長いナイフの夜

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長いナイフの夜事件(ながいナイフのよるじけん、Nacht der langen Messer)とは、1934年6月30日から7月2日にかけて、ナチ党が行った粛清事件である。

目次

[編集] 概要

エルンスト・レーム突撃隊 (SA) 幹部、グレゴール・シュトラッサーナチス左派などナチ党内の「反ヒトラー」勢力が粛清された。またクルト・フォン・シュライヒャーなど党外の反ナチ派も粛清された。

ヒトラーの公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。

事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)にちなむ。

[編集] 背景

レームと突撃隊。1933年2月。

突撃隊(SA)はナチス党の私兵部隊であり、ヴァイマル共和国時代には共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」などと殴り合いをしていた。ヴェルサイユ条約で兵器保有制限を課されていたドイツ正規軍「国軍(Reichswehr)」からも右翼政党の武装組織として期待され、武器などの供給を受け、かなりの武力を保持していた。ナチスの党勢拡大とともに突撃隊も巨大化していき、ナチス党が政権を掌握した1933年には突撃隊は総員400万人を有していた。うち武装兵士が50万人いた。これは正規軍の5倍にも及ぶ数であった(ヴェルサイユ条約によりドイツ正規軍は10万人に限定されていた)。1931年以来、突撃隊(SA)を指導していたのは突撃隊幕僚長エルンスト・レームであった。レーム以下突撃隊員の多くがナチスの政権掌握後、突撃隊を新たな正規軍とする事を望み、それに関する独自の構想も持っていた。レームはヒトラー内閣でみずからが国防大臣として入閣できるものと信じていたが、期待に反して当初彼は閣僚には加えられなかった(1933年12月にようやく無任所大臣として入閣している)。

ヒトラーへの失望が大きかったレームは、公然と「第二革命」をとなえてヒトラーや軍部を攻撃するようになった。レームの政敵であるヘルマン・ゲーリング指揮下のゲシュタポ(プロイセン州政治警察。後に親衛隊の組織となるが、当時はプロイセン州内相たるゲーリングの指揮下にあった)は、レームを徹底的に監視し、その反ヒトラー的言動を逐一ヒトラーに報告した。ヒトラーは長年の同志であるレームを粛清することは避けたいと考え、当初はレームの懐柔を狙った。1933年12月1日に無任所大臣として閣僚に加えたり、勲章を与えるなどしていたが、これらはレームと突撃隊の独自路線を抑制するには至らなかった。1934年代になるとレームのヒトラーへの攻撃的姿勢は更にあからさまになった。部下の突撃隊員達も各地で「第二革命」を叫び、プロイセン的な価値観やユダヤ教・キリスト教などのドイツの伝統的宗教を盛んに攻撃し、軍部などの保守層と敵対した。彼らは酒を飲んでは街中で暴行をふるっていたのでドイツ国民の評判も悪かった。

そして、レームを中心とした突撃隊一派がヒトラーや軍部に対して反乱を企てているというデマが流れたのを機に、ヒトラーはついに粛清を決意する。しかしレーム自身には反乱の意志はなかったとされ、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー親衛隊諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒの三名がレームの反乱計画を捏造させたのが真相であるとされる。

[編集] 突撃隊と軍部の争い

エルンスト・レームは、貴族が軍部を占める今の正規軍「国軍(Reichswehr)」では、ヴェルサイユ条約を打破して再軍備がかなったとしても結局、旧プロイセン王国的な旧式軍隊にしかならず、近代戦争に対応できる軍隊にはならないと考えていた。彼が理想とするのは国民軍の形態であった[1]。突撃隊は5つの突撃隊上級集団(軍隊の「軍団」に相当)と18の突撃隊集団(「師団」相当)で構成され、国軍の5倍にあたる兵力を保持し、軍隊と同等の規律を有し、その指揮官達は元将校たちで占められていた[2]。いつでも国軍(Reichswehr)に取って代わることができる状態であった。

軍部は突撃隊を警戒しつつも初めは利用を考えた。ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将は突撃隊を東部の国境警備の民兵にしたり、国軍の予備戦力にしたりするため、突撃隊と接触し、1933年5月には突撃隊と国軍はその旨の協定を結んでいる。協定では突撃隊は国軍の管轄下になるはずであったが、レームはやがて東部国境での独立的な指揮権と武器庫監督権を主張するようになり、国軍と対立を深めた[1]

1934年2月にレームは国防省に覚書を送ったが、内容があまりに過激であったため、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将は、司令官会議の席上「レームが全国の国防組織をSAの傘下に入れ、国軍をただの訓練機関にしようとしている。」と結論するに至った。このためブロンベルクはついにヒトラーの裁可を仰ぐこととした[1]

