韓国併合

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韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国大韓帝国(今日の韓国北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。

韓国併合によって大韓帝国は消滅し、大日本帝国はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮支配は終了した。

「韓国併合」というとき、大韓帝国が消滅し、朝鮮が大日本帝国の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。

目次

[編集] 併合条約の日韓の見解

第二次世界大戦後の日本側は韓国併合に関しては韓国併合ニ関スル条約の締結自体合法であったと考えている。これに対し第二次世界大戦後に韓国・北朝鮮として大日本帝国から独立した両国とも、韓国併合ニ関スル条約は大日本帝国と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、大日本帝国による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効であるという立場を崩していない。この点について、1965年に大日本帝国を継承した日本国と大韓帝国南半分を継承した大韓民国の間で国交を回復時に結ばれた日韓基本条約では、この条文において「現在においてはもはや無効である」と表現することで合意に達した。しかし、両国で解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない(詳細は日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約#条約に関する歴史認識の違いを参照)。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。

[編集] 時代背景と大日本帝国・朝鮮の世論

明治維新後、急速に発展を遂げた大日本帝国は対外的な国防政策を考えた場合に朝鮮半島が地政学的に大きな意味があると考えた。古来より永きに渡って琉球と並んで日本本土と大陸との交流におけるパイプ役を果たしてきた朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、大日本帝国にとって戦略的に致命的な弱点を握られることを意味していると考えたためである。

当時朝鮮半島を治めていた、李氏朝鮮清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の天皇という文言を使用していたこともあり、それまでの中華秩序に対する挑戦と受け取られ、長らく中華秩序の一翼を担ってきた李氏朝鮮側は批判的であった。そして大日本帝国による近代化の要請も内政干渉であると考え、日本側の民間知識人による近代化の提言も侵略的意図によるものと考えられ朝鮮王朝内部における政争の具にしかならなかった。

しかし、西欧列強や大日本帝国は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを許さず、大日本帝国は江華島事件を機に李氏朝鮮と不平等条約である日朝修好条規を締結し、それを皮切りに李氏朝鮮は列強諸国に同様の条約を結ばされて開国を強いられた。その際、大日本帝国は清国の朝鮮への影響力を弱めるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執したが、そうした清朝の冊封体制から離脱させようという日本側の意図はそれまで冊封体制に頼り切っていた朝鮮王朝や朝鮮側知識人にとってすぐには理解しがたいものであった。よく誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは、即「属国保護国」を意味しているものではないことについての認識の差が両政府間に存在した[1]。また近代的な西欧的国際感覚を西欧列強が弱小国家へ当時押し付けていたのに対し、大日本帝国も同様に李氏朝鮮へ押し付けようとしたため、当然のことながら押し付けられようとした側から反発を招くこととなった。

また開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、大院君閔妃はあくまでも旧来の李王朝を守り通そうとしていた。大日本帝国側は日本主導の朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国ではあくまでも李氏朝鮮は冊封体制下の属邦であるとの主張を変えなかった。

こうして李氏朝鮮を挟んだ大日本帝国と清国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外国による侵略を排除すると唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。大日本帝国と清国の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮半島に出兵したが、それ以前に農民勢力と政府の間には和約が結ばれ日本軍・清国軍とも朝鮮駐兵の理由を失った。しかしこれを朝鮮への清国の影響力を排除する好機と捉えた陸奥宗光など大日本帝国政府は日本軍の駐兵理由を反乱鎮圧から李氏朝鮮政府の内政改革勢力からの駐兵要求などと口実を変え居すわった、清国も同様でともに撤兵せず、ついに1894年日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を結びその中で李氏朝鮮が自主独立国であることを認めさせたことで、それまでの朝鮮半島における清国の影響力を排除することに成功した。

こうして日清戦争直後の朝鮮半島では日本の勢力が強まり、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強かったものの、その後大日本帝国が西欧列強帝国による三国干渉に対し屈するのを見た朝鮮王室は帝国主義諸国同士の牽制による朝鮮独立維持を目指し帝政ロシアに接近したため、政争が過激化した(閔妃暗殺も、この時期である)。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館にて1年あまり政務を執った(露館播遷)。これにより朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあったと考えられ、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアと対抗するため大韓帝国と国号を改めた。しかし、国号を変えただけで政体を変えるといったことはなく、進歩会(のちの一進会)などの改革派は相変わらず弾圧され続け、近代化への国の統合をさせなかったことや国外からの干渉などから大韓帝国の近代化を進めることは難しかった。

