霧島一博
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| 霧島一博 | |
|---|---|
| 四股名 | 霧島 一博 |
| 本名 | 吉永 一美 |
| 生年月日 | 1958年4月3日(51歳) |
| 出身 | 鹿児島県姶良郡牧園町 (現在の霧島市) |
| 身長 | 186cm(現役時) |
| 体重 | 130kg(現役時) |
| 所属部屋 | 井筒部屋(入門時は君ヶ浜部屋) |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 東大関 |
| 生涯戦歴 | 754勝696敗40休(127場所) |
| 幕内戦歴 | 518勝507敗40休(71場所) |
| 優勝 | 幕内最高優勝:1回 |
| 賞 | 殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞4回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1975年3月場所 |
| 入幕 | 1984年7月場所 |
| 引退 | 1996年3月場所 |
| 引退後 | 陸奥部屋師匠 |
| 趣味 | ゴルフ |
| 備考 | |
| 金星2個(大乃国2個) | |
| 2008年3月23日現在 | |
霧島 一博(きりしま かずひろ、1959年(昭和34年)4月3日 - )は、鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)出身で井筒部屋(入門時は君ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。本名は吉永一美(よしなが かずみ)。最高位は大関。現役時代の体格は身長186cm、体重130kg。得意手は左四つ、吊り、寄り、出し投げ。現在は陸奥親方。
目次 |
[編集] 来歴
農家の長男として生まれる。幼少時から体を鍛えるのが好きで、小学校では3年生の時から真冬でも頭から水をかぶって登校し、5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履くなどしていた。中学生の時に君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、後の井筒親方)から勧誘され、最初は断わったものの母親が後押しし、反対していた父親も折れたため、君ヶ濱部屋に入門した。
1975年(昭和50年)3月場所に本名で初土俵、序二段時代の1976年(昭和51年)5月場所後に故郷の霧島山にちなんで霧島へ改名した。1982年(昭和57年)5月場所で新十両、1984年(昭和59年)7月場所で新入幕。入幕後しばらくは8勝や9勝がやっと、上位になれば2桁負けなどで平幕を上下していた。1986年(昭和61年)11月場所は前頭7枚目で初の2桁勝利となり、12勝3敗で技能賞を獲得した。1987年(昭和62年)1月場所は新三役として関脇に昇進するも3勝12敗に終わった。
1989年(平成元年)1月場所に小結で1勝14敗と惨敗してからは鍛え方を徹底的に見直し、1日に20個の卵や、バナナ2本などが入った夫人特製のプロテインを摂取するとともに、ウエイトトレーニングによる肉体改造に取り組んだ。ベンチプレス200kg、スクワット300kg以上という強靭な肉体を作り上げ、体重も110kg台から一気に130kg前後まで増加し、その結果三役に定着。関脇で迎えた1990年(平成2年)3月場所では、6日目に横綱・千代の富士を吊り出して勝ち、千代の富士の通算1000勝達成を阻んだ。その後も連勝し続け成績は13勝2敗となり、横綱・北勝海、大関・小錦との優勝決定戦に出場、敗れはしたものの場所後に大関へ昇進した(優勝は北勝海)。
大関昇進後はライバルの小錦と共に横綱昇進を争っていた。1991年(平成3年)1月場所では、千秋楽に北勝海を下して14勝1敗、念願の幕内初優勝を果たす。横綱への昇進も現実味を帯びてきたものの、1月場所の優勝祝賀会など相撲以外の行事への出席による稽古不足や綱とりに対するプレッシャーにより、翌3月場所は5勝10敗と大敗、夢は果せなかった。その後も大関として活躍するが、同時に肘の故障等に苦しむようになる。
1992年(平成4年)9月場所、7勝4敗から終盤3連敗の後、勝ち越しをかけた小錦との楽日対決に敗れ、7勝8敗と負け越して角番へ。肘の怪我でほとんど握力の無いまま挑んだ翌11月場所は初日から連敗が続くなど精彩を欠き、更に7日目の水戸泉戦で右足首までも負傷して途中休場、16場所守った大関から陥落した。なお小錦は後年霧島を友人、戦友だと話しており、引退した後も大の仲良しと語っている。ちなみに小錦との本場所での通算成績は、38回対戦して19勝19敗と全くの互角であった。
