阪谷芳郎
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阪谷 芳郎(さかたに よしお、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵。岡山県美星町(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員等を歴任。
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[編集] 経歴
幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬(ろうろ)の4男として生まれる。
東京帝国大学政治科を卒業後、大蔵省入省。日清戦争では、大本営付で戦時財政の運用にあたり、1903年には大蔵次官、1906年には大蔵大臣(第1次西園寺内閣)を務めた。1907年男爵。その後、1912年に東京市長となり、1917年には貴族院議員に選ばれた。1941年子爵。
よく英語に通じ、カーネギー平和財団の会議や、パリ連合国政府経済会議などに出席している。大日本平和協会、日本国際連盟協会の創設にも関わった。また、外地の日本語教育に熱心で、日語文化学校を創設した。東京市長のときには、明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立に尽力した。
都市計画にも関心が深く、蔵相在任時に神戸港築港計画を決定(ただし、後日港湾を管轄する内務省からは「越権行為」と非難され、閣内紛糾の一因となった)し、またのちに都市美協会会長も務めた。
[編集] 家族・親族
- 妻 琴子(実業家渋沢栄一子爵の次女、穂積歌子の妹)
- 長男 希一(日銀出身 満州国国務院次長、中国聯合準備銀行顧問など歴任)
- 三女 八重子(男爵中村貫之に嫁す)
- 孫 芳直(海軍主計中尉、のち東急ホテルズ・インターナショナル常勤監査役)
[編集] 系譜
- 阪谷家(阪谷家系図)
- 二代四郎兵衛の頃、延宝八年(1680年)検地帳に、二町六反七畝二歩の田と一町五反四畝二歩の畑を所有、三代治兵衛の頃には、田畑四町九反八畝の地主になった。五代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。二町七反六畝七歩の田と一町一反九畝七歩の畑を所有して高合計二十四石となった。延享二年(1745年)に酒造を始め、天明五年(1785年)に二五〇石仕込んだが、天明の飢饉により同六年に半減、同七年には三分の一まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延二年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。
┏喜左衛門 四郎兵衛━━四郎兵衛━━治兵衛━━┫ ┗左治兵衛━━甚平━━甚兵衛宗房━━三五八良哉━━素三郎(朗廬)
┏━礼之介 ┃ ┃ ┣━次雄 ┃ (朗廬) ┃ 素三郎素━━╋━達三 ┃ ┃ ┣━芳郎━━━━━┳━希一 ┃ ┃ ┃ ┣━敏子 ┗時作 ┃ ┣━和子 ┃ ┣━俊作 ┃ ┣━八重子 ┃ ┣━千重子 ┃ ┗━総子
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月15日 (日) 07:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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