飛龍 (空母)

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千葉県館山沖で公試運転中の飛龍
1939年4月28日)
艦歴
起工 1936年7月8日
進水 1937年11月15日
竣工 1939年7月5日
喪失 1942年6月6日
除籍 1942年 9月25日
性能諸元
排水量 基準:17,300トン 公試:20,165トン
全長 227.35m(飛行甲板長 216.9m)
全幅 22.32m
吃水 7.74m
出力 153,000hp
最大速力 34.5ノット
航続距離 7,670カイリ
乗員 1,103名[1]
搭載機 常用57機、補用16機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機:18機
九七式艦上攻撃機:18機
兵装 40口径12.7cm連装高角砲:6基12門
九六式二十五粍高角機銃:3連装7基
:連装5基 計31門

飛龍(ひりゅう)は、日本海軍航空母艦

目次

[編集] 概要

昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造された中型空母である。当初は「蒼龍」型の2番艦として計画・建造されていたが、よりゆとりがあるように飛行甲板幅を1m広げ艦幅を若干太くし、艦首乾舷を高めるなどの設計変更により、別艦に近い型となり、文献によっては、蒼龍と同型艦にするか、独立するかで意見が分かれる。

外見上最も目立つ変更点は左舷中央に島型艦橋を配置している点で、左側に艦橋を配置しているのは世界の空母の中でも珍しく、日本では「赤城」とこの「飛龍」の二隻である。両艦の完成前はこの位置が艦の指揮・運用上、また造艦上最も理想的だと信じられており(つまり実験的に配置されたわけではない)、空母の航空艤装に関する取り決めでも定められていた。しかし実際には、着艦空域に若干の気流の乱れを生じさせること、煙突からの排煙によって艦橋からの視界が悪くなることがあるなどデメリットも多かった。ただし、甲板の着艦用設備のバランスが適切だったこともあり、このような欠点を有する割には事故が少なく制動時の衝撃も軽かったため乗艦したパイロットからは安全性面で高く評価された。

また、左右関係なく、艦橋設置位置が従来と比べ後方に寄ったため、パイロット達には、この配置では着艦時に艦橋に突っ込みそうになる感じがあると不評であり、ダメージコントロール面でも損傷時の対策への装備や設備の甘さなどが目立ち、それがミッドウェーに於ける戦没に繋がってしまった。

それ以外の点については概ね良好であり、以後、日本海軍は「飛龍・蒼龍」を日本空母の原型として設計、建造をし、本級を拡大させた翔鶴型や、近い形状の雲龍型が有名である。

なお、飛行甲板後端には、上空からの識別のために片仮名で「ヒ」の文字が記入されていた。

[編集] 艦歴

1939年7月5日、完成し、艦隊編入を待つ飛龍
ミッドウェー海戦で、敵機の爆撃を回避する飛龍。特徴である飛行甲板後部の”ヒ”の字が確認出来る。
同海戦で艦首部を破損した飛龍。ヨークタウンと差し違える形で致命傷を受けた。
炎上する飛龍。飛龍の最後の姿を映し出す有名な写真である。

1936年7月8日横須賀海軍工廠にて起工。1937年11月15日に進水し、1939年7月5日に竣工。

「飛龍」は「蒼龍」と共に山口多聞少将指揮の第二航空戦隊に配属され、第一航空戦隊の「赤城」、「加賀」と共に、1941年12月8日真珠湾攻撃に参加、同年12月21日22日には第2次ウェーク島攻略作戦に参加している。

1942年には、2月19日ポート・ダーウィン空襲へ、4月5日から4月9日にはセイロン沖海戦に参加、イギリス海軍空母「ハーミーズ」などを撃沈する。

6月5日ミッドウェー海戦に参加。同海戦では四空母のうち、他の三空母が爆撃を受け、行動不能となるなか唯一、爆撃を免れ、山口少将の指揮の下、アメリカ海軍空母「ヨークタウン」を大破させる。これは、友永丈市飛行隊長ら第二航空戦隊のパイロットの腕前の高さを証明した。しかしその後、残る「ホーネット」、「エンタープライズ艦載機の集中攻撃を受け、1,000ポンド爆弾4発を被弾、炎上し総員退艦が発せられる。

味方駆逐艦(第十駆逐隊の「巻雲」)により雷撃処分が試みられたものの、数時間後、山本五十六連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の小型空母「鳳翔」から偵察に飛来した九六式艦攻が、漂流する飛龍と大穴が穿たれた飛行甲板にたたずむ人影を発見し、帰艦後「飛龍に人影があり帽子を振っていた」と報告する。これをうけた長良艦上の南雲は、「谷風」に生存者の救出と処分を命ずるが、同艦は途中敵機の攻撃により現場到達へ遅延を生じ、飛龍も脱出した艇も発見することができなかった。なお、「鳳翔」艦攻が見た人影は、艦と運命を共にした山口司令と、加来止男艦長だといわれていたが、近年生還者の言により池田幸一三等機関兵曹、岡田伊勢吉三等整備兵の両名であることが判明している。慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。

ミッドウェー海戦時の飛龍に乗り組んでいた実員は不明だが、飛龍の定員は1,103名、第二航空戦隊司令部員が23名であった。飛龍の戦死者は山口司令官、加来艦長ら准士官以上29名、下士官兵387名の計416名とされたが、艦が放棄されてから沈没まで時間があったため、艦内に閉じこめられていた機関科員らが脱出に成功して漂流し、機関長ら34名がアメリカ軍の捕虜となった。彼らは総員退艦を知らされておらず、もぬけのからになった艦内を検索して初めて、自分たちが取り残されたまま自沈処置がとられたことを悟った。

また2度のヨークタウン攻撃で多くの損害を出した飛龍搭載機搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて72名に上り、同海戦で日本海軍が喪失した4空母中、群を抜き(赤城7名、加賀21名、蒼龍10名)[2]、日本空母中、最も勇戦した艦としてその名を残した。

1999年10月29日、アメリカの深海調査会社ノーティコスが、ミッドウェー沖の海底4800m付近で、本艦を発見したという。

飛龍からの真珠湾攻撃参加機
第一次攻撃隊
  • 九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:飛行隊長楠美正少佐、雷撃隊8機=指揮官:分隊長松村平太大尉)、零戦6機=指揮官:分隊長岡嶋清熊大尉
第二次攻撃隊
  • 九九式艦爆18機=指揮官:分隊長小林道雄大尉(発動機不調で引き返し不参加)、零戦9機=指揮官:分隊長能野澄夫大尉

[編集] 歴代艦長

[編集] 艤装員長

  1. (兼)城島高次 大佐:1938年8月10日 -
  2. 竹中龍造 大佐:1938年12月15日 -

[編集] 艦長

  1. 竹中龍造 大佐:1939年7月5日 -
  2. 横川市平 大佐:1939年11月15日 -
  3. 矢野志加三 大佐:1940年11月15日 -
  4. 加来止男 大佐:1941年9月5日 - 1942年6月6日戦死

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  1. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、1971年。
  2. ^ 澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』文藝春秋、1986年。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 『飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯』 碇 義朗著 光人社 1994年 ISBN 4-7698-0700-7
  • 『凡将山本五十六 烈将山口多聞』 生出寿著 徳間文庫 ISBN 4198922829

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年12月1日 (火) 13:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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