青山幸秀
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青山幸秀
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| 時代 | 江戸時代中期 |
| 生誕 | 元禄9年(1696年) |
| 死没 | 延享元年9月8日(1744年10月13日) |
| 別名 | 藤次郎(幼名)、幸侶(初名) |
| 墓所 | 東京都港区南青山の梅窓院 |
| 戒名 | 了雄忠山覚樹院 |
| 官位 | 従五位下、大膳亮 |
| 藩 | 摂津尼崎藩主→信濃飯山藩主 →丹後宮津藩主 |
| 氏族 | 青山氏 |
| 父母 | 父:青山幸督 |
| 兄弟 | 青山幸秀、青山忠朝、青山幸能 |
| 妻 | 正室:本多康慶の娘 |
| 子 | 金次郎、藤七、青山幸道 青山幸篤、青山幸充 青山忠高、青山幸弼 娘(相馬恕胤正室) |
青山 幸秀(あおやま よしひで)は、摂津尼崎藩の第4代藩主。後に信濃飯山藩主を経て、丹後宮津藩の初代藩主となる。郡上藩青山家4代。
元禄9年(1696年)、摂津尼崎藩の第3代藩主・青山幸督の長男として生まれる。宝永7年(1710年)、父の死去により家督を継いで第4代藩主となり、12月18日に従五位下・大膳亮に叙任される。宝永8年(1711年)2月11日、信濃飯山藩に移封となった。
享保2年(1717年)2月11日、丹後宮津藩に移封され、その初代藩主となった。しかし享保9年(1724年)には弟の幸能が自殺するなどの問題から、幕命により出仕を停止させられている。さらに藩政においても享保の飢饉における飢餓や幸秀自身の過酷な藩政によって領民は苦しめられ、農業が衰退し、かわって丹後の民衆は丹後縮緬を作ることで飢えを凌ぐほどだったという。皮肉にも過酷な藩政で、丹後縮緬は急速に広まることになった。
延享元年(1744年)9月8日に死去。享年49。跡を三男の幸道が継いだ。
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最終更新 2009年11月7日 (土) 22:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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