貨幣

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貨幣(かへい)とは、経済学上、「価値の尺度」「交換媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノである。

かつて貨幣は本位貨幣(本位金、銀貨)を指す言葉であり、政府紙幣銀行券とは区別していた。 現在の日本における法令用語としての「貨幣」は、専ら補助貨幣の性格を持つ硬貨のみを指し、「紙幣」及び「銀行券」とは区別されている。

一方で、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせた通貨を貨幣(=お金)と呼ぶことが多い。

経済学の中では貨幣という用語は、銀行当座預金普通預金などの預金通貨や、定期預金などの準通貨を含むより広い意味で用いられることが多い。貨幣数量説貨幣乗数などの用語における貨幣は、こうした用例である。

目次

[編集] 概要

「貨幣の価値」は「貨幣のモノとしての価値」とは異なる。例えば、不換紙幣の場合、モノとしての千円札は単なる印刷物でしかない。「千円札」を文字や模様が印刷された紙として利用して得られる効用は、「千円で売られているランチ」から得られる効用に及ぶはずもない。単なる物々交換であれば、誰も、「千円で売られているランチ」を「千円札」という印刷物と交換しようとは思わない。つまり、貨幣の価値(交換価値)は、貨幣として用いられるモノの価値(使用価値)から本質的に分離されているのである。

貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣に信用があることが必要かつ十分条件である。自分の他にも「この貨幣には額面通りの価値がある」と信じる者がいなければ、その貨幣が取引の媒介として流通することはない。また、あるモノの価値を信じる人が複数いれば、そのモノは彼らの間で貨幣として流通することができる。また、貨幣に信用があり、交換可能性があっても使わずに貯蔵しておく場合、貨幣は交換手段としての機能に加えて、保蔵手段としての機能を持つことになる。

[編集] 貨幣の機能

貨幣の重要な機能として、次の3つが挙げられる。 これらの機能は資本主義経済の成立において極めて本質的な役割を果たしている。

価値の尺度
貨幣はモノ()の市場(しじょう)における交換価値を客観的に表す尺度となる。これによって異なるモノの価値を、同一の貨幣において比較ないし計算(計算単位)することができる。例えば、本20冊と牛1頭といった比較が客観的に可能になり価格を計算できる。
価値の保蔵
モノを貨幣に交換することで、モノの価値を保蔵することができる。例えば、モノとしての大根1本は腐敗すれば消滅するが、貨幣に換えておけば将来大根1本が入手可能となる。あるいは「大根1本の価値」を保蔵できる。ただし、自由な取引の元では通貨価値ないし物価変動により貨幣を使って入手できるモノの量は増減することがあり、貨幣による価値の保蔵機能は完全ではない。
交換の媒介
貨幣を介する社会では、モノと貨幣を相互に交換することで、共通に認められた価値である貨幣を介することによって取引をスムーズに行うことができる。これに対し、貨幣を介さない物々交換の経済においては、取引が成立する条件として、相手が自分の欲しいモノを持っていることと同時に、自分が相手の欲しいモノを持っていることが必要となる。

[編集] 貨幣の歴史

紀元前3世紀から紀元前1世紀に鋳造されたと思われるリディア王国の貨幣

貨幣がいつごろ使われ始めたのかはよく分かっていないが、物々交換が盛んに行われるようになると、物資の交換に伴う不便が生じるため不便を取り除くため、(1)誰もが欲しがり、(2)集めたり分けたりして任意の値打ちを表すことができ、(3)容易に持ち運び、保存できるような品物が、交換の媒介物として用いられるようになった。これが物品貨幣(自然貨幣)または原始貨幣と呼ばれるもので、日常的に良く使うものが利用された。物品貨幣は、貝殻などの自然貨幣、家畜穀物などの商品貨幣とに分類される。代表的な物品貨幣に貝類(古代中国、オセアニア)、石類(オセアニア)、穀物や(日本)等がある。貝・羽毛鼈甲・鯨歯など装飾品や儀礼的呪術的なものも見られるが、その背景に宗教的意義を持つ場合が少なくない。

