養蚕業

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養蚕用竹かご
養蚕台

養蚕業(ようさんぎょう)はカイコ(蚕)を飼ってそのから生糸()を作る産業

養蚕業の歴史は古く、中国から他国に伝わったとされる。日本では弥生時代中国大陸から伝わったとされる[1]

養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する。繭を絹にするために製糸工場で繭から生糸へと加工され、生糸をさらに加工して絹織物などの繊維になる。現在日本では蚕を使ったタンパク質の生産の研究が主になっているが、培養細胞によるタンパク質の生産効率の高まりとともに、蚕を用いる優位性は下がってきている。

目次

[編集] 温暖育の発明と梁川の養蚕

[編集] 歴史

日本の養蚕業は、江戸時代から戦前にかけて全盛期を迎え、海外にも良質の生糸を大量に輸出した。特に戦前には、養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視された。こうした良質の生糸の大量生産をもたらしたのは、幕末の画期的養蚕技術の開発・発明である。

陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達郡と福島県伊達市)は江戸時代中期に天領となって以後養蚕が奨励された。蚕都として知られた伊達郡梁川(やながわ:現 福島県伊達市梁川町)では、中村善右衛門(1809-1880)が蚕当計を発明して安定的な養蚕の実現した。伝統的な養蚕は清涼育とよばれる自然の温度で蚕を飼育していた。幕末には人工的に温度や湿度を管理してを効率的に飼育しようとする温暖育が試みられるようになったが、勘と経験による不安定さを払拭できなかった。中村善右衛門は蘭方医の体温計をヒントに蚕当計(寒暖計の一種)を発明し、初めて温度・湿度を正確に管理する温暖育が可能になった。なお、天領の時代、梁川の生糸は江戸幕府指定品だった。

18世紀後半、日本の主要な蚕種産地は陸奥国信達地方(信夫郡伊達郡)と上野国長沢と下総国結城だったが、当時年間25万枚生産されていたという種紙(蚕の卵を付ける紙)のうち、18万枚は信達地方の生産だった。

温暖育と合理的な人工交配による養蚕業の効率化で大規模経営化が進んだ伊達郡一帯の養蚕業では、蚕種業(蚕の人工交配や卵の売買)、養蚕業(養蚕と繭の出荷)、製糸業などの分業化が進み、豪農が誕生し、各地から集まる買い付け人のための関連産業(旅館、娯楽施設)なども発展した。江戸時代後半には、さまざまな養蚕技術書がまとめられて、広く養蚕農家に普及し、品質向上に寄与している。また、養蚕研究と相まって、民間の学問や算術も盛んになった。但馬国養父郡(現兵庫県養父市)の養蚕研究家だった上垣守国は、但馬国での養蚕業発展のために毎年のように信達地方を訪れて研究し、その成果を「養蚕秘録」としてまとめた。養蚕秘録は養蚕指導書として広く普及し、シーボルトも帰国する際に持ち帰り、ヨーロッパでフランス語やイタリア語にも翻訳された。こうしてヨーロッパに紹介された養蚕技術書はフランスのパスツール研究所でもテキストとして使用され、特に交配技術は遺伝学研究の貴重な資料になったと言われる。

明治にはいると、養蚕景気をあてこんで信達地方には100以上の銀行が乱立し、日本銀行福島支店も設立された(福島支店は東北地方では初の日本銀行出先機関である)。

その後、梁川には大正3年に蚕業試験場が設立され、昭和42年には福島県農業短期大学校蚕業科(養蚕専門大学)も併設された。しかし、養蚕業の斜陽化とともに勢いを失い、昭和50年代後半には養蚕農家はほとんど廃業。農業短期大学校蚕業科も東アジアからの留学生受け入れが中心となり、平成元年には廃校となった。その後、蚕業試験場は福島県農業試験場梁川支場として整理され、さらに平成18年3月31日には閉場となった。梁川支場の蚕に関する研究は、平成18年4月に福島県郡山市日和田町に開所した福島県農業総合センターに引き継がれている。(同センターは福島県内各地の農業関係施設を整理統合している)

[編集] 現在

現在、梁川で養蚕農家は数軒しか残っていない。養蚕農家の多くは桑畑を果樹園に転作し、桃、りんご、あんぽ柿生産の果樹農家へと転身している。製糸業者はメリヤス(ニット)産業などに転業した。

2006年の時点で、旧梁川町を含む伊達市には15軒の農家が昔ながらの養蚕業を営んでおり、また400年来の手作りの製法で真綿を作っている工房がある。入金真綿(いりきんまわた)として市場に出荷されているこの製品は、全国で唯一現存する、機械を使わない完全手作りの高級真綿となっている。

こうした梁川を中心とする伊達郡の養蚕文化は、千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館でも第3展示室の民衆文化のコーナーに養蚕文化として常設展示している。国立歴史民俗博物館には中村善右衛門が発明した蚕当計のレプリカが展示されているが、福島県伊達市立梁川小学校にはその実物が現存する。

全国には梁川以外にも群馬県埼玉県和歌山県鳥取県熊本県など、各所に明治~昭和初期に養蚕景気にわいた地域があるが、いずれも、現在は衰退している。

[編集] 梁川の主な養蚕史

  • 正保2年(1645年)、このころに養蚕業が起こり、梁川では4のつく日と9のつく日に絹糸や真綿を売買する市が立つようになる。
  • 万治1年(1658年)、信達(信夫郡と伊達郡)の生糸は「登世糸」とよばれ、京に出荷されるようになる。
  • 宝暦7年(1757年)、幕府は蚕糸、蚕種に課役。
  • 明和6年(1769年)、このころから登世糸がさかんになる。
  • 安永2年(1773年)、伊達郡・信夫郡の17村が蚕種冥加金180両を幕府に上納し、奥州蚕種本場の銘(登録商標)を獲得する。
  • 寛政8年(1796年)、田口留兵衛が火蚕法(火力育温暖育)の研究を始める。このころ、伊達郡では蚕種の梁川、蚕糸の掛田、織機の川俣という分業が起きてくる。また、梁川に隣接する白根、山舟生(やまふにゅう)では種紙の生産がさかんになる。
  • 天保9年(1838年)、田口留兵衛が温暖育を完成させる。
  • 弘化4年(1847年)、梁川の中村善右衛門が蚕当計(養蚕用寒暖計)を発明。
  • 嘉永2年(1849年)、中村善右衛門が蚕当計秘訣を刊行。
  • 安政5年(1858年)、梁川の中井閑民が養蚕精義を刊行。
  • 文久1年(1861年)、「福島種(ふくしまだね)」と称する粗悪な偽種が市場に出回るようになり、悪種販売を防止するため、梁川の中村半三郎らが養蚕講を組織して蚕種銘鑑を刊行。

[編集] 脚注

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  1. ^ 埼玉県の養蚕・絹文化の継承について(埼玉県農林部生産振興課)

[編集] 関連項目


[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 13:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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