして野村の主催する集会等へ出かけた。一面識もなかった大東塾塾長の影山正治も獄中の野村に手紙を書いている。しかし、野村が出獄して手紙を見たときには、影山は元号法制化実現を願い割腹自決を遂げた後であった。野村は直ちに、東京青梅の大東農場内にある影山塾長の墓所に詣でている。
  • マスコミは、野村のことを「新右翼」と呼んだが、平成に入って以降当人はこれを好まず「新浪漫派」(文学運動の新浪漫派とは異なる)と自ら名乗り、独自の運動を展開しようとした。
  • 筑紫哲也と生前交流があった。筑紫が亡くなった後、週刊文春の特集で阿川佐和子が述べている。思想的立場は両極に位置していたが、尊敬しあっていた。
  • 俳優菅原文太と晩年交流があり、下記のドキュメント・ビデオでも証言している。
  • 黒シール事件で石原慎太郎事務所に怒鳴り込んだ一件により「石原慎太郎を平伏させた男」として知れ渡ることとなったがこれにより石原支持者の憎悪の対象となった。しかし下記の自決の後祝電を送ったものはいなかったという。
  • 朝日新聞社で自決した際、同行した当時18歳だった息子に「いままではお母さんがお前を守った。これからはお前がお母さんを守れ」と言い残し、家族思いの父親としての一面を見せた。
  • 自決の動機とも言われる揶揄イラストを書いた山藤章二はそのショックから1993年11月5日号での執筆を停止。結果当該号での「ブラック・アングル」は白紙掲載という異常事態となった。ちなみに同連載の1993年ダイジェストにはその分は掲載されていない。
  • 自決した翌日、テレビ朝日徹子の部屋のゲストは新聞のTV欄では山藤章二であったが実際の放送では小錦に急遽変更されている。山藤章二の回は事件から約1ヶ月後に放送した。

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  1. ^ 出典は、山平重樹、天龍寺弦、木村栄志『実録 憂国のカリスマ 野村秋介』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6642-1
  2. ^ *野村秋介『汚れた顔の天使たち』二十一世紀書院、1992年。

[編集] 著書

  • さらば群青 回想は逆光の中にあり(二十一世紀書院)
  • 時代に反逆するー面白く生きようぜ!(河出書房新社
  • 塵中(じんちゅう)に人ありー右翼、任侠、浪漫(太田出版
  • 美は一度限りー落日の美学の闘いの美学(二十一世紀書院)
  • 獄中18年 右翼武闘派の回想(二十一世紀書院)
  • 野村秋介 獄中句集 銀河蒼茫(二十一世紀書院)
  • 友よ荒野を渡れ(二十一世紀書院)
  • 行動右翼入門猪野健治衛藤豊久共著(二十一世紀書院)
  • 汚れた顔の天使たち(二十一世紀書院)

[編集] 野村秋介関連の書籍

[編集] 野村秋介関連の映画・オリジナルビデオ

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月13日 (火) 02:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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