大日本帝国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こり、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本側が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む大日本帝国政府と世論は合致した。

韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年4月に桂首相と小村外相が伊藤博文に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した[2]。その2週間後の東京での演説でも伊藤博文は、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」とそれまでと違って併合を容認する発言を行い聴衆を驚かせており、その頃は既に伊藤博文は韓国併合を容認していたと思われ、伊藤暗殺時にはもはや大日本帝国政府内において日韓併合に反対する政治勢力は存在しなかった。

[編集] 保護国化の進行

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れた帝政ロシアがそれまでの朝鮮半島に持つ利権を足がかりに南下政策を取りつつあった。当初、大日本帝国側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島の利権や東アジアの勢力扶植をどちらが手に入れられるかで対立し続け緊張は頂点に達した。1904年日露戦争の開戦である。

大日本帝国政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、中立を宣言していた大韓帝国に1904年2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、日本による保護国化を進めていった。一方で、高宗は日本側の影響力をあくまでも大韓帝国から排除しようと試み、日露戦争中においても帝政ロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していたという説もある。 しかしながら日露戦争の大日本帝国側勝利により朝鮮半島における影響力をさらに増大させた大日本帝国政府は1905年11月、第二次日韓協約(大韓民国では乙巳保護条約と呼ぶ)を大韓帝国に締結させ、12月には韓国統監府を設置して大韓帝国の外交権を支配下に置いた。しかし第二次日韓協約の締結を認めない高宗は条約締結は強制であり無効であると訴えるため[3]、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(いわゆるハーグ密使事件)が、第二次日韓協約自体は当時の帝国主義国間で認められていた国際協約であったためこの訴えは第2回万国平和会議から拒絶された。この事件に対して韓国統監であった伊藤博文をはじめとした大日本帝国政府首脳は激昂し、高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日には半ば強制的に高宗は退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。

これを不満とした元兵士などを中心として、抗日目的の反乱が起きたが兵のほとんどが旧式の武装しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。もともと、軍隊としての存在意義が薄かったための解散でもあった。残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。

[編集] 大日本帝国統治時代

詳細は「日本統治時代の朝鮮」を参照

1909年7月に韓国併合の方針が閣議決定されたが、併合自体は将来的な課題としてそれまで早期合併に抵抗を続けていた大日本帝国重鎮である伊藤博文も同年4月には韓国併合を容認する発言を行っており。10月26日には朝鮮人安重根によってハルピンにおいて暗殺されたことにより、もはや併合に反対する政治勢力が存在しなかったこと、および初代首相であり元老のひとりでもあった伊藤博文という政府重鎮が一朝鮮人に暗殺されたことで日本側世論は併合へ傾いていった。こうして日本側の韓国併合に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然大韓帝国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出されると、大韓帝国内では国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気勢が高まり、在朝鮮日本人新聞記者団からも一進会は猛烈な批判を浴びせられた。そもそも「韓日合邦を要求する声明書」は大韓帝国と大日本帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の現状から見ても大日本帝国にとって到底受け入れられない提案で、また、無闇に大韓帝国世論を硬化させる結果を招き、統監府からは集会、演説の禁止命令が下された。

韓国併合の閣議決定から1年、いろいろと紆余曲折はあったが、閣議決定どおり、1910年8月22日日韓併合条約により大日本帝国は大韓帝国を併合した。

これにより、大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)の終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は貴族とされた。

朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は地主の申告通りに所有権が認められたがそうでないものもあり、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された多くの土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では前近代的土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。大日本帝国の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。

[編集] 大韓民国における大日本帝国統治時代の呼称

大日本帝国統治時代を韓国側が日帝強占期(韓国の公営放送KBS=韓国放送公社=ではこの呼称に最近統一しようとしている)、日帝時代または日政時代などと呼ぶ事が知られている。前者2つには、韓国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国支配を単なる軍事占領にしたい認識が伺える。また、日本植民地時代という呼称も用いられるが、韓国併合条約、大日本帝国による朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するという認識から、近年では忌避される傾向にある。

