馮玉祥
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| 馮玉祥 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1882年11月6日[1] |
| 死去: | 1948年9月1日 黒海 |
| 出身地: | |
| 職業: | 軍人 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 馮玉祥 |
| 簡体字: | 冯玉祥 |
| 拼音: | Féng Yùxiáng |
| 和名表記: | ふう ぎょくしょう |
| 発音転記: | フォン ユーシャン |
馮玉祥(ふうぎょくしょう)は中華民国の軍人。北京政府に属し、当初は直隷派であったが、後に国民軍を組織し、その指導者となった。後に五原誓師を行って、全軍で中国国民党に加入し、国民革命軍(国民政府)に参加している。旧名は基善。字は煥章。祖籍は安徽省巣県(現在の現在の巣湖市)。
[編集] 経歴
若くして軍隊に入り、袁世凱の北洋新軍の中で順調に昇進、袁の死後は段祺瑞の安徽派軍閥に属して旅団長となる。段と孫文の対立が深まると、和平を唱える直隷派へ次第に接近を強め、安直戦争で段が敗れると、直隷派に転じて曹錕、呉佩孚のもとでの北京政権に参画した。第二次奉直戦争では1924年10月、張作霖の奉天派に呼応して、直隷派を裏切って北京で反乱を起こす。曹錕を幽閉し、また清朝の元皇帝溥儀を紫禁城から追放し、国民軍を組織。さらには張作霖と謀って孫文、段祺瑞を北京に迎えて政権の樹立を画策し、段は臨時政府執政に就くが、孫文は1925年初頭、北京で没する。
馮は張家口に本拠を置き、ソ連の援助を受けながら北京・察哈爾・綏遠 を勢力下に置き、自らの軍を国民軍と称した。 1925年10月、張作霖の子張学良の部将・郭松齢をそそのかして反張軍を起こさせたが敗れ、翌1926年3月ソ連に逃れ同地で国民党に入党。 同年9月に帰国し、北伐軍に呼応して陝西から河南に進軍、北伐軍の分裂後は蒋介石に属して第2集団軍総司令となった。
北伐完了後は蒋と次第に対立し、1929・30年と二度にわたって反蒋軍を起こしたが、何れも敗れて野に下った。
満州事変後に国民党に復帰。中央執行委員・軍事委員会副委員長・国民最高会議委員などを歴任。 クリスチャン・ゼネラルと呼ばれ、詩文を愛し自らも「丘八詩」と呼ぶ口語詩を書いた。日中戦争時期には中華全国文芸界抗敵協会成立に協力し、物心両面から支えた。
1946年訪米して、改めて反蒋の立場を明確にし、帰国の命令にも応じなかったため、1948年国民党を追放される。同年、ニューヨークからソ連船でオデッサに向う途中、船の火災により黒海で死亡した。
なお、妻の李徳全も政治家で、中国紅十字会会長などを務めた。
[編集] 注釈
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