高松宮

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高松宮家
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本姓
家祖 高松宮宣仁親王
大正天皇の第 3皇子)
種別 皇族宮家
出身地 東京都
主な根拠地 東京都
著名な人物
支流、分家
凡例 / Category:日本の氏族
正面口

高松宮(たかまつのみや)は、かつて存在した日本皇室宮家で、大正天皇直宮家のひとつ。

目次

[編集] 概要

1913年大正2年)7月6日創設。伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のなかでは、もっとも創設時期が古い。ただ、有栖川宮家の祭祀を継承していることから、宮家としての伝統はさらに遡るとも言える。

[編集] 歴史

「高松宮」の号は、有栖川宮家の旧称であった。有栖川宮家の最後の当主威仁親王が、嗣子栽仁王に先立たれたまま1913年に薨去したが、大正天皇の特旨により、第3皇子宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承した。皇室典範では皇族の養子縁組が禁じられていたため、宣仁親王は有栖川宮そのものを相続するのではなく新たな宮家を創設したうえで、有栖川宮の祭祀や土地などの資産、そして一部の旧臣を継承するという形がとられ、宮号には有栖川宮にゆかりの「高松宮」が与えられた。

宣仁親王は、徳川慶喜の孫娘であり、威仁親王の外孫でもある徳川喜久子と結婚したが、夫妻の間に子はなかった。

[編集] 断絶

1987年昭和62年)2月3日宣仁親王、また2004年平成16年)12月18日には喜久子妃がそれぞれ薨去し、断絶となった。

[編集] 宮邸

高輪皇族邸(旧高松宮邸)の正門アップ
玄関及び車寄せ

東京都港区高輪一丁目に屋敷があり、同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷であった(大石良雄外十六人忠烈の跡を参照)。戦前は隣接する港区立高松中学校や都営高輪アパートも宮邸敷地の一部であり、終戦後に払い下げられた。また、残った区域内にあった本館は、戦後に結婚式場「光輪閣」として改装のうえ一般開放され、宣仁親王夫妻は別に小さな木造平屋の邸宅を建て、そこに居住した。光輪閣はかつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史が支配人を務めていたが、1972年に取り壊された。その後、光輪閣跡地に再び平屋建の宮邸本館が落成し、2004年に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用されていた。またかつては夏になると、宮邸の庭にあったプールが近隣の子供たちに開放されていた。

現在、邸宅および庭園は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。また、かつて払い下げられた土地の一部には高級マンションが建設され、一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居している。この事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている。


[編集] 関連項目


最終更新 2009年10月25日 (日) 17:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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