鉄血勤皇隊
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鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の沖縄戦に動員された日本軍史上初の14ー17歳の学徒隊。徴兵年齢に達していない少年を動員した。法的根拠がなかったため、形式上は「志願」とされ親権者の承認が無ければ動員が出来ないことになっていた。しかし学校が同意もなく印鑑をつくり書類を作成したこともあり、事実上強制であったような例もある[1]。 参加しなかった生徒の中には県立第二中学のように「配属将校が食糧がないことを理由」に生徒たちを家に帰したり、県立農林学校では「引率教師が銃殺される覚悟で生徒を家に帰した」という例もあった[2]。
米軍上陸後、書類手続はなく口頭で避難民の中から徴用していた。これらの場合で構成員が男子の場合、防衛隊と呼ばれていた例がある。病弱の者でも容赦しなかったという[3]。「県民の採るべき方途、その心構へ」によると「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ」とされていた。防諜への警戒に伴い動員することとされ、小学生にいたるまで動員された。長勇軍参謀長は「戦場に不要の人間が居てはいかぬ、先づ速かに老幼者作戦の邪魔にならぬ安全な所へ移り住め」と訓示していたので、幼女と老婆を除き、15歳以下の少年や65歳以上の高齢者まで根こそぎ戦場へ動員された[4][5][6]。
目次 |
[編集] 概要
太平洋戦争(大東亜戦争)末期になると、戦況悪化、長期化により兵士が不足し、大学生の徴兵猶予が廃止された(学徒出陣)。沖縄県でも、1945年3月31日、沖縄県の学徒1780人による鉄血勤皇隊が結成され沖縄戦に参加し、半数が戦死した。
[編集] 編成
アメリカの公文書の中に、当時沖縄侵攻作戦を担当したアメリカ陸軍第10軍に、沖縄守備軍だった日本陸軍第32軍による沖縄県庁からの通告を英訳保存したメモがある[7]。その「鉄血勤皇隊ならびに活用に関する覚書」によると、
- 「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍事訓練を施し、非常事態ともなれば直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」と記されている。(「直接軍組織に編入」= 戦闘員)
- さらに、その添付文章などによると、召集対象年齢を下回る14~16歳の学徒についても召集に備えた書類を作ることが定められ、「14歳ならびにそれ以上で、1944年秋に訓練終了後通信任務についている者を除く全学徒を同隊に編入」するとしていた。[8]
米軍に学徒たちが戦闘員であることが宣言された後、日本陸軍第32軍の防衛召集に従って、当時の沖縄県庁は、各学校で集めた学徒名簿を軍に提出、それを基に少年少女達を動員した。
通告によって戦闘員とされたため攻撃の対象とされたり、投降勧告に速やかに従わない場合射殺された者もいた。また、この通告の知識のない米部隊に「民間人(非戦闘員)」と扱われ「君らを捕虜にはしない。」などと言われ、民間人が保護されることも知らないまま絶望のため自決した者も出るなどの悲劇が起こった。[9][10][11][6]
[編集] 任務
鉄血勤皇隊は、不十分な装備のまま任務を遂行せざるをえなかった。具体的には陣地構築、伝令や通信、さらに斬り込み隊として急造した爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って米軍への自爆攻撃をした者もいた。伝令も、同文書を複数人に持たせ、そのうち1人がたどり着けばよいという状態であった。末期になると、直接軍組織に編入されていた彼らの中には、大人の兵士と同様に戦陣訓[12]を使って捕虜にならないように命令され自決したものもいた。[13][14]
最近、米国立公文書館から、牛島満第32軍司令官が自決直前に鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の隊長に、遊撃戦により戦闘を続けるよう命令する「訓令」の原文が大田昌秀・元沖縄県知事によって発見された。当時、千早隊隊長が隊員に対し同様の命令をしており、「訓令」は、米国国立公文書館の米第10軍の戦闘記録に含まれていた。鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。[15]
[編集] 死者数
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| 学 校 名 | 部 隊 名 | 動 員 数 | 戦 死 数 | 死 亡 率 |
|---|---|---|---|---|
| 沖縄師範学校 | 師範鉄血勤皇隊 | 386人 | 224人 | 58.0% |
| 県立第一中学校 | 一中鉄血勤皇隊・通信隊 | 371人 | 210人 | 56.0% |
| 県立第二中学校 | 二中鉄血勤皇隊・通信隊 | 144人 | 127人 | 88.2% |
| 県立第三中学校 | 三中鉄血勤皇隊・通信隊 | 363人 | 37人 | 10.2% |
| 県立工業学校 | 工業鉄血勤皇隊・通信隊 | 94人 | 85人 | 90.4% |