時代が下ると、青銅、あるいはなどの金属が貨幣として使われるようになった。現存する最古の鋳造貨幣は紀元前7世紀にリディア王国で作られた。これをエレクトロン貨という。また、中国では原始貨幣をかたどった鋳造貨幣が作られた(貝貨・刀貨・布貨)。金属は保存性・等質性・分割性・運搬性など貨幣としての必要な条件をよく満たしていることが普及につながった。古代エジプトでは鋳造貨幣は対外交易の際の決済通貨として用いられる程度であり、物々経済が主流であり本格的に鋳造貨幣が流入するのはアレクサンドロスによる征服以降であった。ローマ帝国の時代には兵士の給与に銀貨を大量に用いた事から地中海世界で銀貨(および補助貨幣として高額通貨としての金貨、低額通貨としての銅貨)が定着した[1]。古代から中世にかけて金属貨幣はその文明が採掘できる金属資源の賦課量に左右される傾向にあり、従来の鉱山が枯渇することにより貨幣制度はしばしば重大な脅威を受けることがあった。

中世になり交易の広域化がすすむにつれ紙幣が登場した。世界初の紙幣代に鉄銭の預り証として発行され利用されるようになった交子である。中世末期に入って、ヨーロッパでは大航海時代価格革命から商業的に大量の金銀が使用されるようになる。この金銀をそれまでのように取引に使用していては、盗難や磨耗の危険がある。そのため、人々は金銀を貴金属細工商の金庫に預け、代わりに証書を受け取った。証書はいつでも金銀に交換可能なため、紙切れでありながら価値を持った。人々は、やがて証書を使用して取引をするようになる。これが、現代の紙幣の先祖にあたる。証書を発行していた商人は、金銀が頻繁に引き出されなくなったため、証書を金銀の裏付けの無いまま発行して融資する業務を開始した。これが、現代の銀行の先祖に当たる。時代が下って、様々な商人が証書を発行するようになったため、これらの「銀行」が統一され紙幣発行権限をもつ中央銀行となった。諸銀行は、証書(紙幣)を預かる商業銀行となって現在に続いている。

法的に平価が定められ、金の裏付けをもとにして証書(紙幣)が発行される通貨制度を金本位制と呼ぶ。金本位制は度重なる変遷を得た後、第一次世界大戦から世界恐慌頃に相次いで停止され、第二次世界大戦後はブレトン・ウッズ体制下において、USドルのみが金と兌換でき、その他の通貨はUSドルと固定相場制をとることで価値を保証した。ニクソンショック後は、USドルと金の兌換が停止され、主要国は変動相場制へ移行。主要な通貨は、戦後に急成長した実体経済の経済力を背景に価値をもつこととなった。なお、現在でも信用力が低い国などが、USドルと固定相場制をとって(あるいは、USドルそのものを自国通貨とすることで)価値を保証している場合がある。

現代経済においては、国家は流通の安定のために法律によって通貨に強制通用力をもたせている。これを特に法定通貨(法貨)・信用貨幣という。このため、交換の媒介として所定の通貨を用いることを拒否することは通常出来ない。また、この法貨にあたる現金通貨は(日銀当座預金とともに)支払完了性を有しており、取引を無条件に完了させる決済手段として中央銀行がこれを提供している。

[編集] 日本における貨幣の歴史

[編集] 古代

和同開珎銀銭

日本での最初の官銭は708年和銅元年)から鋳造された和同開珎とされる(和同開珎には、銀貨銅貨がある)。和同開珎はから輸入して使われていた開元通宝をモデルにして作られたといわれる。なお、1999年1月19日奈良県明日香村富本銭が数十点発見され、奈良国立文化財研究所は日本最古の貨幣の可能性があると発表している。以前は富本銭は貨幣としては使われておらず厭勝銭(まじない用の銭)だと考えられていたが、その考えに一石を投じる事となり、今日まで論争が続けられている(更に富本銭よりもさらに前の貨幣として無文銀銭の存在が知られている)。

