青島の戦い

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青島の戦い
1912年の青島
1912年の青島
戦争第一次世界大戦
年月日:1914年10月31日-11月7日
場所青島
結果:日本・イギリス連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国
イギリス帝国
ドイツ帝国
オーストリア・ハンガリー
指揮官
日本の旗神尾光臣中将
加藤定吉中将
バーナジストン少将
ヴァルデック海軍大佐
戦力
日本の旗約23,000
約1,500
3,625
損害
日本の旗大日本帝国
戦死 270
負傷 113
沈没 巡洋艦1
イギリス帝国
戦死 160
負傷 23
戦死 183
負傷 150
捕虜 4,715

青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中の1914年(大正3年)に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島日本イギリス連合軍が攻略した戦闘である。

目次

[編集] 概要

[編集] 膠州湾のドイツ軍の創設

1897年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊 (de) を配備した。

膠州湾租借地のドイツ軍

[編集] 戦闘の経過

1914年の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「タークー」と「S90」が残り、S90 は10月18日0時、雷撃により日本海軍防護巡洋艦高千穂」を撃沈している。

初の水上機母艦である若宮

第一次世界大戦に参戦した各国軍隊がそうであったように、日本軍は初めて飛行機を戦闘に投入した。陸軍はモ式二型を偵察と爆撃に投入し、海軍は世界で初めての水上機母艦である若宮を運用して、モーリス・ファルマン水上機を投入した。一方のドイツ軍は、ルンプラー・タウベで反撃。青島のタウベは1機のみであったが、機動性は日本軍のモーリス・ファルマンを圧倒的に上回っており、日本軍の航空隊は苦戦。急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送ったが、運用が始まる前に停戦を迎えた。

1914年10月31日、「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上で神尾光臣中将(後に大将)指揮する第18師団(約29,000名)と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約4,300名であった。

11月7日午前6時30分、ドイツ軍は白旗を掲げ、午前9時20分にドイツ側軍使のルードヴィヒ・ザークセル大佐とカイゼル少佐が日本側軍使の香椎浩平少佐に降伏状を届ける。

11月7日午後7時50分に両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。

[編集] 停戦後

破壊されたドイツ軍の要塞砲

11月8日にヴァルデック総督は、日本軍の便宜を受けて、膠州湾青島守備軍の降伏を本国に報告する。これに対して、ドイツ皇帝よりヴァルデック総督に1級鉄十字勲章を授与したほか、守備軍の善戦を嘉するを発した。

多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に1919年ヴェルサイユ条約締結まで長期に渉り収容された。トラブルも生じたが、比較的自由な取り扱いを受けた徳島県の板東俘虜収容所では地元住民との交流があり、ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏、鉄棒体操等が広められた。映画『バルトの楽園』はこれを映画化したものである。

大戦終結後の1920年(大正9年)11月1日に青島要塞攻略の功によって、神尾光臣大将に功一級金鵄勲章が授与される。

[編集] 参加兵力

[編集] 日英連合軍

損害:戦死216、負傷67
    • 海軍
      • 第2艦隊(司令長官:加藤定吉中将、参謀長:吉田清風大佐)
        巡洋艦6、砲艦4、海防艦9、駆逐艦・水雷艇31、特務艦18
損害:沈没 - 巡洋艦高千穂、戦死54、負傷46
青島に到着したイギリス軍
  • イギリス軍
    • 陸軍(指揮官:バーナジストン少将)
      • 参加部隊:歩兵1個大隊基幹、印度兵2個中隊
    • 海軍:戦艦1隻、駆逐艦1隻
損害:戦死160、負傷23

[編集] 独墺連合軍

損害:戦死183、負傷150、捕虜4,715

[編集] 参考文献

  • 斎藤聖二『日独青島戦争』ゆまに書房、2001年。ISBN 4-87802-058-X
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月2日 (金) 06:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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