[編集] 大韓民国における大日本帝国統治時代の評価

独立後の韓国の歴史学者・学会は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は朝鮮朝の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が独立後に現れた。一方、評論家・作家の金完燮や日本国の保守層を代弁する人物として、拓殖大学の教授で済州島出身呉善花などは大日本帝国による統治を肯定的に評価する本を執筆しており、またソウル大学教授の李栄薫などによる、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論も存在するが韓国人としては少数派である[4]。近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。また国外的には、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートも韓国での萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的のもの」としており、近代化萌芽論を強く否定し、韓国の資本主義は大日本帝国の植民地化の中で生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は大日本帝国の近代化政策を模したものという研究結果を出している。同時に彼は大日本帝国統治そのものについては朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。

[編集] 大日本帝国統治下の朝鮮を植民地と呼ぶかどうかについての論争

植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。現実例から抽出されたモデルに現実に用いられた呼称を適用することからはじまったが、先行モデルを中心に価値判断を排除すべく概念規定されつつある。これは先行する事実をモデルにしないかぎり、名称をつけられず、議論も不可能であるためである。

ただし、欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく大日本帝国型植民地支配がどのようなものであったかについては継続して議論が戦わされている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは大日本帝国の朝鮮支配について「植民地」という呼称を用いるべきではないとも主張されている。

朝鮮半島を支配していた当時の大日本帝国政府は、法的には朝鮮に対して特別の呼称(植民地、外地など)を付さなかった。ただし公文書内では植民地、外地とも使用例が見られる[5][6]。戦前の在野の学者や思想家の間にも朝鮮が植民地であるかどうかについて見解の相違があった。憲法学者の美濃部達吉、植民政策学者の新渡戸稲造矢内原忠雄など社会科学者は概ね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や思想家の北一輝などは植民地ではないとしていた。現代では当時の大日本帝国勢力下にあったその他の外地と同様、外務省条約局の「外地とはすなわち内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」にあたり大日本帝国憲法が適用されず、朝鮮総督が発する制令が法律であった、すなわち日本内地とは違った法体系で治められてたことからそれを持って植民地であったと言えるとする意見もある。戦後の日韓併合に批判的な歴史学界や日本の政治家には朝鮮半島が植民地であったとする表現があるが、日朝平壌宣言のような日韓併合に対し否定的な国家との間に結ばれ政治的配慮の必要性がある外交文書においても朝鮮半島が植民地であったとする表現は用いられている。日本国における小渕内閣時に出された日韓共同宣言においても、それ以前の村山政権時に村山首相がおこなった「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)を踏襲し大日本帝国時代の朝鮮半島統治が植民地支配であったと認めている内閣も存在する(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。現在の日本国外務省のホームページ上にある外交政策Q&Aでは大日本帝国による当時の朝鮮半島統治に対し「植民地支配」という表現を使用している。

[編集] 年表

韓国併合に関係する年表
出来事
韓国 北朝鮮
1895年 下関条約
閔妃暗殺(乙未事変
1896年 露館播遷
1897年 大韓帝国に国号変更
1904年 日露戦争開戦
日韓議定書
第一次日韓協約
1905年 日露戦争終結
第二次日韓協約
韓国統監府設置
1907年 ハーグ密使事件
純宗即位
第三次日韓協約
1909年 伊藤博文暗殺
1910年 韓国併合
1945年 分割占領、朝鮮総督府解体
朝鮮38度線以南 アメリカ合衆国が占領 朝鮮38度線以北 ソビエト連邦が占領
1948年 大韓民国建国 朝鮮民主主義人民共和国建国
1952年 サンフランシスコ平和条約発効
日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄
1965年 日韓基本条約調印 発効
日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認

