阿川甲一

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阿川 甲一(あがわ こういち、明治3年(1870年)- 昭和23年(1948年)は、日本実業家。満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた。

作家阿川弘之の実父。法学者阿川尚之エッセイスト阿川佐和子の祖父。

目次

[編集] 略年譜

現在の山口県美祢市伊佐町に農家阿川利七(阿川家の7代目)、のしの長男として生まれる。8代目を継ぐ立場だったが、数えの20歳になって早々、代言人(いまの弁護士)を志して郷里をはなれ家督を甥の太七に譲る。
関西法律学校関西大学の前身)卒業。
和佛法律学校法政大学の前身)卒業。帝国議会開会中、東京通信社社員となり議事報告に従事する。ウラジオストックに渡航し露語を研究する。
シベリアで鉄道建設工事を請負う(~1897年)。
鉄道建設作業が終わりハバロフスクに移り住む。ドイツ人商人ゲーツマンに見込まれ食料雑貨毛皮販売ゲーツマン商会の会計事務を取扱う 月給75ルーブルの番頭の地位を得る。
ゲーツマン商会を辞し満州へ入ってハルビンに居を定め写真店を開業する。
東清鉄道のロシア人技師長と契約を交して日本人の石工を提供し松花江に架る鉄橋の礎石建設工事を請負う 在留日本人惣代、民会長の役に就く。
帰朝 この頃から大阪に居住する。
日露戦争勃発、通訳官として陸軍に従軍[1]。戦後、長春に土木建築請負業阿川組[2]を設立。
満州での事業を支配人にまかせて引退する。満州時代の友人が「酒が佳くて魚は新鮮、野菜が豊富、隠居暮しには最適の城下町」と広島転住を勧めるので、大阪の家をたたみ広島へ居を移す。

[編集] 家族・親族

[編集] 系譜

  • 阿川家  
阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。しかし阿川家は代々の農家であり 、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、阿川弘之自身やや疑問をもっている。[3] 阿川家の初代三之助は寛保3年(1743年)5月17日に没した(戒名は“釈浄円信士”)。[4][5]
          ┏りき━太七
          ┃
三之助…<略>…利七━╋甲一━┳幸寿
          ┃   ┃
          ┗娘  ┣静栄
              ┃
              ┗弘之━┳尚之
                  ┃
                  ┗佐和子

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 秋山好古将軍麾下の秋山支隊騎兵第十四聯隊所属
  2. ^ 初期の名称阿川工程局、のち改名して阿川洋行
  3. ^ 阿川弘之著『亡き母や』 140頁に「近江源氏直系の鎌倉武将一族と、伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさん、ひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを、必ずしも疑ふわけではなかつたけれど、時代のへだだりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とでは、およそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定は、どうも実感を伴ひにくかつた。」 138-139頁に「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」とある。
  4. ^私の履歴書 第三の新人』 118-121頁
  5. ^ 『亡き母や』 136-142頁

最終更新 2009年10月28日 (水) 04:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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