ヒトラーとしても、軍との連携を必要不可欠と考えており、そのためにもレームとSAの処遇を決定する必要があったが、レームの粛清に乗り気でないヒトラーは、まずは国軍と突撃隊を和解させようと試みた。1934年2月28日、ヒトラーは、ブロンベルク以下国防省幹部とレーム以下突撃隊幹部を国防省に集め、両者に和解を求めた。二人はヒトラーを前にして「ドイツの唯一の武装兵力は国軍(Reichswehr)であり、突撃隊(SA)は軍事活動の準備や補修訓練にあたる」ことで合意し、一応握手をした。しかしレーム達突撃隊幹部が協定を守る様子はなく、引き続き国軍と突撃隊の睨み合いが続いた。以降ライヒェナウなどの国軍幹部は突撃隊の粛清を企む親衛隊(SS)に接近して粛清の準備に協力することとなる[3]

[編集] 親衛隊の思惑

1934年4月頃から真っ先に突撃隊の粛清を計画していたのが親衛隊(SS)であった。親衛隊はこの時点では突撃隊の下部組織の一つにすぎず、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーは、ヘルマン・ゲーリングからようやくゲシュタポ長官代理に任じられて実質的指揮権を譲り受けたばかりであった。ゲシュタポの指揮権をヒムラーが譲り受けたとは言っても、いまだプロイセン州におけるゲーリングの警察権力は巨大であり、親衛隊が更に勢力を拡大させるためには、ゲーリングと密接な関係を保つことは不可欠であった。しかしゲーリングとレームは政敵の関係であったから、そのためにはまず親衛隊がレームの突撃隊から独立することが必要であった。そのためには突撃隊を骨抜きにして弱体化させねばならなかった。親衛隊の中でも最初に突撃隊幹部の粛清を立案したのは、親衛隊諜報部(SD)部長ラインハルト・ハイドリヒであった。しかしこれを実行に移せば突撃隊と親衛隊に深い溝ができるし、またヒムラーにとってレームは長い間世話になり、尊敬の対象としてきた人物でもあり、ヒムラーはこの計画には簡単には首を縦には振らなかった。ハイドリヒは時間をかけてヒムラーを説得し、ついにヒムラーも突撃隊幹部の粛清を決断した。ヒムラーも一度決断した後は粛清にためらったり、手心を加えることはなかった[4][3]。粛清対象者のリスト作成の実質的責任者は計画者であるハイドリヒであった[5]。さらにハイドリヒはこれを機に突撃隊に限らず反ナチ分子をまとめて粛清しようと企み、突撃隊以外の名前も次々とリストに加えていった[6]

[編集] ゲーリングの思惑

ゲーリングはナチス政権の誕生後、プロイセン州内相(ついで首相)となり、ゲシュタポをはじめとするプロイセン州警察を指揮していた。しかし突撃隊員の警察高官達の持つネットワークはゲーリングの指揮権を常に脅かしていた。また国防軍総司令官の地位を巡ってレームは潜在的なライバルであった[7]。レームは、公の場でゲーリングを「反動の権化」などと呼んで批判するほど二人は仲が悪かった[8]

[編集] 事件の経過

  • 6月、突撃隊叛乱の噂が流れはじめる。
  • 6月4日、ヒトラーとレームが5時間の間対談。ヒトラーとレームが数点で合意したとハイドリヒが発表。
  • 6月7日、突撃隊隊員全員に一ヶ月間の休暇が与えられる。
  • 6月8日、レームが神経痛治療のために療養に入ることを発表。
  • 6月17日、マールブルク大学で副首相パーペンがレームやナチスの過激派を批判する演説を行う。(マールブルク演説)
  • 6月21日、ヒトラーが大統領の私邸を訪問する。ヒンデンブルク大統領はブロンベルク国防相を通じ、ヒトラーが情勢を処理できない場合には大統領が戒厳令布告を行い、軍に事態収拾を行わせることをヒトラーに通告する。
  • 6月22日、ヒトラーが突撃隊上級指導者ヴィクトール・ルッツェにレーム追放を告げる。ヒムラーは突撃隊の蜂起にそなえ、親衛隊を待機させる。また、国防省も突撃隊のクーデター発生の警戒態勢に入り、親衛隊から武器供与の要請があればこれに応じてもよいと指令する。
  • 6月23日、国防省防諜部が「突撃隊に武装決起を命じたレームの命令書」を入手するが、偽作の疑いが濃いと判定している。一方ゲーリング航空相から突撃隊指導者および反逆者の逮捕リストがブロンベルク国防相に届く。
  • 6月25日、ヒトラーはレームを6月30日に逮捕する旨をブロンベルク国防相に伝える。国防軍総司令官フリッチュ中将は全軍の外出禁止を下令する。
  • 6月28日、ヒトラー、エッセンでエッセン大管区指導者ヨーゼフ・テアボーフェンの結婚式に参加。ゲーリング航空相に粛清の指揮をとらせるためにベルリンで待機させる。ヒトラー、レームに連絡し、6月30日にミュンヘンで突撃隊指導者会議に出席する旨を伝える。
  • 6月29日、ゲーリング、兼任するプロイセン州首相の権限で、自らが兼任するプロイセン州内相に戒厳令布告の権限を与える。ゲーリングの指令により親衛隊が動員され、突撃隊の武装解除と突撃隊指導者の逮捕を開始する。
  • 6月30日午前7時、ミュンヘン郊外に宿泊中のレームをヒトラー自ら逮捕、これに前後してSA幹部や反ナチ派が一斉に逮捕・殺害される。
  • 7月1日、レームが親衛隊 (SS) 幹部テオドール・アイケにより処刑される。
  • 7月2日、粛清が完了し、ドイツ国内に公表される。大統領官房長オットー・マイスナーがヒンデンブルク大統領の署名付き祝電をヒトラーに送る。ゲーリング、粛清関係書類の焼却を命じる。

