阿部正外

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阿部正外(あべ まさと(まさとう)、文政11年1月1日1828年2月15日) - 明治20年(1887年4月20日)は江戸時代旗本大名老中陸奥白河藩主。忠秋系阿部家15代。旗本3,000石・阿部正蔵の三男。正室は長谷川政直の娘。粂作・長吉郎・兵庫と名乗る。子は阿部正静(長男)。官位は従四位下、越前守、豊後守、侍従

[編集] 生涯

はじめ父の後を継いで3,000石の旗本となる。禁裏付役人から、神奈川、外国、南町の各奉行を歴任した。元治元年(1864年)、幕命により陸奥国白河藩10万石の阿部宗家を相続し、相続3ヵ月後老中に任じられた。

慶応元年(1865年)、発言権を強めていた朝廷から将軍徳川家茂の再上洛と攘夷決行が要請された。このため、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制として、阿部と本庄宗秀は兵4,000を率いて上洛し朝廷との交渉にあたる。交渉後、朝廷側の要請を一旦江戸に戻り家茂に伝え、将軍家茂の2度目の上洛となった。

家茂に供奉した阿部は再び上洛し、大坂に下り、3ヶ国から要請されていた兵庫開港・大坂開市をめぐって交渉を開始した。阿部は松前崇広と3ヶ国に対して交渉したが、3ヶ国は、

「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」

と主張をした。3ヶ国の強硬姿勢が翻心することはないのではないかと判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。公方の面前で条約調印の当否をめぐった論争では、家茂が場の緊張感にのまれ泣きだしたという。

朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、将軍家茂は両名を老職から外した。慶応2年(1866年)阿部は隠居、蟄居を命じられ、4万石減封される。家督は正外の長男・正静が継ぎ、同年阿部家は内高(実際の収入石高)の少ない陸奥棚倉へ転封された。

[編集] 略歴

法名は広観院葆真。墓所は西福寺(東京都台東区蔵前4丁目)だったが、昭和2年(1927年)、多磨霊園へ改葬されている。


先代:
阿部正耆
白河藩主
1864年 - 1866年
次代:
阿部正静

最終更新 2009年5月28日 (木) 06:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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