飛鳥時代の和銅元年(708年)から平安時代中期の天徳2年(958年)まで250年間に、和同開珎から乾元大宝までの12種類の銅貨が発行された。朝廷が発行したことから皇朝十二銭と呼ばれている。原材料の銅の不足と、改鋳益を得るため、改鋳の度に目方と金質が低下した新貨を旧貨の10倍の価値で通用させようとしたことが貨幣の価値や信用を大きく低下させ、民衆の銭離れを引き起こしてしまった(765年神功開宝の発行の際は、旧貨である萬年通宝と同価での並行通用であった)。和同開珎発行3年後の和銅4年(712年)10月に「蓄銭叙位法(ちくせんじょいほう)」を出して、銭貨は物の売買の交換手段であることを強調している。

古代においては全く価値体系の違うモノとも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせる事があった。日本最古の貨幣とされる富本銭が流通目的に鋳造されたのではなく厭勝銭(まじない銭)目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として6文銭をに入れたと言う古い慣習、古い寺院跡の発掘の際に古銭が併せて出土される事実など、貨幣と宗教の繋がりを想起させる話が多く残されている。

[編集] 中世

宋銭

皇朝十二銭以降、朝廷は貨幣の発行をしなくなり、11世紀前期からは専らが代用貨幣として用いられる時期が暫く続いた。だが、同時にこの時期になると商業が活発化して貨幣の必要性自体は高まってくるようになり、平安時代中期から戦国時代までは、中国との貿易を通じて流入した北宋南宋の貨幣(宋銭)や永樂通寳などがそのまま自国の貨幣として通用することになった。それでも輸入銭だけでは足りなかったため、豪族や大商人が発行した私鋳銭も流通したが、粗悪な出来だったため「鐚銭(びたせん)」と呼ばれて撰銭の対象とされた。また鐚銭の多くは数百年の流通により、割れ、欠け、磨耗の著しくなった宋銭などが大半を占めた。「ビタ一文受け取らない」のビタとは鐚銭のことである。戦国時代に入ると、明の通貨政策の変更(銅銭の主要通貨からの除外と海禁政策)による日本への銅銭流入の停止と金山銀山の開発が活発となり、戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、砂金および灰吹銀が大口取引に用いられ、やがて金銀貨(領国貨幣)が戦国大名の命により鋳造されるようになった。当時は東日本では金山が多く、西日本では銀山が多かったために金の使用圏が東日本に、銀の使用圏が西日本に集中する事になり、後世にまで影響を与える事になる。また、鐚銭を巡るトラブルが絶えなかったために室町幕府や諸大名によって「撰銭(えりぜに)禁止令」が度々出され、織田信長豊臣秀吉によって一層強化されたが、新しい統一政権にはまだ新規の銅銭を発行できるだけの政治的・経済的基盤が乏しく、庶民は厳罰の恐れと実際の流通量減少(明が産銅の減少から銅銭鋳造を事実上停止したために日本に銅銭が入らなくなった)によって物々交換で取引を始めるようになったために、再び銭離れが発生するようになった。重商主義的要素の強いとされる豊臣政権において、一見矛盾するように見られる石高制が取り入れられたのはそうした事情が背景があると考えられている。また過度の貨幣経済の発展は農民の離農を招く恐れがあることから、封建制度を維持させるため敢えて年貢を米で納めさせる政策を取ったものと考えられ、これは徳川幕府にも継承された[2]

[編集] 近世

寛永通寳

皇朝十二銭が発行中止になってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度に基づいて初めて作られた貨幣は、戦国時代1567年永禄10年)ころ武田信玄の命によって作られた甲州金である。しかし、これは武田信玄の勢力下のみで通用した言わば地方貨である。続いて豊臣秀吉が製造を命じた金貨や銀貨も通貨としての性格は薄かった。