| 県立農林学校 | 農林鉄血勤皇隊 | 173人 | 41人 | 23.7% |
| 県立水産学校 | 水産鉄血勤皇隊・通信隊 | 49人 | 23人 | 46.9% |
| 那覇市立商工学校 | 商工鉄血勤皇隊・通信隊 | 99人 | 72人 | 72.7% |
| 開南中学校 | 開南鉄血勤皇隊・通信隊 | 81人 | 70人 | 86.4% |
| 県立宮古中学校 | 宮古中鉄血勤皇隊 | 不明 | 0人 | 0.0% |
| 県立八重山中学校 | 八重山中鉄血勤皇隊 | 20人 | 1人 | 5.0% |
| 県立八重山農学校(男子) | 八重農鉄血勤皇隊 | 不明 | 不明 | 不明 |
| 合 計 | 1780人 | 890人 | 50.0% | |
| 出典:『歩く・みる・考える沖縄』より | ||||
[編集] 戦跡
- 鉄血勤皇師範隊の壕 は、糸満市摩文仁の健児の塔や平和の像等の下にある。鉄血勤皇師範隊は健児隊とも言われ、沖縄師範学校の男子学生により組織されていた。日本陸軍第32軍と共に首里から摩文仁へと移ってきたようだ。所々黒くなっている所は、火炎放射器による攻撃の跡だという。
- 健児の塔 沖縄師範学校男子部等の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。
[編集] その他の沖縄学徒隊
鉄血勤皇隊や護郷隊、義勇隊、特志看護隊、救護隊などさまざまな名称があった。愛称名としては、ひめゆり隊の以外に、白梅隊・名護蘭隊・積徳隊・瑞泉隊・でいご隊と呼ばれる学徒隊がある。学徒動員は沖縄戦の特徴であった。
[編集] 脚注
- ^ 藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき』(青木書店、1987年)pp.114-122
- ^ 「非国民」が人々の生命を救った -『ジャイロスGYROS』第5号2004年8月沖縄戦の真実 - 林博史
- ^ 読谷村史 戦時記録 上巻 第一章 太平洋戦争 全島要塞化と根こそぎ動員
- ^ 「3人の捕虜」読谷バーチャル平和資料館
- ^ 「集団自決」の再検討― 沖縄戦の中のもうひとつの住民像 歴史科学協議会編『歴史評論』1992年2月号林博史
- ^ い ろ 参考文献 藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』-立風書房
- ^ 、『季刊 戦争責任研究』の第54号(2006年)「資料紹介 鉄血勤皇隊編成に関する日本軍と沖縄県の覚書ならびに軍命令」解説・訳:林博史
- ^ Leaven Worth Papers "Japan's Battle of Okinawa April-June" By Thomas M. Huber
- ^ 参考文献 『鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』
- ^ 参考文献 大田昌秀『沖縄のこころ-沖縄戦と私』-岩波新書
- ^ 具志川市誌
- ^ 戦陣訓の絶対性については賛否両論がある。詳細は戦陣訓を参照
- ^ 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判大阪地裁判決
- ^ 『沖縄県の歴史』山川出版、2004年
- ^ http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133140-storytopic-1.html
[編集] 参考文献
- 大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』(那覇出版社、1977年) ISBN 4890951296
- 大田昌秀『沖縄のこころ-沖縄戦と私』-岩波新書 1972年 ISBN 9784004111030
- 兼城一 編著『証言・沖縄戦 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録』上、下(高文研、2000年、2005年)
- 藤原彰編「沖縄戦と天皇制」(首都圏の研究者らによる論文集/立風書房、1987年)ISBN 9784651700397
- 藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」青木書店 2001年 ISBN 9784250201394
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 『読谷村史』第五巻・「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験 3 防衛隊・男子学徒隊
- 沖縄戦と慰霊塔 碑文は何を語るか 学徒隊関係の部 (沖縄戦の記憶・分館より)
- 沖縄公文書館 ①生き残った20人の女学生と教師 ②おそらく中学生の鉄血勤皇隊
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最終更新 2012年2月13日 (月) 09:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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