阿川尚之

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阿川 尚之(あがわ なおゆき、1951年4月14日 - )は、日本の法学者エッセイストニューヨーク州及びコロンビア特別区弁護士慶應義塾大学教授。専門は米国憲法史、日米関係史。作家阿川弘之の長男。

目次

[編集] 人物

親米派論客の一人。2002年にはスキャンダルの相次いだ外務省の改革を検討するために設置された川口順子外務大臣の諮問機関「外務省を変える会(外務省改革に関する「変える会」)」有識者委員を務めた。また同会の答申で出された外部人材の登用推進を受けて、2002年から2005年まで駐米大使館の広報担当公使を務めた。

[編集] 略歴

[編集] 家族

祖父は実業家阿川甲一。父は作家阿川弘之。妹はエッセイスト阿川佐和子

[編集] 系譜

阿川家
阿川弘之山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。しかし阿川家は代々の農家であり 、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之自身やや疑問をもっている[2] 阿川家の初代三之助は寛保3年(1743年)5月17日に没した(戒名は“釈浄円信士”)。[3][4] 。 祖父甲一は阿川家の8代目を継ぐ立場だったが、数えの20歳になって早々、弁護士を志して郷里をはなれ、家督の太七に譲った。甲一は満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた。伯父幸寿は祖父甲一庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちのを結う髪結女との間に出来た子だった。幸寿は京大経済学部を卒業後、満鉄に入社し、後に満州国官吏に移籍して安東市長をつとめた[5]
          ┏りき━太七
          ┃
三之助…<略>…利七━╋甲一━┳幸寿
          ┃   ┃
          ┗娘  ┣静栄
              ┃
              ┗弘之━┳尚之
                  ┃
                  ┗佐和子

[編集] 受賞歴

第6回読売・吉野作造賞(2005年)『憲法で読むアメリカ史(上・下巻)』

[編集] 著書

[編集] 単著

  • 『アメリカン・ロイヤーの誕生――ジョージタウン・ロー・スクール留学記』(中央公論社中公新書]、1986年)
  • 『アメリカが嫌いですか』(新潮社、1993年/新潮文庫、1996年)
  • 『大統領を訴えますか――アメリカという国のかたち』(PHP研究所、1994年/徳間書房[徳間教養文庫]、1998年)
  • 『トクヴィルとアメリカへ』(新潮社、1997年)
  • 『変わらぬアメリカを探して』(文藝春秋、1997年)
  • 『わが英語今も旅の途中』(講談社、1998年)
  • 『アメリカが見つかりましたか――戦前篇』(都市出版、1998年)
  • 『北極星号航海記』(講談社、2000年)
  • 『アメリカが見つかりましたか――戦後篇』(都市出版、2001年)
  • 『海の友情――米国海軍と海上自衛隊』(中央公論新社[中公新書]、2001年)
  • 『それでも私は親米を貫く』(勁草書房、2003年)
  • 『憲法で読むアメリカ史(上・下)』(PHP研究所[PHP新書]、2004年)
  • 『マサチューセッツ通り2520番地』(講談社BIZ文庫、2006年)

[編集] 共著

  • 竹中平蔵)『世界標準で生きられますか』(徳間書店、1999年)
  • (川澄哲夫・小沢一郎)『ジョン万次郎とその時代』(広済堂出版、2001年)
  • 岡崎久彦)『対論・日本とアメリカ』(広済堂出版、2002年)

[編集] 訳書

  • ポール・ジョンソン『ユダヤ人の歴史(上・下)』(徳間書店、1999年)
  • ジーン・フリッツ、トミー・デ・パオラ『合衆国憲法のできるまで』(あすなろ書房、2002年)

[編集] 関連

[編集] 脚注

  1. ^ 阿川佐和子著 「ときどき起きてうたた寝し」1991年、文藝春秋、21-22頁
  2. ^ 阿川弘之著『亡き母や』 140頁に「近江源氏直系の鎌倉武将一族と、伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさん、ひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを、必ずしも疑ふわけではなかつたけれど、時代のへだだりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とでは、およそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定は、どうも実感を伴ひにくかつた。」 138-139頁に「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」とある。
  3. ^私の履歴書 第三の新人』 118-121頁
  4. ^ 『亡き母や』 136-142頁
  5. ^ (『私の履歴書 第三の新人』 122、128頁)、(『亡き母や』 57-72頁)

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月2日 (日) 06:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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