青山和夫
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青山和夫(あおやまかずお)の本名は、黒田善治(1907年(明治40年)12月28日―1997年(平成9年)4月25日)である。佐久達雄、根津君(哲)夫という筆名もある。
明治40年12月,東京・青山に生れ, 日本学園中学に学び,卒業後,勧業銀行(東京本店)に勤務,その傍ら明治大学(専)法科に学ぶ(中退)。銀行勤務の傍ら予てより関心を抱いていた考古学・人類学研究に打ち込む。ある時,東京の文久堂の紹介で市川亡命中の郭沫若を知り,郭の下に出入りした。郭と知り会った頃,黒田は小山富士夫,江上波夫,大場馨雑,三上次男等と共に古代史研究会をもっていた。古代史研究の筆名は佐久達雑・根津君(哲)夫など。
昭和8年5月頃,戦闘的無神論者同盟に大島慶一郎の勧誘で参加, 8月以降中央常任委員,更に同盟の調査部長を12月頃迄勤めた。黒田が参加した頃の戦無は,前期のメンバーが殆ど検挙され,活動は弾圧の為衰退化の傾向をみせていたが,非合法下で再建が叫ばれていた。昭和8年6月頃の主要メンバーは,川内唯彦,黒田,西川治郎,佐野袈裟美,大島慶一郎,松井某,岡本威,立川幹一,小山富士夫,永田広志,唯研から佐木秋夫,岩倉政治等が参加していた。8年末の同盟員数は支部5,総員77名程度にすぎず,前年に比し支部2減,総員数49名減という有様であった。
同年10月末頃,大森カトリック教会に於て拡大中央委員会が開催され,川内,大島,佐木,岩倉,西川,佐野等と共にこれに参加,昭和9年1月頃,戦無第2回拡大常任委員会を大森駅近くの自宅で開催した。1月頃迄,アジプロ部長,婦人委員会準備責任者を兼務。8年頃の黒田は,アジプロ部資料,調査部資料, ウラ盆闘争及び労働歌集のパンフを反宗教闘争の啓蒙活動の一端として出版した。
9年2月,全農全会派関係で検挙(目黒), 7月戦無の一員であることが当局に発覚したが,既に戦無は西川・松井(1月),佐木(1月)等が検券され, 5月に佐野,川内の検挙をもってほぼ潰滅の状態となっていた。
後,転向し出獄,1937年(昭和12年)田中忠男と共に渡中。中国では青山和夫,インドシナでは林秀夫,香港では川内を名のった。青山の名は,黒の反対が青,田の反対が山ということで中国人が付けたものだという。
中国では国際問題研究所(国民党組織)に所属。又,「大公報」特派員,「南方日報」通信員を勤め,1947年(昭和22年)帰国後,佐木秋夫の依頼で山川均と連絡,民主人民連盟に参加した。(以上の記載は「先知(見通し)」による)
渡中直前から帰国直後までのことは、「反戦政略 中国からみた日本 戦前・戦中・戦後 三崎書房」に書かれている。
彼は朝鮮民族前線連盟と交流し、武漢在住朝鮮人の状況をよく把握していたため、「国際義勇軍組織計画方案」を立案して朝鮮義勇隊を創設・参加した。
考古解析(二):魏・呉の東方政策の角遂と倭の韓地出兵(森本六尓追悼論文)のPDFは、ここ
最終更新 2009年11月14日 (土) 12:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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