青森ねぶた

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青森ねぶた(あおもりねぶた)、または青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)とは青森県青森市8月27日に開催される夏祭りである。毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。ねぶた祭の中では最も観光客を集めており、東北三大祭りの1つに数えられる。青森ねぶた祭に関する資料等を有する「青森自然公園 ねぶたの里」内の「ねぶた会館」には、享保年間(17161735年)の頃に現在の青森市油川でねぶた祭が行われたと記録されている。1788年に江戸定府藩士が記した「奥民図彙」と言う図版では京都・祇園祭の山車に似たねぶたが描かれ、人が山車を曳く様式が確認できる。1800年代初頭に人を模った人形型ねぶたが登場し人が山車を曳くねぶたの他、ねぶたを台座に置き担ぐ形式も登場するようになりその後、ねぶた祭は青森県内の各地で独自の発展を遂げて行く。また市制施行60周年を迎えた1958年に「青森ねぶた祭」と正式に命名され、1980年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

実際の祭りでは囃子方、ハネト、ねぶたを先導する扇子持、ねぶたを動かす曵き手と言う順番に22~23の団体がねぶたを中心に町内を練り歩く形式で行われる。ハネトは「跳ね人」が由来とされ、独特の衣装を纏った「ハネト」と呼ばれる踊り手が「ラッセラー」と言う掛け声と共に跳ねる様に舞うのが特徴。そのハネトを躍らせ、ねぶたを生き物の様に舞わせるのが囃子方である。囃子方は明治初期に「正調囃子」を復興させる活動が実行に移され、現在は凱立会と言う組織が中心となって講習会等を行っている。凱立会は祭りでは独立した囃子方として参加するが、普段は正調囃子の普及と楽器演奏の技術力向上に努めている。

目次

[編集] 起源・歴史

以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂陸奥国蝦夷征討三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大蟷螂太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

このほかにも八切止夫が「ねぶた」という言葉の語源から推察した説も存在する。かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる5万の大軍を北上川で全滅させ鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された田村麻呂らと12年に渡って戦ったが最後には制圧されて蝦夷は滅びた。阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが東北に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。つまり「根」(死)の国へ追いやるための土かぶせの「蓋」ということである。踏んづける恰好をする踊りに田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。

藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に北川啓三(後に、ねぶたの神様)というねぶた師が針金を用いて指を1本づつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われている。

北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は北川が築いたと言える。ねぶた作りは、

  1. 主題の決定
  2. 設計図となる下絵作り
  3. パーツとなる細部の製作
  4. パーツ類を配置する為の骨組み
  5. 明かりを灯す為の電気配線
  6. 針金の表面を覆う紙貼り
  7. 紙の上に黒いフチや線を描く書割
  8. 着色時の色の混濁を防ぐロウ書き
  9. 白地に彩色する色付け
  10. 持ち上げて台座に設置する台上げ

というこれらの10の工程を経て完成する。この長い工程の内、立体になる前段階の作業が最重要だと言う。現在では最大サイズとして幅9m、奥行き7m、高さ5mと言う規定がある。

[編集] 題材

神仏、日本や中国の伝説、歴史上の人物、歌舞伎などを題材にすることが多いが近年では地元の伝説や偉人、テレビ番組(特にNHK大河ドラマ)などを題材にすることもある。

[編集] 開催状況

毎年8月2~7日まで開催される。このうち8月2~6日が夜間運行である。7日は昼間運行であるが、夜に海上運行と花火大会が催される。開催にかかる費用は、約2億2千万[1]

青森のねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがある。子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さい。子供ねぶたは8月2・3日の2日間運行される。大型ねぶたは開催期中必ず運行されるが、奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数が少ない。

[編集] 青森市以外のねぶた・ねぷた

[編集] 青森ねぶたの遠征

恒例となっているもの
「青函ツインシティ交流」を結んでいる北海道函館市の「函館いか踊り」との間で、隔年で「ねぶた」と「いか踊り」の相互派遣が行われている。2006年は8月7日のねぶた昼間運行の先頭に「いか踊り」が登場し、2007年は函館に「ねぶた」が派遣された。
  • 「センター街ねぶたまつり」
2005年より、毎年9月に東京都渋谷区渋谷センター街で開催。
現時点で単発開催のもの

[編集] 各地のねぶた

詳細は「ねぶた#各地のねぶた一覧」を参照

青森県内では、大小さまざまなねぶた・ねぷたが合わせて約30市町村で作られている。以下は主なもの

青森県外では、ねぶたが祭りの一部に組み込まれている例が見られる。

[編集] 運行コース

青森市内の国道4号、新町通り、県庁通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースとなる。

1982年まで国道4号線県庁通り交差点から1台ずつ出発し、コースを右回りで回っていた。しかし祭りが佳境にはいったころ車幅の狭い新町通りにねぶたが入り、ハネトで通りが一杯になりねぶたがいつまでたっても前に進めないという問題点が指摘された。このため1983年に左周りにコースが改められた。