慶長丁銀

江戸時代になると貨幣制度が統一され、江戸幕府が貨幣発行益を独占して金貨(小判一分判)・銀貨(丁銀豆板銀)・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の正貨とした。まず慶長の幣制による金貨・銀貨の鋳造が行われ、続いて1606年慶長通寳の発行と皇朝十二銭以来600年ぶりの銅銭の公鋳が始められた。2年後には永樂通寳の流通を禁ずる法令が出されたものの(実態は永勘定(1貫文=金1)による優位性を廃止)、本格的な通貨鋳造及び全国的な流通に至るのは1636年寛永13年)に発行された寛永通寳以後の事である(貨幣を発行した場所をそれぞれ金座銀座銭座と呼んだ)。金貨・銭貨は計数貨幣(額面価値と枚数で価値を決める貨幣)であったが、18世紀半ばまで銀貨は丁銀、豆板銀といった秤量貨幣目方で価値を決める貨幣)であった。1765年以降、計数貨幣としての銀貨と併用されることとなり、19世紀初頭の文政年間に入ると分、を通貨単位とする計数銀貨が秤量銀貨を凌駕するようになった。

慶長小判

江戸では金貨が流通する「金遣い(きんづかい)」であったのに対して、上方(大坂)では主として銀貨が流通する「銀遣い(ぎんづかい)」であった。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に三貨の間で両替商による両替が必要であった。御定相場として金1=銀50=永1貫文=鐚4貫文(4,000)(1609年制定、1700年には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定)と定められたが、実際には変動相場制で取引され高度な経済活動が行われていた。後に幕府は南鐐二朱銀を発行して金銀の換算率の統一を図って一定の成果を収めた。幕府貨幣の三貨の他にも貨幣として流通し、大名領国では藩札と呼ばれる紙幣も発行されていた(一部には銅銭・鉄銭などの銭貨形式で発行されたものもある)。更に多額の金銭の輸送のリスクを避けるために為替のシステムが発達する事になる。

だが、経済の拡大に伴い通貨の流通不足と幕府財政の悪化が深刻化した。このため江戸幕府では度々金銀貨の改鋳が行われた。元禄宝永(小判1回、丁銀4回[3])・正徳享保(小判のみ[4])・元文明和五匁銀南鐐二朱判)・文政天保嘉永一朱銀のみ)・安政万延(小判のみ)の計14回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる)にもわたる改鋳が行われた。このため、江戸幕府最初の金貨である慶長小判の時には現在の単位に換算して量目約17.8g・金含有率84.3%あったものが、最後の万延小判に至っては量目約3.3g・金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下している。幕末には開国によって大量の金貨が流出したために万延の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延二分判が流通を制し、この二分判にも諸藩による贋造が横行し、さらに幾種もの貨幣が並列して流通し非常に複雑な流通実態となったことから、諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないこと、将来的な通貨改革、金銀地金持込により本位貨幣を製造発行する自由造幣局の設立を約束させられ、これを継承した明治政府高輪談判の結果、通貨の近代化に踏み切ることになった。

[編集] 明治以降

一圓金貨(原貨), 一圓銀貨
一圓金貨(原貨), 一圓銀貨

明治政府により藩札処分令が1871年明治4年)に発せられ、藩札は廃止された。同年2月に現在の造幣局である造幣寮を開設し5月に新貨条例を制定した。このときはじめてという単位が正式に採用された。1円銀貨のモデルとなったのはメキシコ8リアル銀貨で、これは19世紀に貿易決済用としても国際的に流通していた大型洋銀貿易銀貨)で、特に幕末期日本にも流入していたものである。7月に紙幣司(現在の国立印刷局)が設けられ、政府紙幣を製造した後、国立銀行紙幣・日本銀行券などの製造にあたった。1882年日本銀行が創設され1885年に最初の日本銀行券が発行された。

