館山昌平

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館山 昌平
東京ヤクルトスワローズ #25
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県厚木市
生年月日 1981年3月17日(28歳)
身長
体重
181cm
93kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 2002年 ドラフト3巡目
初出場 2003年7月20日
年俸 1億1000万円(2010年)
経歴(括弧内は在籍年)

館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日- )は、プロ野球東京ヤクルトスワローズに所属する投手である。

目次

[編集] プレイスタイル

プロ入り後にサイドスロースリークォーターと言われることもある)に転向。以前は最速153km/h、常時145km/h前後の速球シュートを中心とした組み立てであったが[1]、2008年頃からフォークボール、 縦と横に変化する2種類のカットボールを習得し、成績が向上した[1]。他にスライダーナックルカーブシンカーも投げることが出来る。コントロールが良く、多彩な球種を同じ投球フォームで投げることが出来る[1]。また、先発、中継ぎの両方の役割を担うことができる器用さを持つため起用法の一定しない時期もあったが、自身は「便利屋さんが僕の生きる道」とも語っている[1]。近年は先発に定着。安定感のある投球で高い勝率を残し、右のエースとしてチームを支えている。

投手でありながら打撃へのこだわりもあり、2009年の球団公式プロフィールでは「打率1割!」と宣言している[2]。過去の打率は低いものの2005年10月11日横浜戦では、門倉健からセンターへの2点タイムリーヒットを含む2安打を放っている。

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

日大藤沢高に在学し、横浜高松坂大輔(現レッドソックス)と度々投げあいを演じた。1997年秋の神奈川県大会決勝では0-9で横浜高校相手に敗退。関東大会決勝で再び横浜高校の松坂と対戦し、延長10回まで投げ抜いて、0-1で敗戦投手となった。1998年春のセンバツに出場、準決勝で久保康友(現阪神)のいた関大一高と対戦し、6回から3回無失点の好リリーフを見せるも3-5で敗戦。同年春の関東大会決勝で三度横浜高の松坂と投げ合い、延長13回150球超を投げながらも、0-1で敗戦投手となった。夏の県大会はベスト4どまりで、夏の甲子園出場は叶わなかった[3]

その後日大に進学し、エースとして活躍。同期に村田修一(現横浜)、堤内健(元横浜)、大野隆治(元ソフトバンク)がいる。2001年の3年時には、東都六大学の春季大会の優勝に貢献。日本代表にも選ばれ、ワールドカップに出場。2002年ドラフト3巡目でヤクルトに指名され入団。

[編集] プロ入り後

2003年

7月に初めて一軍に昇格すると、7月20日に7点差負けの9回に初登板。先発陣が手薄だった事もあり、8月から先発ローテーションに定着。以降9度先発して0勝3敗と、好投を続けたものの勝ち星に恵まれなかった。

2004年

先発ローテーションの一員として期待されたが、キャンプ中に右肘の靭帯を断裂。3月に手術を受け、以降リハビリのため二軍のマウンドにも立てずにシーズン終了。

2005年

4月に一軍復帰すると、4月27日にプロ初勝利を挙げる。7月30日甲子園での阪神戦で完封勝利(被安打4・無四球)。一年間ローテーションを守り、10勝を挙げる。10月に3歳年上の女性と結婚。右手薬指と小指の感覚が鈍いという理由で11月に右肘の再手術を受けた[4]

2006年

前年オフに手術した影響から開幕に間に合わず、5月に一軍復帰後に5度先発するものの、計23失点で1勝3敗と結果を残せなかった。しかし中継ぎ転向後は徐々に安定感を取り戻し、6月27日にはプロ入り初セーブを記録。9月には抑えも任される。最終的には自己最多の44試合に登板。

2007年

開幕当初は中継ぎとして好投。5月からは先発、7月末から抑えと度々配置転換が行われた。しかし先発で好投しても援護に恵まれず、また抑え転向後も救援失敗も多く、最終的に防御率3.12でありながら12敗(3勝5S)を喫した。7月から翌年4月にかけて自身9連敗も記録。ただ、一度も二軍に降格することなくシーズンを通して一軍の戦力として貢献した。オフの契約更改では、母方の祖父が作成した、球団公式ホームページやスポーツ新聞の記事をパソコンで打ち直し、細かい試合経過や意見が添えられた、ルーズリーフ約200ページに及ぶ「07年館山昌平データ」を持参し、3時間半に及ぶ交渉を行った。その結果、球団取締役から「前例がなく評価が難しかったが、数字にはあらわれない部分が多かった」と評価され、当初の提示額より300万多い、1600万アップ(推定年俸6200万)となった[5]