この前年、千代の富士の引退を境に他の日本人横綱が立て続けに引退したため、大関以上では霧島が唯一の日本人力士だったが、11月場所の陥落により、1993年(平成5年)1月場所では日本人の横綱・大関が不在となっている(同場所後、当時の貴ノ花が大関に昇進したため日本人不在は1場所で終わる)。陥落前の力が落ちてきた時期の霧島の相撲には、三杉里を網打ちで倒したり、貴花田(当時)を内掛けで下すなど、技を活かしたものが多かった。
1993年1月場所は公傷制度適用のため休場。西張出関脇で再起をかけた3月場所は5勝10敗の負け越しに終わり、大関復帰はならなかった(規定により10勝以上で大関へ復活となっていた)。その後は平幕の地位に定着するも、人気の高さは変わらなかった。大関陥落後は、幕内中位から下位の番付では出し投げを中心とした技能相撲で勝ち越すことも出来たが、幕内上位に上がると大負けするという状態が続いた。勝ち越した場所も8勝7敗で終わることが多かったため、番付の上がりは遅く、常に十両落ちの危機と隣合わせだった。
また大関時代は約130kgあった体重も陥落後半年が経つ頃には120kg台前半まで落ちるなど体力の衰えも目立った。幕尻近い西前頭14枚目で迎えた1996年(平成8年)3月場所は3勝12敗で終わり翌場所は十両となることから、惜しまれながらもこの場所限りで引退、年寄・錣山を襲名した。この株は借株であり株が取得できない場合に備えて「ちゃんこ霧島」を興したのではないかと囁かれた事もあった[要出典](霧島本人は自著で株の取得の為だけに現役を続けたのではないと主張)。
その後名跡を勝ノ浦に変更し井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1997年(平成9年)12月に陸奥親方(元前14・星岩涛)の退職を受け、陸奥に名跡変更するとともに陸奥部屋を継承した。さらに2000年(平成12年)11月に立田川親方(元関脇・青ノ里)が停年退職した際に、立田川部屋を吸収して突如大部屋に変貌することになった。
[編集] エピソード
[編集] 和製ヘラクレス
筋力トレーニングを重視した力士としては千代の富士が有名だが、霧島も早くから実施していた。サプリメントなどの栄養面を重視した本格的な科学的トレーニングを実践した結果、30代になってから急激に成績が伸び、大相撲における筋力トレーニングの有効性を示した。その筋肉美から"和製ヘラクレス"の異名をとり、海外興行では外国人(特に女性)からも絶賛された。また甘い顔立ちでも知られ、パリ公演の際には"角界のアラン・ドロン"と紹介された。
[編集] 著書『踏まれた麦は強くなる』
霧島が子供時代から引退直前までの半生を語った本であり、現役中に日本相撲協会の了承を得て執筆、発売された。現役力士による著書の発売はきわめて珍しく、そのため霧島本人も著書内で日本相撲協会に対する感謝の意を示している。この本はフランスの大学で日本語教材として1997年に採用された。いち日本人力士の本が海外の学校教材として採用されたのは異例である。フランス語版は『ある力士の自叙伝』と題され、詳しい解説と注釈が付けられており、相撲のことをまったく知らない読者にも内容を完全に理解できるよう配慮されている。
フランスでは初の本格的な相撲紹介書として大きな反響を呼んで順調に版を重ね、現在では増補新版が縮刷本にて出版されている。大の相撲好きで知られるシラク前大統領はこの本に感動して何度も繰り返して読み、「もし政治家になっていなかったら、私は力士になりたかった」と記者会見で述べ、当時の内閣総理大臣であった橋本龍太郎の訪仏時には大統領自ら献呈している。帰国後にこれを読んだ橋本首相は感動に涙し、霧島に親書を送って感激を伝えたのみならず、自らも霧島を訪問している。この親書と訪問時の記念写真は、両国の『ちゃんこ霧島』に保存されている。
[編集] 他のエピソード
- 趣味はゴルフであり腕前はシングルプレーヤー。
- 現役時代は「ドラコンの横綱」と呼ばれ、力士会のゴルフコンペには欠かせない存在であった。
- 不戦勝になり、土俵上で勝ち名乗りだけを受けた際、マスコミのインタビューに「土俵に上がった時の踏み込みがよかったんじゃないですか」と応えるなど、ひょうきんな一面もある。
- 愛煙家である。
- 移動車はトヨタ・アルファード。
- 新入幕から引退に至るまで天覧相撲で星を落としたことがなく、現役期間中に行われた取組14回全てで勝ち星を飾っている。そのため、記者に対し「毎日来てくれれば全勝なのに」と語ったことがある。
- 上述の通り千代の富士を吊り出して1000勝を阻むなど“吊りの名手”として知られ、全盛期には「小錦関でも吊れます」と言う程だったが、実現の機会はなかった。
[編集] 主な成績
- 通算成績:754勝696敗40休 勝率.520
- 幕内成績:518勝507敗40休 勝率.505
- 大関通算成績:139勝76敗25休 勝率.647
