飯塚将光

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飯塚 将光(いいづか まさみつ、1950年昭和25年)2月7日 - )は、日本のオートレース選手栃木県生まれ、57歳。9期、船橋オートレース場所属。

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[編集] ミスター・オート

飯塚将光は「ミスター・オート」と讃えられる、広瀬登喜夫に次いでオートレースを語る上で避けることの出来ない人物である。

飯塚はトライアンフ(以下"トラ"と表記)がオートレースで席巻していた時代に最も強い選手として君臨した。トラは整備が大変複雑で、乗りこなすのもまた難しいというエンジンだった。実際、同期の篠崎実(9期、川口オートレース場所属)はトラには余り適応出来なかった。そんな中で、飯塚は3級車3年→2級車1年→1級車単気筒1年と最短ペースでトラに乗り替わったのである。そして、まるでトラの細かい癖までも熟知しているかのような整備と、トラのエンジンに最もマッチしていたとされる「外角走法」によって、飯塚は船橋はおろか、全国でも最強と言われる程の選手へと進化したのである。

飯塚のトラ時代の競走車呼名としては、「ホージョウ」が代表的であった。この「ホージョウ」という呼名は、元は飯塚の師匠であった須之内哲也(2期、故人。元船橋オートレース場所属)選手が「ホウジョウ」という呼名で使用していたもので、落車事故により半身不随の重傷を負い引退を余儀なくされた師匠からその「ホウジョウ」号を譲り受けたのがそもそもの始まりである。それ以前は「ガーファンクル」や「キャロル」という車名があったが、飯塚自身はこの北条早雲に代表される北条氏の「北条」に由来した「ホージョウ」という名を好み(当初は北条氏の事とは知らなかった)、「ベルホージョウ」や「ホージョウ25」というふうにアレンジを加え、現在も使用している。

[編集] フジ~セア時代のミスター

英国トライアンフ社の倒産に伴い、オートレース界でもトライアンフは部品に至るまで入手困難となった。そして、その間隙を縫ってデビューしたフジが主力の1級車二気筒エンジンとなると、飯塚もフジに乗り替えた。トラへのこだわりが全く無かったわけではないが、「フジでなければ勝てない」という状況に対応する為の選択でもあったといえよう。

フジに乗り替えた飯塚は当時の特別競走(現在のSG競走)の三大タイトルを全て制覇するなど、トラ時代程ではないが、素晴らしい活躍を見せた。しかし、競走車がセアに統一されてからは一度もSGを優勝していない。セアは若手選手であってもほとんど苦もなく乗りこなせるエンジンになっており、また、オートレースで勝つために必要な要素が次第に「強さ」から「速さ」へと移っていった。この高速化の流れに呑まれたかのように、セア一斉乗り換え以後、飯塚に全盛期の強靭な走りが見られなくなってしまったのである。

[編集] オープンレースでの強さ

オートレースでは、全選手が0メートルハンデ線から発走する競走を「オープンレース」と呼んでいる。全盛期の飯塚はスタートダッシュに定評があり、このオープンレースを得意としていた。それは、全レースがそのオープン戦で実施される日本選手権オートレースで歴代最多の6回の優勝を誇っていることからも容易に想像が付く。

逆に、ハンデレースでは常に1着という訳ではなく、しばしば取りこぼすことも当然ながら存在した。しかし、日頃からその強さを見知っているファンにとっては、ハンデが重くなった程度で飯塚が勝てなくなるという事は俄かには受け入れ難い事でもあったのだろう。いつしか、「飯塚はハンデをもらったときは(全力では)やらない。」という見方をするファンが増えていったとも言われる。しかしそれは、あくまでも観客の視点からの見方であることは言うまでもない。実際、飯塚は舗装路での最高ハンデであるハンデ110メートルを背負いながらも見事に1着を飾ったという実績が一度ならず存在する。

これは、如何に最強を謳われる選手であっても、百戦して百勝することは適わないという事の証左とも言えよう。

[編集] 日本選手権オートレース最多優勝・最多連続優出記録

日本選手権オートレースといえば、飯塚将光の代名詞の大会であるという人が少なくない。

1977・78・83・86・87・89年の計6回優勝の実績を破る選手は今なお出現していない。そして、日本選手権が今もなおオートレース界最高の栄誉を持つ大会と考えられていることから、飯塚のこの功績は、オートレース史を語る上において決して避けて通れぬ大偉業と言っても過言ではない。また、1980年の第12回大会から1992年の第24回大会まで、実に13年連続で優勝戦に進出し続けた記録も未だに破られていない(近年の選手では高橋貢の選手権4回制覇、池田政和の選手権8年連続優出が最も近い記録であると言える)。

飯塚が初めて同大会を優勝した1977年から1984年までの間、特別競走=SG競走は日本選手権のみであった。飯塚の現在までのSG優勝回数は9回だが、仮に現在のようにSG競走が豊富に実施されていたら、SG優勝回数歴代トップの片平巧(19期、船橋)をはるかに凌ぐ成績を残していたと語るファンも多い。

[編集] 獲得SGタイトル

[編集] 川口四天王との戦い

広瀬登喜夫阿部光雄且元滋紀、篠崎実の川口オートレース所属4人のことをかつては「川口四天王」と言った。飯塚は全盛時代、一時事実上の引退を強いられていた広瀬を除く3人と特別や記念で常に覇権を競い合った。

飯塚がSGを次々に制覇していった1977年~1992年の間に、阿部・且元・篠崎もそれぞれ2回ずつSGを優勝している。一見すると少ないように思われるが、上述の通り、特別競走の絶対数の少なさを考慮すると、阿部・且元・篠崎の優勝回数は飯塚に匹敵するものであり、当時の飯塚にとって最も大きな障壁の一つは、間違いなくこの3人だっただろう。

飯塚は、川口オートレース場で開催されたGIをいまだ優勝したことがなく(川口開催のGIIは過去2回優勝)、ある意味、オートレース界の「七不思議」と言える。だがそれは、川口四天王を中心とした川口所属選手のレベルの高さの証明であると言う事も出来る。

[編集] 幻のライバル

この「ミスター・オート」飯塚将光をして「雲の上の存在」と言わしめた選手がいる。それが、同期の梅村貴司美(9期、飯塚オートレース場所属)である。

元々9期は精鋭揃いの世代であった。飯塚以外にも且元滋紀や篠崎実、板橋忍(引退、元船橋オートレース場所属)などの俊英がひしめいていた。

その中にあって、梅村は彼らよりも更に頭一つ飛び抜けた選手であった。選手候補生時代に養成所で行われる模擬レースでは、梅村は常に飯塚よりも10mハンデが重いという程で、後年飯塚は梅村を「自分がどんなに努力しても勝てない、雲の上の存在」と評している。

そんな梅村であったが、1971年4月29日のデビュー戦でまさかの落車をしてしまい、殉職してしまった。健在であれば飯塚と共に間違いなく一時代を築いていたであろうと言われ、飯塚自身も「彼が生きていたら、自分はこんなにタイトルを獲れなかった」、「生きていれば、間違いなくオートレースの歴史を変える選手になっていた」と述懐している。

[編集] その他の実績

  • 通算勝利数
    • 1,344勝
  • 通算優勝回数
    • 142回
  • 最優秀選手賞
    • 4回(77・82・84・85年)
  • GI優勝記録
    • 27回(史上最多記録。また黒潮杯争奪戦は歴代最多の7回)
  • GII優勝記録
    • 8回
  • 年間最多獲得賞金
    • 9回(史上最多記録)
※上記SG優勝記録を含め、2007年4月6日現在の記録

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月1日 (土) 15:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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