2008年

シーズンを通して先発ローテーションを務めた。開幕直後こそ出遅れたが、打線の援護にも恵まれ、勝ち星を量産。約2ヶ月勝ち星に見放されている時期もあったが、最終的に12勝を挙げ、自身初のタイトルである最優秀勝率投手を獲得。防御率も自己最高の2.99を記録。オールスターゲームにも初出場。オフの契約更改では年俸1億円の3年契約(総額3億円)を結んだ。

2009年

千葉県館山市の「スポーツ大使」に就任した。(同市が同じ名前であることにちなんで、館山にオファーを出し、それを快諾したもの)[6]。 4月28日の中日戦で4年ぶりの無四球完投勝利(被安打7、失点1)。5月28日のオリックス戦で2008年8月から続く連勝を12に伸ばし、57〜58年の金田正一による球団記録を51年ぶりに更新した。6月26日の巨人戦で7失点を喫し連勝が14で止まったが、「負けない男」としてたびたびスポーツ新聞をにぎわせた。7月22日の阪神戦で4年ぶりの完封勝利。昨年に続けて2度目のオールスターに出場した。 後半戦は8月にマメをつぶして1度登録抹消となったが、それ以外は年間通してローテーションを守り、10月8日の阪神戦(神宮)で完封勝利し、16勝目を挙げ、セ・リーグ最多勝のタイトルを初受賞。チームが借金1でシーズンを終えた中、館山1人で貯金10を稼ぎ、ヤクルト球団初のクライマックス・シリーズ出場に大きく貢献した。

[編集] 人物

  • 小学校の同級生に横浜ベイスターズ三橋直樹がおり、野球を始めたのも三橋に誘われたからと語っている。
  • 球団きっての理論派で知られる。2009年7月の阪神戦(甲子園)では、完封勝利を挙げながらも11安打を打たれたことであまり喜びの表情を見せず、試合終了直後にはヒーローインタビューの誘いを受けながらもベンチで捕手の相川亮二と数分にわたって投球内容の確認を行うこともあった。
  • ポケモンファンであり、好きなポケモンはボーマンダである。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
2003 ヤクルト 10 9 0 0 0 0 3 0 -- .000 208 50.1 51 11 10 1 3 37 0 0 29 29 5.19 1.21
2005 25 25 1 1 1 10 6 0 0 .625 622 150.1 151 14 28 4 4 105 1 0 70 66 3.95 1.19
2006 44 6 0 0 0 2 5 5 16 .286 359 79.2 98 7 21 6 8 61 2 0 41 35 3.95 1.49
2007 45 15 2 0 0 3 12 5 5 .200 558 127.2 129 14 39 6 10 115 5 0 57 45 3.17 1.32
2008 24 24 0 0 0 12 3 0 0 .800 628 153.1 137 13 31 1 7 99 5 0 54 51 2.99 1.10
2009 27 27 5 2 2 16 6 0 0 .727 798 188.1 195 20 45 2 11 126 2 0 77 71 3.39 1.27
通算:6年 175 106 8 3 3 43 35 10 21 .551 3173 749.2 761 79 174 20 43 543 15 0 328 297 3.57 1.25
  • 2009年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 25 (2003年 - )

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

投手記録
打撃記録

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ テレビ朝日『GET Sports』「プロ野球は死なず 東京ヤクルトスワローズ 館山昌平」2009年6月28日
  2. ^ 25館山昌平 東京ヤクルトスワローズ公式サイト
  3. ^ 1998年5月20日のこの試合を、後に松坂は「ベストゲーム」に選んでいる。
  4. ^ 館山投手、右ヒジを手術東京ヤクルトスワローズ 過去のニュース
  5. ^ 燕・館山が1600万円増でサイン サンスポ(Internet Archive)
  6. ^ 館山 館山市の大使に/スポニチ Sponichi Annex ニュース


最終更新 2009年12月1日 (火) 08:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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