香川氏

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香川氏(かがわし、かがわうじ)は、日本の氏族桓武平氏鎌倉権五郎景政を祖とする武家の一族が著名である。主たる家系としては次の2流がある。

  • 安芸香川氏
  • 讃岐香川氏

目次

[編集] 安芸香川氏

相模国を本貫地とする一族で、鎌倉経高が相模国香川(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)を支配して以降、香川氏を称したのに始まる。この経景は1221年承久3年)に起こった承久の乱の功により安芸国地頭職を得て、その子景光の代になって安芸国へ移住して八木城を築き、本拠とした。戦国時代初期には安芸武田氏に従ったが、安芸武田氏は大内氏や毛利氏との戦いによって勢力を衰えさせた。当時の香川氏当主・香川光景は最後まで安芸武田氏を支えたものの、家中の争いにより離反して毛利氏に従った。

その後光景は、毛利氏の家臣として活躍し、毛利水軍の一角(川内水軍)も担い、多くの戦にも参加した。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に移封されると、香川氏嫡流は岩国領吉川氏の家老職を務めた。

香川氏の一族であった香川正矩は、主家の命もあり『陰徳記』を記した。その次男の香川景継は、1673年(延宝元年)京に出て「宣阿」と名乗り、『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』として出版した。宣阿は武士を捨て、歌人として京に在住するようになり、「梅月堂」と称して公家徳大寺家に仕え、歌人として生きた。また、その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出して、明治を迎えた。

吉川家の家老として生きた宣阿の兄・正経(正恒)は、現在も岩国に残る「香川家長屋門」を建てた。幕末に近い頃、その子孫に香川景晃を出して、藩政を支え、明治を迎えた。

[編集] 系図

香川氏の正確な系図は不明であり、あくまでも参考としての記載に留める

鎌倉景政
  ┃
(5代?略)
  ┃
香川経景(安芸に所領を得る)
  ┃
 (8代?略)
 方景
   ┃
 吉景
  ┣━━┓
 行景 元景
  ┏━━╋━━┳━━┳━━┓
 光景 元正 就親 政俊 勝雄
  ┣━━┳━━┓
 広景 春継 学澄
  ┃  ┣━━┓
 就景 家景 家継
     │  ┃
    正矩 正矩 
     ┣━━┓
     正経 景継
               ┃
       景新
               ┃
       景平
               │
       景柄
               ├──┬──┐
       景樹 景欽 景嗣
               ┃
       景恒
               ┃
       景敏

[編集] 関連項目

[編集] 讃岐香川氏

讃岐国西部を本貫地とする武家。鎌倉権五郎景政を祖とする。香川直系の家紋は、巴九曜(桓武平氏良茂流)。相模の香川氏(桓武平氏良文流と称する鎌倉党の鎌倉権六郎景秀の後裔)、権六郎景秀(鎌倉権五郎景政の子、または孫(子の景継の子)景政の弟の3説)権六郎景秀の後は、相模介家政が高座郡にあった大庭荘の香川村(現茅ヶ崎市北部の大字)に住み、地名に因み香川権大夫と号した。南北朝時代以降細川氏に従い、白峰合戦での戦功により安富氏とともに讃岐国に入部。代々守護代をつとめ、応仁の乱で活躍し、細川四天王の一に数えられるようになる。その後、讃岐国内で勢力を広げ、戦国時代には讃岐国の西部の大半を支配するほどであった。毛利元就織田信長長宗我部元親と周囲の有力勢力に次々と接近し、所領の確保に努めたが、豊臣秀吉が行った四国征伐の際改易となった。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月3日 (火) 04:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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