1897年日清戦争の軍事賠償金を準備金に設定して、紙幣の価値を金と交換できることで保障する金本位制を軸とした貨幣法が施行された。公的には上述の新貨条例の際から金本位制が定められていたが、経済力の弱かった当時の日本から大量の金が流失したため、実際にはこの時点まで事実上の銀本位制だった。第一次世界大戦の影響を受けて一時金本位制から離脱したが、1930年昭和5年)1月に世界の体制に倣って復帰した。その金解禁も束の間、世界恐慌のために1931年12月に金輸出再禁止が実施され、日本銀行券の金兌換券は停止された。その結果金本位制度から管理通貨制度へ移行し、1942年2月制定の日本銀行法により弾力的な管理通貨制度が採用されることになった。

日中戦争勃発を機に1938年6月に、貨幣資材調達事情の変化に対し勅令による様式変更を可能とした臨時通貨法が施行され、当初は戦時における時限立法であったが、戦後、期限が削除された上に激しいインフレーションに伴い円単位の臨時補助貨幣が追加されるという事態を招き、この法律の下で1988年まで臨時補助貨幣が発行され続けた。円単位であるにも拘わらず1~500円硬貨が「補助貨幣」と呼ばれたのはこのような背景がある。

1950年代にアメリカでクレジットカードによる決済が始まり、日本では1960年代から同様のサービスが始まった。貨幣を介さず取引を行う時代が到来し、2007年現在のアメリカでは紙幣の信用がクレジットカードに劣るほどである。ただし、クレジットカードはカード番号の不正利用など問題点がないわけではなく、このような欠点を克服するものとして電子マネーが出現するに至っている。

[編集] 日本における貨幣の法的な意義

日本の硬貨(表)。1円(左上)、5円(右上)、10円(左中)、50円(右中)、100円(左下)、500円(右下)。

明治4年(1871年)に造幣局が創業して以来、日本の法律上の「貨幣」とは、新貨条例および貨幣法に基づき発行された本位貨幣および補助貨幣を指した。臨時通貨法施行後は1988年3月末まで臨時補助貨幣のみの発行となったが、1988年4月1日に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和六十二年六月一日法律第四十二号)が施行されると、法的な本位貨幣と補助貨幣の区別はなくなり、すべて「貨幣」と称することになった。

「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」によれば、「通貨とは、貨幣及び日本銀行法 (平成九年法律第八十九号)第四十六条第一項 の規定により日本銀行が発行する銀行券をいう。」(同法2条3項) とされ、また「貨幣の種類は、五百円、百円、五十円、十円、五円及び一円の六種類とする。」(同法5条1項)と規定される。また、同法附則により貨幣とみなす臨時補助貨幣として同法律施行以前に発行された五百円~一円硬貨および記念硬貨が規定されている。この法律の施行により、明治時代から発行されていた本位貨幣の一円、二円、五円、十円、二十円の旧金貨(それぞれ額面の2倍に通用)と五円、十円、二十円の新金貨は1988年3月31日限りで廃止になり、名実ともに管理通貨制度に移行した。

したがって、現在の日本の法律上の貨幣とは、1948年(昭和23年)以降に発行された五円硬貨1951年(昭和26年)以降の十円硬貨1955年(昭和30年)以降の一円硬貨五十円硬貨1957年(昭和32年)以降の百円硬貨1982年(昭和57年)以降の五百円硬貨と、1964年(昭和39年)以降に記念のために発行された千円硬貨、五千円硬貨、一万円硬貨、五万円硬貨、十万円硬貨を指す。

同法第7条により、貨幣は額面価格の20倍までに限って、強制通用力が認められている。すなわち、支払を受ける側(小売店など)は、貨幣の種類ごとに20枚までは受け取りを拒むことはできない。例えば、12,000円の買い物をして、五百円硬貨と百円硬貨各20枚で支払うことは認められる。ただし、21枚以上であっても、支払を受ける側が拒否せず受け取るのは自由である。

なお、貨幣をみだりに損傷・鋳潰しすると、1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられる(貨幣損傷等取締法 ここで言う貨幣に銀行券は含まない)。