[編集] 歴史認識の比較

日韓併合史について、以下のような歴史認識の相違がある。

日韓併合条約を肯定的に捉える人達の一般的な歴史認識 日韓併合条約を否定的に捉える人達の一般的な歴史認識
資本主義の萌芽 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、大日本帝国による統治が朝鮮の近代化をもたらした。ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートによると研究の結果、韓国における李朝近代化萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的のもの」としており、李氏朝鮮において近代化の萌芽を発見することはできないと強く否定している(#参考文献)。 李氏朝鮮末期には、近代化の萌芽が存在した(姜在彦「朝鮮の開化思想」/他、司馬遼太郎など)。資本主義の萌芽が存在したと唱える者も少数ながら存在する。
帝政ロシアによる併合 仮に大日本帝国が朝鮮を併合していなくても、帝政ロシアが併合していた。大日本帝国は自国の安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った。ソ連時代における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が大日本帝国に支配されたことは僥倖というほかない。 仮定の話でしかないので、この点を論じない者、取り上げない者がほとんどである。大日本帝国が併合しなければ帝政ロシアに併合されると言う根拠もわからなければ、大日本帝国の支配のほうが帝政ロシアによるものより善いとする論拠がわからない。
朝鮮における併合の受容 朝鮮朝末期では最大と大日本帝国がみなしていた政治団体・一進会も、日韓併合に賛成していた。日韓併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。また、英ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」としている(2001年11月27日 産経新聞)。 韓国では、朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたものであるという認識が大多数を占める。ゆえに韓国併合に関する全ての条約は締結時から違法であり、国際法上も違法であるという認識が主である。この認識に基づいて、締結前の日韓協定に遡及して、それによってもたらされた結果にまで日本側の責任を問う者も多い。日本国の革新派では、併合条約が違法だという立場をとらない論者も植民地化の不正義を遡及して追及するべきと考えている者が多い。また、韓国・日本国を問わず、朝鮮植民地化のみならずアフリカにおける奴隷貿易や欧州の奴隷制度時代にまで遡及して(すなわち欧米諸国の植民地主義をも含めて)違法とするべきだと唱える者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ大日本帝国への吸収合併ではなく対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合そのものに対しては、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことをもって、反発があったことは自明とする。
独立運動 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は熱烈に独立に向けて活動していたわけではない。上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。国内の共産主義運動は地下に潜伏しており、大きな影響力を持たなかった。満州の共産主義運動は中国共産党の影響下で行われたもので朝鮮独立ではなく中国革命を目指すのが本義とされていた。しかし、その実態は無差別に民衆から略奪を行う匪賊と大差がない。匪賊ゲリラの違いについては論じないが、論じる必要がない。 大日本帝国の統治に対して朝鮮の民衆は併合前にから激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が大日本帝国政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧迄に数ヵ月を要している。その中では治安当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民を教会ごと焼き払い皆殺しにして鎮圧する事件まで引き起こした(堤安里事件)が、これは欧米諸国の非難を招き、以後キリスト教会を弾圧対象にできなかったため却って独立運動の拠点を作り出してしまう結果にもなった。上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には大日本帝国に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとろうとしたが、その実態は爆弾テロ闘争程度であったことを認めざるを得ず、結果としても直接対決に至る以前に大日本帝国の降伏によって大韓民国として独立を迎えた。また共産主義運動に対する弾圧への評価では大日本帝国統治に批判的な人々の間においても、日本革命または中国革命など単に他国の共産主義化運動に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったとする評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を大日本帝国へ与えられなかったという評価や、むしろゲリラであるかぎり匪賊と(犯罪行為はともかく)見分けがついてはならないのが当然であるとするものまで様々である。
大日本帝国統治時代の認識 大日本帝国はその開国直後から、帝政ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、大日本帝国の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目にソウルに設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、大日本帝国からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに大日本帝国は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きいと主張する。これが「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作以外のなにものでもなく、到底うけいれられない。朝鮮半島が、帝政ロシアや清国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことが、できなかったという状況の下での次善の選択としては、日韓併合はもっとも妥当なものに近いと考えられ、朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力が併合を推進した意図と比べても本質的な差異はない。このように併合にはプラス面があったし、また大韓民国・一進会が併合について主体的に関与している度合いが大きい以上、決して大日本帝国側が一方的に非難されるいわれはなく、プラス面を考慮したうえで併合を評価するべきである。仮に、大日本帝国の朝鮮支配が不当なものであったとして絵も、同時代に植民地支配を行った欧米諸国はこれについて謝罪も賠償もしておらず、大日本帝国を継承した日本国だけが責任を追及される謂れはないというべきである。 朝鮮植民地化によってあらゆる搾取に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではないという認識)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。産米増殖計画においては、日本内地への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって大日本帝国の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された。朝鮮植民地化によって、大日本帝国は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。