[編集] 影響

[編集] ドイツ国内

ニュルンベルク党大会でヒトラーに忠誠を誓う突撃隊最高幕僚長ルッツェと親衛隊全国指導者ヒムラー。1934年9月。

この事件以後ヒトラーの主導権が確立された。ヒンデンブルク大統領を始めとして、軍部や市民は評判の悪い突撃隊の粛清をむしろ歓迎した。しかし非合法な粛清であったことを意識してか、粛清に関する行為を合法化する特別法を制定している。

突撃隊上級指導者であったヴィクトール・ルッツェがレームの後任としてSA最高幕僚長に就任し、突撃隊とヒトラーを前にして、ヒトラーに完全な忠誠を誓う演説を行っている。また突撃隊の傘下にあった親衛隊は独立した組織となり、以後党の重要な組織として拡大を続ける。突撃隊は去勢された形となったが、その後のナチス支配下のドイツにおいて重要な位置を占め続けた。戦時中、親衛隊と突撃隊は幾度となく衝突を繰り返し、両者には消える事の無い因縁が残った。


[編集] 国外の反応

欧米各国のメディアは、一斉にヒトラーの行為を非難した。民主主義諸国では、ヒトラー一派が非合法的な手段で政敵を排除したことが、政権の不安定さを示す兆候であり、ナチス政権は崩壊間近だとする論調が支配的だった。ファシズム体制のイタリアにおいてすら、ムッソリーニが「一連の行為は、乱暴で残忍なやり方であり、容認することはできない」と非難声明を出した。

非難一色の中、唯一ソ連のみが事件に対し肯定的な反応を示した。スターリンは、1934年7月、事件の直後にクレムリンで行われた政治局会議で事件に触れ、「政敵を排除したことにより、ヒトラーの権力と彼の体制は強固なものとなった」と、欧米各国とは正反対の分析を示した。スターリンがこの事件に強い関心を示した理由は、ヒトラーが国内で何の咎めも受けることなく公然と政敵を抹殺することができた、という点にあった。前述の政治局会議の席上、彼は次のように述べたといわれる。

諸君はドイツからのニュースを聞いたか?何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ!奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!

スターリンの通訳だったヴァレンティン・ベレシコフの証言

スターリンは1920年代から反対勢力の排除を目論んでいたが、反撃にあうことを恐れて躊躇していた。事件は、彼に反対勢力を徹底的に根絶する決意を固めさせたといわれる。

政治局会議から5ヶ月足らず後の1934年12月1日には、スターリンの有力な後継者かつ潜在的なライバルと目されていたセルゲイ・キーロフが暗殺されている(暗殺にはスターリンの関与があったといわれる)。キーロフ暗殺を契機に、スターリンはソ連全土で大粛清を展開していくことになる。

[編集] 主な粛清の対象者

[編集] ナチスの党員・関係者

[編集] ナチス外部の人間

また、副首相パーペンも自宅に軟禁された。軟禁が解除されるのはオーストリア首相ドルフース暗殺事件の処理を行うため、公使として赴任することを要請された7月26日である。

[編集] 事件を題材や参考とした作品

[編集] 外部リンク


[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)168 - 169ページ
  2. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)166 - 167ページ
  3. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)170 - 171ページ
  4. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)76 - 77ページ
  5. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)78 - 79ページ
  6. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)176 - 177ページ
  7. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)172 - 173ページ
  8. ^ 「ニュルンベルク軍事裁判 上」 ジョセフ・パーシコ著、原書房。ISBN 978-4562028641。250 - 251ページ


最終更新 2009年10月16日 (金) 01:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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