[編集] マルクス経済学における貨幣の機能

詳細は「マルクス経済学」を参照

マルクス経済学は一般的な通貨の3機能に加え、以下のような機能を指摘している。

支払手段
商品の売買を行う過程で、商品の譲渡と貨幣の受け渡しが時間的・場所的に不一致になる場合があり、時間、譲渡する方は債権者、貨幣を受け渡す方は債務者となり、債権債務関係が発生する。これを決算するために小切手銀行券といった信用貨幣を用いる場合があり、このような貨幣の機能を支払手段として考えることができる。
世界貨幣
貨幣は国外においては国内で流通する紙幣・補助通貨としての形態や価格単位が通用しないため、世界的に通用する本来の姿である地金として、国際的決済・支払いに用いられる。このような貨幣の機能を世界貨幣と考えることができる。ただし市場では現時点における主要国家の通貨が世界貨幣の代用として国際的な支払いに用いられる傾向があり、米ドルがそれにあたる。このような通貨は「国際通貨」と呼ばれる。また外国為替手形を売買する市場が成立し、その価格として各国の通貨の交換比率が連動する。このような為替手形の売買を媒介するある国家の通貨が各国政府の為替相場の基準として用いられれば、それは「基軸通貨」と呼ばれる。
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[編集] 労働価値説との関係

詳細は「労働価値説」を参照

貨幣には、労働の成果(価値)を細分化し、交換の便宜をはかる機能がある。例えばある木工職人がテーブルを作ったとき、これが物々交換しかできないとすれば、同じ労働量として納得して交換できる価値の商品、サービスなしには取引は成立しない。というのも、欲求の二重の一致という大きな壁があるからである。

しかし彼が市場を通してそのテーブルを売る(信用のおける貨幣で取引する)とき、彼はその売上金でビールを飲むこともできれば、そのお金を貯蓄することもできる。つまり、物々交換では決して出来ない労働の細分割が時間的融通さとともに出来たことになる。

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[編集] その他

[編集] 貨幣と購買力

貨幣はあらゆる商品の価値を統一的に表現することができるため、これを逆算すれば一定の貨幣量で購買可能な商品量を表現することもできる。この貨幣の能力を「購買力」と呼ぶ。また一定の商品量を購買するのにどのくらいの貨幣量が必要かを調べ、これを国際比較することによって数値化することができ、これを購買力平価と呼ぶ。(購買力平価説を参照)

[編集] 貨幣の時間価値

異時点間における貨幣価値をあらわす概念としては割引現在価値がある。これは、将来の貨幣価値は現在の貨幣価値に利息分が上積みされたものと考えて、その利息を生むために必要な現在の貨幣価値と同等とみなすものである。たとえば利率が年に10%であり、9091円を預金すると来年には909円(=9091×10/100)の利子を受け取ることができるものとする。すると、来年にはあわせて10000円になる。この場合、来年の10000円の割引現在価値は9091円である。

[編集] 貨幣と社会的交換

社会学では、貨幣による市場における交換は、貨幣尺度で反対給付が確定している経済的交換 として捉えられ、たとえば長期的な利害を共有するコミュニティの内部におけるような、相互善意を前提した反対給付が確定しない社会的交換 とは対比される(社会的交換理論)。

[編集] 貨幣と情報

商品の交換には、サービスの交換比率や買い手・売り手に関する情報が必要となる。貨幣は、この情報を入手するための費用を節約する。この情報が欠けていると、互いに相手の所有する商品を同時に欲している場合にしか、交換が成立しない。このような欲求の二重の一致なしに交換を成立させるものとして、貨幣は、商品経済の発達を進展させ、分業と交易の拡大をもたらす。また貨幣は、完全な情報を仮定するミクロ経済学では登場せず、マクロ経済学の分析対象となる[5]

