高山外国人避暑地
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高山外国人避暑地(たかやまがいこくじんひしょち)、または、高山国際村(たかやまこくさいむら)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜字高山にある太平洋に面した外国人専用避暑地。仙台市都心部から見て北東に接する仙塩地区にあり、明治時代に、仙台在住のアメリカ人宣教師らによって、仙台湾および松島を望む高台につくられた。
外国人により「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と称され、「日本三大外国人避暑地」の1つとされる[1]。
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[編集] 概要
高山外国人避暑地は、表浜(通称:外人浜。高山海水浴場がある)を挟んで西側の「高山」と東側の「遠山」の2つの地区からなり、高山ビーチカンパニーによって管理されている。面積は約3万坪で、現在46棟の家屋が建つ。明治期からの家屋は数棟のみで、ほとんどが建て替えられた。当地に別荘を所有する外国人は、夏の1ヶ月間はそこに住まなければならないというルールがあると言われるが、本居として長年住んでいる者もいるため、「高山外国人居住区」と呼ばれる場合もある。
避暑のために7月中旬から8月下旬にかけて当地を訪れる外国人は、当初は学校の教師や宣教師等であったが、戦前の最盛期には各国の在日大使館員等が多くなり[2]、また、上海・香港・広東からも宣教師等が避暑に訪れて300人以上の人々が集まった[3]。近年は一般の欧米人、特に北欧人が多いといわれ[2]、日本各地やアメリカなどから多い時には80人程度の国籍も教派も異なる外国人が集って来る。
なお、周辺の浜辺は、夏でも波が穏やかであるため、海水浴場やサーフスポットとして日本人も利用する様になり、特に菖蒲田浜は宮城県内では最も利用客の多い海水浴場となっている。また、高山外国人避暑地に隣接する高台に七ヶ浜国際村が建設され、様々な国際交流の場として利用されている。
[編集] 特徴
「日本三大外国人避暑地」の内、軽井沢と野尻湖は現在非常に有名となり、日本人も利用する様になって夏季には混雑し、静かに避暑を楽しむことが困難になっている。また、軽井沢と野尻湖は地価も上がった結果、軽井沢では外国人のみが住む避暑地はなくなった。
高山の場合は、戦前からの組織である高山ビーチカンパニーが戦前の慣習を踏襲して現在も当地を管理しているため、前2者とは異なる歴史が続いている。外国人のみに所有が限定され、転売の際も高山ビーチカンパニーを通して外国人限定でなされているため、地価上昇や乱開発から逃れてきた。
一時期、町おこしのために町で開発する計画が持ち上がったが、それまでの開発抑制によって明治期の七ヶ浜の自然が残り、かつ、良好な外国人との隣人関係がある当地を保護したいと考えた当時の町長により開発は見送られた。現在も私有地にあたるため、通常、関係者以外は立ち入り禁止であるが、年に数回の地元の人との交流会が続けられている。
[編集] 歴史
1887年(明治20年)12月15日に、日本鉄道本線(現在のJR東北本線)が東京府下谷区(現東京都台東区)の上野駅から宮城県仙台区(現仙台市)の仙台駅を経て塩竈駅(のちの塩釜線・塩釜埠頭駅。現在の塩釜駅とは異なる)まで開通した。これにより、塩釜港から松島を経て石巻港へと繋がる航路「松島海道」に東京や仙台からの鉄道が接続することになるが、塩竈駅に近い当地への東京や仙台からのアクセスも容易になった。
- 1888年(明治21年)、仙台区の(旧制)第二高等学校(後に東北大学に合流)の教師F.W.ハーレルがハンティングのために現七ヶ浜町域を訪れ、避暑地として見出す。同年、隣接する菖蒲田浜が、日本で3番目の海水浴場として開場した。
- 1889年(明治22年)、仙台市の東北学院大学院長のD.B.シュネーダー博士らに、花渕浜の高山地区を別荘用地として10年契約で貸し付ける(シュネーダーらの日本人の友人の名義で契約)。仙台在住のアメリカ人宣教師により、7棟の別荘が建てられた。なお、この年は町村制施行で七ヶ浜村(人口4,157人)が誕生した年でもある。また、仙台側と七ヶ浜を分ける貞山運河が再整備されて運河幅が広げられたため、大代に有料の浮橋が設置された[4]。
- 1890年(明治23年)、アメリカ合衆国のバービー商会から西洋野菜の種子を購入し、栽培を始めた。ズッキーニ、ビーツ、ルバーブ、セロリ、パセリ、ラズベリーなどが栽培され、東北地方で最初の西洋野菜栽培例と考えられている。
- 1907年(明治40年)、4人の外国人に対し、高山地区の地上権を満999年間に渡って与える約束を交わした(計算上2906年まで。現在も有効な契約)。地上権料は1154円。別荘地全体の管理運営のため、高山ビーチカンパニー(高山開墾合資会社)が設立される。この後、避暑客や住民が増えるにつれ、土地が追加されていった。
- 1917年(大正6年)、乳牛飼育のため、シュネーダー博士が花渕浜金色に牛舎を建てた。
- 1925年(大正14年)6月5日、宮城電気鉄道(現JR仙石線)・多賀城駅が開業。
- 1932年(昭和7年)8月1日、宮城電気鉄道(現JR仙石線)・下馬駅が開業。
- 1941年(昭和16年)11月、七ヶ浜村が高山ビーチカンパニーの管理地を6万円(当時の村の年間経常費5万円の1.2倍の額)で買収する仮契約を同社と結んだ。
- 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。
- 1942年(昭和17年)2月、シンガポール陥落に際し、七ヶ浜村長を先頭に村民が大挙として当地に押し寄せ、3本の松の木に各々等身大のローズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中華民国総統の絵を巻き付け、銃剣で突いては万歳を叫ぶという事件が発生した[3]。
- 1942年(昭和17年)3月、高山ビーチカンパニーの管理地買収に関する本契約が結ばれた。
- 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦終戦(9月2日降伏文書署名)。連合国軍による日本占領が始まり、仙台にも連合国軍(主にアメリカ軍)が進駐した。松島では松島パークホテルが接収された。
- 1948年(昭和23年)、仙台に進駐した連合国軍が、高山地区や周辺の浜辺などを接収。海水浴のための脱衣所、シャワー室、休憩室など数棟を建てた。
- 1951年(昭和26年)、連合国軍最高司令官総司令部・民間財産管理局 (CPC) により、売却は不当と判断される。村はインフレーションを鑑みて時価での返却を大蔵省に陳情したが、6万円しか支払れなかった(ほぼ接収と同等)。
- 1952年(昭和27年)、高山ビーチカンパニーに不動産等の権利が返却された。
- 1993年(平成5年)、高山外国人避暑地に隣接する高台に七ヶ浜国際村がオープンした。
[編集] 施設
- サカモトストア
- 教会
[編集] 周辺
[編集] その他
- 以前は、周辺の日本人住民から当避暑地は「外人部落」、外国人避暑客は「高山外人」とも呼ばれた[3]。ただし、東北地方で部落は集落という意味であり、差別的な意味あいは無い(部落問題#地域較差参照)。また、外国人避暑客に対する差別も無かったという[3]。
[編集] 脚注・出典
- 仙台学 vol.3(別冊東北学編集室)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年10月11日 (日) 08:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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