館林城
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館林城 (群馬県) |
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本丸跡
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| 通称 | 尾曳城 |
| 城郭構造 | 梯郭連郭複合式平城 |
| 天守構造 | なし(三階櫓で代用、非現存) |
| 築城主 | 伝・赤井照光 |
| 築城年 | 15世紀 |
| 主な改修者 | 榊原康政 |
| 主な城主 | 赤井氏、榊原氏、松平氏、徳川氏ほか |
| 廃城年 | 1874年 |
| 遺構 | 曲輪、土塁、復元門 |
| 指定文化財 | 史跡 |
| 位置 | 北緯36度14分39.25秒 東経139度32分28.8秒 |
館林城(たてばやしじょう)は群馬県館林市にある戦国時代から江戸時代の城である。
目次 |
[編集] 概要
尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされるが、徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 室町時代
- 築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
- 「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというもの。
[編集] 戦国時代
- その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となった。
[編集] 江戸時代
- 江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
[編集] 近現代
[編集] 歴代城主
家名、説明、藩主名、在任期間、石高
- 4代将軍徳川家綱の弟綱吉が10万石の加増を受け25万石で入封した。延宝8年(1680年)に綱吉が家綱の養子になって5代将軍になると、その子徳松が家督を継いだが、天和3年(1683年)に徳松が急死すると廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されている。
- 松平武雅の跡を養子武元が継いだが、武元が家督を相続した日に陸奥棚倉へ転封になり、同地から太田資晴が5万石で入封した。若年寄の太田資晴は享保19年(1734年)に大坂城代となり、そのため館林領は再度天領となり、城番を置いた。元文5年(1740年)、太田資晴の子資俊が5万石で入封するも、延享3年(1746年)に遠江掛川に転封となった。
- 太田資俊の後は陸奥棚倉より松平武元が5万4千石で入封した。松平武元は明和6年(1769年)に7千石の加増を受けて6万1千石となった。武元の後は、武寛、斉厚と続いて、斉厚は天保七年(1836年)に石見浜田へ転封となった。
- 井上正春の後は、出羽山形から秋元志朝が6万石で入封した。秋元志朝は、文久2年(1862年)に雄略天皇陵の修復に着手する。元治元年(1864年)に養子の礼朝が襲封する。礼朝は戊辰戦争時、新政府軍に加担、関東・東北方面の戦争に部隊を派遣した。館林藩は明治3年(1870年)に廃藩して館林県となった。
[編集] 構造
城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突き出す形の低台地に、本丸(子ども科学館南側)、二の丸(現在は市役所)、三の丸(現在は文化会館)、八幡郭(くるわ)、南郭を置き、これらを取り囲むように稲荷郭、外郭、惣郭を構え、さらにその西方に城下町を配置し、それらを土塁と堀によって囲んでいた。
[編集] 土橋門
土橋門は、昭和58年(1983年)、城下町・館林のシンボルとして城壁とともに復元された。 この門は、城の中心部に通じる三の丸に設けられ、千貫門(せんがんもん)に対し、通用門として使われた。「土橋門」という名前の由来は、門前の内堀に架けられた「土橋」からきたと言われている。また、防御用に黒色の鉄板が打ち付けられており、地元では「黒門」とも呼んでいる。
[編集] 千貫門跡
千貫門は三の丸の北面中央にあった、城内にある重要な門の1つ。その形態は渡櫓門で、土橋門が通用口であるのに対して武士の正門とされていた。
左上のレリーフは、館林出身の版画家・藤牧義夫の作品『山岳画集』に収められているもので、尾曳神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる。
[編集] 大手門
大手門は、現在の三角公園(大手町)の東北隅にあって、東側の侍屋敷、西側の城下町を隔てていた。ここから東へ約400メートルにわたり通称「大名小路」と呼ばれる大路が伸び、広小路、千貫門へと続いた。現在では、土塁や濠などは姿を消し、大手門跡碑が残されているのみである。