[編集] 特殊な通貨

[編集] 玉置紙幣

大東島紙幣」も参照

大東島において、かつて所有し実質的に統治した玉置商会(大日本製糖)が私的な紙幣を発行した。「大東島紙幣」とも「南北大東島通用引換券」とも呼ばれるが、本来は砂糖手形であったものが島の流通貨幣となったものである。別名を玉置紙幣ともいう。戦後、米軍軍政下で、係争になり、その結果、農民は土地を得た。

[編集] 炭坑切符

西表島において、大正 - 昭和戦前時代、強制収容的に仕事をさせ、「監獄部屋」とも称された民間の西表炭坑があった。日本人、台湾人らの労働者の脱走を防止する目的で、経営するいくつかの会社が私的紙幣「炭坑切符」(俗に「斤券」)を発行した。当該会社の売店でのみ通用したので、脱走を防止する働きがあった。

これらの特殊通貨は、一部は不正に使われた歴史があるが、財務省によると、金券と同じで、発行そのものは法律にはふれないという[要出典]

[編集] ハンセン病療養所およびコロニーにおける通貨

かつて世界各地のハンセン病療養所やコロニーにおいて、種々の目的のために(ハンセン病隔離施設の場合、菌を伝染させないためや、患者を隔離するためとして)通貨(主に貨幣)が発行された。その後、必要性がなくなって廃止された。

コロンビアの1901年の貨幣が、年号が入っているものの最古である。また、同国の一部であったものの1904年より米国が租借し統治したパナマ運河地帯において、その太平洋側の僻地のコロニーで、1919年に使用開始になった米国造幣局製の特殊貨幣が存在した。

フィリピンのハンセン病のコロニー・クリオン島においては、1913年以来マニラで鋳造された特殊貨幣が使用された。

特殊貨幣の多くは国家が作ったが、療養所が作ったところもある。日本においては、多磨全生園など療養所が作った。患者入所時に強制的に一般の通貨はこの特殊通貨に換えさせられた。貨幣が一般的であるが、紙幣もあり、その場合は通し番号がついた。クーポン券といってもいい場合もあり、プラスチック製もあった。多磨全生園の場合、貨幣の製造は徽章などを製造する所に発注した。日本の療養所の一部では、通帳を併用し、貧困者への小遣いなど与えるなどの政策に利用したところもある。貨幣も、紙幣も、菌の伝染を防ぐために消毒された。使用された療養所、国は、一定でなく、社会との交通が頻繁な場合は、製造しなかった。 種々の不正事件が発覚したのが契機で、日本においては、各療養所の通貨は昭和30年までには全部廃止となった。廃止時、一般の通貨に換えられたが、米軍軍政下の宮古南静園では、結局、一般の通貨とは換わらなかった。なお、マレーシアのDr.Gordon Alexander Ryrieは1938年、同国の使い古した紙幣を検査しらい菌に汚染されてないことがわかり、同国では、その制度を廃止し、紙幣を燃やしたことが記録されている。

ハンセン病#コロニーで使用された特殊貨幣」を参照

[編集] 参考文献

  • Roger R. Mcfadden, John Grost, Dennis F. Marr: The numismatic aspects of leprosy, Money, Medals and Miscellanea, D. C. McDonald Associates, Inc. 1993.
  • 森幹郎、『証言・ハンセン病』、現代書館、2001年
  • 三木健、『沖縄・西表炭坑史』、日本経済評論社、1996年

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 俗にローマ軍団兵の給与は「」で給付されそれがサラリーの語源であるとの説があるが俗説の域をでない。salariumは高位の役職者(兵士ではない)に対して定期的に支払われる給与のことであって、なぜsal(塩)を語源にしているのかは文献的・歴史的には確定できない(逸身喜一郎『ラテン語のはなし』大修館書店)
  2. ^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新聞社、1996年
  3. ^ 最後の改鋳は正徳元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ
  4. ^ 丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある 丹野昌弘 『月刊 収集 いわゆる正徳丁銀について』 1999年9月号
  5. ^ 金谷貞男「貨幣経済学」新世社

[編集] 関連項目

ウィクショナリー
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[編集] 外部リンク


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最終更新 2009年11月4日 (水) 04:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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