その後、1992年にねぶた団地(ねぶたの車両基地のようなところ)が観光物産館付近のラッセランドに移されスタート地点が新町通りと柳町通り付近の交差点となった。

しかし祭りが高潮するとハネトであふれかえるためゴール地点は常に渋滞し、祭りそのものがなかなか終了しないという問題は相変わらずであった。ねぶた祭は青森市内の幹線道路を2本も通行止めにするので、時間通りに祭りが終了しないと市民生活に与える影響も大きい。またこの頃から、増大するカラス族(後述)の問題が無視できなくなってきた。祭りがだらだらと運行されるとカラス族が最後尾に集合し、祭りそのものが彼らの格好の餌食にされてしまう。

そこで2001年にはあらかじめねぶたを配置し花火の合図で同時にスタートし花火の合図で同時に終了するという手法に改められ、コースも右周りとなった。これによりねぶたの列の始めと終わりがなくなり、運行もスムーズになった。また、祭りを破壊しに来るカラス族を少なくさせることにも成功した。

一方で、花火の合図と同時に最高潮にある祭りが蜘蛛の子を散らすように終了するのは見ていて寂しいものがある。

なお最終日の7日に限り、現在でもねぶたが1台ずつ出発している(吹き流し)。

[編集] ねぶた祭りへの参加

ねぶたの運行に関して基本的な運営(ねぶたの隊列、山車の運行、囃子方)は各出陣団体によって賄われる。それ以外の重要なファクターとしてねぶたをロープで引っ張る子供(現在は形式だけで実際に引く団体は稀)、ハネトがある。特にハネトに関しては正式な装束をまとってさえいればどの団体のねぶたに参加しても自由である。居住地に関しての制限も無い。一般の観光客が参加しても構わない。衣装は県内のスーパーやデパートなどで花笠を除いて一式5000円程度で販売されている。また、ねぶたの運行ルート上には衣装のレンタルを行っている所もある。こういった所では衣装の着付けもしてくれるので気軽にハネトとして参加することができる。

[編集] ねぶた大賞

最優秀のねぶた運営団体には「平成○年ねぶた大賞」(○にはその年度の数字が入る)が贈られる[2]

またこの賞は1962年より「田村麿賞」の名称で制定されたが、坂上田村麻呂は東北地方から見れば征服者であるという見解により「賞名に征服者の名前を使うのはおかしい」という批判もあり各界各層の意見や世論を踏まえた結果として1995年より現在の賞名に変更された。

[編集] 「カラス族」問題

カラス族カラスハネト)とはねぶた祭りで傍若無人な振る舞いをする者達である。彼らはハネトの正式な衣装ではなく、黒装束などの衣装でねぶたに参加しそれがカラスのように見えると言うことで「カラス族」または単に「カラス」と呼ばれるようになった。

「カラスハネト」とも言われるが彼らの振るまいは祭りにそぐわないもので、そもそも「ハネト」の名に値しないとして地元メディアでは「カラス族」として表現されることが多い。徒歩暴走族の分類とされる。

カラス族は1986年あたりからねぶた祭りに現れ始めたといわれる。当初はそれほど問題視されてはいなかったが平成に入ると暴走族などがグループの中心となるようになり、次第に悪質凶悪な集団となっていった。この問題はしばしばマスコミ等で取り上げられたが、それがかえって全国からカラス族の集団を呼び集める「逆効果」を引き起こすこととなった。青森市にとってねぶた祭りは貴重な観光資源であり、祭りの安全かつ正常な運営は避けて通るわけにはいかない。そこで青森市など主催者側はカラス族を監視、統制するためにカラス族を1か所にまとめてねぶたを運行するという対策を1996年に行った。しかしこの対策はカラス族を肯定することとなり、逆にカラス族を増長させるという結果になった。

この危険な集団は2000年には1万人にも増え仲間同士の抗争、観客や警察への暴行と凶行がエスカレートしもはや正常な祭りとは言えないような状況になった。

そこで主催者側は2001年、ねぶたの一斉スタート、一斉終了という作戦を導入した。同年、県も迷惑行為等防止条例を施行し事件にならなければ手が出せなかった警察も事件が起きる前に摘発、排除できるようにした。結果、祭りとしては盛り上がりに欠けるものになったがカラス族対策には効果があり事件の件数は激減した(五所川原に移動しただけとの見方もある)。しかし特に以前の祭の盛り上がりを懐かしむ人の間ではこれに反対する声も根強い。

現在ではねぶた祭りの治安はかなりよくなっている。これも市、警察、ボランティアの人々の努力の賜物である。

近年では正装であるたすきをかけずに祭りに参加する女性が増加している。カラス族が減少している今、第2のカラス族とも言うべきたすきをかけずにまるで振袖のような格好の「クリオネ族」なるものも登場している。いずれにせよ、祭りに参加する者のモラルの低下が見受けられる。

暴走族を「珍走団」と呼ぶことで格好の悪いイメージを持たせるのと同様に、カラス族にも格好の悪い名称を付けることが期待されている。

[編集] ねぶたが出た映画

[編集] その他

  • 北海道の七夕には、青森県のねぶたが伝播・変化して根付いた「ローソクもらい」という子供たちの行事がある。

[編集] 脚注

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  1. ^ 提言書米子青年会議所
  2. ^ 各賞紹介(青森ねぶた祭オフィシャルサイト)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年9月13日 (日) 14:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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