差別 経済的平等については併合直後の、日本内地と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から大日本帝国は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかっためその改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)。また、政治的平等については、朝鮮人に対しても内地では選挙権が与えられ、かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた。ただし、あくまでも制限選挙ではあった。日中戦争から太平洋戦争にかけては大日本帝国内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本側はその要望に答えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、改名は任意だったはずだ。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、実質的に差別があるとしても、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また、当時、朝鮮人の顕職者が日本人より少なかったことも、日本人と朝鮮人の能力と教育レベルの差の結果であるから、朝鮮人は文句を言う前にわが身をかえりみてほしい。 日本人は朝鮮人を蔑視していた。その象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的な強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。大日本帝国の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者系の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し、共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく、朝鮮人の反乱を恐れためである。朝鮮からは本国議会へ議員を選出することはできず、朝鮮人の代議士が存在したとしても大日本帝国政府の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮人の民意を代表すると信じたものはいなかった。官公庁や軍に朝鮮人が採用されたとしても、その多くは下級職であり、昇進の道は日本人より比較にならないほど閉ざされていた。これらは、後年、総動員体制期を迎えるにあたって唱えた一視同仁や内鮮一体などの美麗字句が単なるタテマエでしかなかったことを示している。朝鮮人への蔑視感情は継続してさまざまなメディア表現にあらわれており、激化する一方であった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に植民地朝鮮においてその程度は根強かった。この根強さは朝鮮総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国政府に対して、朝鮮に植民した日本人(大日本帝国政府にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を個々具体的に報告ことで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。


解放後 大日本帝国は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政プロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は日本国政府が関与しないところで金日成の奇襲によって起きたのだから、何もかも大日本帝国統治が原因だとするのはお門違いである。 南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農およびインテリ層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。大日本帝国は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功したため、朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。これらの経緯にもかかわらず、大日本帝国の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本国人もいた。北朝鮮は戦後の日本国の行為についてまで謝罪と償いを求めており、金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党3党共同宣言は「戦後45年間の償い」を盛り込んだ。これが何を指すか明確ではないが、実際に日本国内の革新派・韓国内の左派ともに、日本国政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓問題は全て解決済み」として現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している。

[編集] 注釈

  1. ^ 岡本隆司『属国と自主のあいだ-近代清韓関係と東アジアの命運-』名古屋大学出版会、2004
  2. ^ 『伊藤博文伝(上,中,下巻)』春畝公追頌会 編 、1940年
  3. ^ 「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、2001年ハーバード大学アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている(原田環『韓国・北朝鮮の嘘を見極める』)
  4. ^ 彼らはチンイルパとして不当に糾弾されており、特に金完燮は国会での傍聴中や裁判中に暴行を受けるなどの被害を被っており、安全のため住所すら公表していない。
  5. ^ 日本近代史と戦争を研究する 植民地としての朝鮮
  6. ^ 日本は朝鮮半島を植民地支配し、何をしたのか ― 戦前 - 水野直樹(京都大学人文研教授)

[編集] 参考文献

  • 崔基鎬 『日韓併合の真実――韓国史家の証言』 ビジネス社、2003年。ISBN 4-8284-1068-6
  • 崔基鎬 『日韓併合――韓民族を救った「日帝36年」の真実 歴史再検証』 祥伝社、2004年。ISBN 4-396-61227-3
  • 崔基鎬 『日韓併合――歴史再検証 韓民族を救った「日帝36年」の真実』 祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2007年。ISBN 978-4-396-31435-4
  • 呉善花 『韓国併合への道』 文藝春秋〈文春新書〉、2000年。ISBN 4-16-660086-9
  • 『韓国・北朝鮮の嘘を見破る――近現代史の争点30』 鄭大均、古田博司、文藝春秋〈文春新書〉、2006年。ISBN 4-16-660520-8
  • 杉本幹夫 『「植民地朝鮮」の研究 日本支配36年 謝罪するいわれは何もない』 展転社、2002年。ISBN 4-88656-214-0
  • 海野福寿 『韓国併合』 岩波書店〈岩波新書〉、1995年。ISBN 4-00-430388-5
  • 吉田光男 『韓国朝鮮の歴史と社会』 日本放送出版協会、2004年。ISBN 4-595-23759-6
  • カーター・エッカート 『日本帝国の申し子――高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876-1945』 小谷まさ代、草思社、2004年。ISBN 4-7942-1275-5

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最終更新 2009年9月1日 (火) 23:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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