- 幕内在位:71場所(うち大関16場所、関脇4場所、小結4場所)
- 幕内最高優勝:1回(1991年1月場所)
- 年間最多勝:1991年(62勝28敗)
- 三賞:8回
- 殊勲賞:3回(1989年5月場所、1990年1月場所、1990年3月場所)
- 敢闘賞:1回(1984年7月場所)
- 技能賞:4回(1986年11月場所、1988年11月場所、1989年11月場所、1990年3月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1984年 (昭和59年) |
x | x | x | 西 前頭 #12 8–7 敢 |
西 前頭 #8 7–8 |
西 前頭 #9 8–7 |
| 1985年 (昭和60年) |
西 前頭 #5 5–10 |
西 前頭 #11 8–7 |
東 前頭 #7 8–7 |
西 前頭 #2 3–12 |
東 前頭 #13 9–6 |
西 前頭 #4 6–9 |
| 1986年 (昭和61年) |
東 前頭 #9 8–7 |
西 前頭 #5 8–7 |
西 前頭 #2 4–11 |
西 前頭 #8 8–7 |
西 前頭 #1 4–11 |
東 前頭 #7 12–3 技 |
| 1987年 (昭和62年) |
西 関脇 3–12 |
西 前頭 #6 5–10 |
西 前頭 #12 8–7 |
東 前頭 #7 6–9 |
東 前頭 #12 8–7 |
西 前頭 #7 7–8 |
| 1988年 (昭和63年) |
西 前頭 #9 7–8 |
東 前頭 #11 8–7 |
東 前頭 #7 7–8 |
西 前頭 #9 9–6 |
西 前頭 #2 5–10 ★ |
西 前頭 #6 10–5 技 |
| 1989年 (平成元年) |
東 小結 1–14 |
西 前頭 #9 10–5 |
西 前頭 #1 8–7 殊★ |
東 小結 7–8 |
東 前頭 #1 8–7 |
西 小結 10–5 技 |
| 1990年 (平成2年) |
東 小結 11–4 殊 |
東 関脇 13–2[1] 殊技 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 6–2–7[2] |
東 張出大関 13–2[3] |
東 大関 10–5 |
| 1991年 (平成3年) |
東 大関 14–1 |
東 大関 5–10 |
西 大関 11–4[3] |
西 大関 10–5 |
西 大関 12–3 |
東 大関 10–5 |
| 1992年 (平成4年) |
西 大関 8–7 |
西 大関 12–3 |
西 大関 0–4–11[2] |
東 張出大関 11–4[3] |
東 大関 7–8 |
東 張出大関 1–7–7[2][3] |
| 1993年 (平成5年) |
休場 | 西 張出関脇 5–10 |
東 前頭 #2 8–7 |
東 前頭 #1 3–12 |
東 前頭 #12 9–6 |
東 前頭 #4 3–12 |
| 1994年 (平成6年) |
西 前頭 #14 8–7 |
東 前頭 #13 8–7 |
西 前頭 #11 8–7 |
東 前頭 #6 7–8 |
西 前頭 #8 7–8 |
西 前頭 #10 8–7 |
| 1995年 (平成7年) |
西 前頭 #6 4–11 |
東 前頭 #13 8–7 |
東 前頭 #8 6–9 |
東 前頭 #12 8–7 |
西 前頭 #5 4–11 |
西 前頭 #14 8–7 |
| 1996年 (平成8年) |
東 前頭 #13 7–8 |
西 前頭 #14 引退 3–12–0 |
x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
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[編集] 改名歴
- 吉永 一美(よしなが かずみ)1975年3月場所-1976年3月場所
- 霧島 一美(きりしま -)1976年5月場所-1982年3月場所
- 霧島 一博(- かずひろ)1982年5月場所-1993年3月場所
- 霧島 和博(- かずひろ)1993年5月場所-1994年1月場所
- 霧島 一博(- かずひろ)1994年3月場所-1996年3月場所
[編集] 年寄名変遷
- 錣山 一博(しころやま かずひろ)1996年3月-1997年5月
- 勝ノ浦 一博(かつのうら -)1997年5月-1997年12月
- 陸奥 一博(みちのく -)1997年12月-
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月21日 (土) 16:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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