香港返還
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香港返還(ほんこんへんかん)とは、1997年6月30日から7月1日にかけて行われた、イギリスより、イギリスが「清国から香港の主権を継承した」と認めた中華人民共和国への香港統治権の返還である。
[編集] 概要
イギリスから中華人民共和国への返還により香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任した。旧香港政庁の機構と公務員は特別行政区政府へ移行した。ただし、駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中華人民共和国から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。
中国語や英語の項目では、「香港主権移交(Transfer of the sovereignty of Hong Kong)」とされている。しかし、清からイギリスに割譲され、イギリスの領土となったために「再譲渡」となった香港島と違い、新界は租借地であるため、返還以前も主権は中華人民共和国(イギリスが中華人民共和国の中国共産党政府を承認する1950年以前は中華民国)側にあった。
中華人民共和国当局は「新界に限らず、香港全域がイギリスに占領された中華人民共和国領土である」と国連脱植民地化委員会においても主張した。そのため、「香港主権移交(Transfer of the sovereignty of Hong Kong)」という呼称は、「返還」された中華人民共和国側から見ると正確と言えないという意見もある。中華人民共和国と香港民衆は「香港回帰」という用語を好む。また、イギリス側から見た言い方の場合の英表記は、「Handover(引き渡し)」と表記されている。
[編集] 香港返還の背景事情
香港返還が実現した背景を理解するには、まず香港がイギリスにより植民地化された経緯を知る必要がある。まず、最初に香港島が、1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)により当時の清朝からイギリスに割譲された。さらに、1860年の北京条約(第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。この2地域が割譲地(イギリス領)である。一方、新界は1898年の香港領域拡大協約により、99年間の租借が決まった。当初は割譲地の防衛に必要な緩衝地帯と考えられていたが、この租借期限が切れる1997年が結果的に香港返還の時期を定めてしまった。
1970年代、香港政庁は住宅供給のため、中華人民共和国の領土である新界にも開発の手を伸ばした。だが、1970年代後半になると香港の不動産業者は、1997年の租借期限以後の土地権利について不安を訴えた。そのため、香港政庁は自身が公有地の土地放出を重要な収入源としており、不動産業の停滞を防ぐ意味からも、新界の統治権を確定する必要があると考えた。
そこで、1979年、香港総督として初めて北京を訪問したマクレホース総督は、中華人民共和国側に協議を提案した。だが、中華人民共和国側は「いずれ香港を回収する」と表明するにとどまり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は中華人民共和国側に「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年9月にはマーガレット・サッチャー首相が訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。
サッチャー首相はイギリスが引き続き香港を管理できるよう求めていたが、中華人民共和国は「港人治港」を要求してこれに応じず、鄧小平はサッチャー首相にイギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。中華人民共和国側の態度は当初、定まっていなかったと言われる。だが、イギリス側が統治権の継続を強く主張しすぎたため、中華人民共和国側は香港に対する主権を強く主張せざるを得なくなったといわれている。その結果、鄧小平は「遅くとも1997年までには、力づくでも香港を回収する」と発言したのであると言われている。
1984年12月19日に、英中双方が署名した中英共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。この中で中華人民共和国政府は鄧小平が提示した「一国両制」政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。この発表は共産党の一党独裁国家である中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年5月15日 (金) 00:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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