高柳秀樹
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| 中日ドラゴンズ コーチ #88 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 茨城県鹿島郡鉾田町(現・鉾田市) |
| 生年月日 | 1957年3月1日(52歳) |
| 身長 体重 |
178cm 87kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1979年7月4日 |
| 最終出場 | 1990年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は、茨城県鹿島郡鉾田町(現・鉾田市)出身の、南海ホークス・福岡ダイエーホークスに所属した元プロ野球選手(外野手)。現在は中日ドラゴンズで二軍打撃コーチを務めている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
[編集] プロ入り後
1978年オフのドラフト会議で南海の1位指名を受けて入団、1年目シーズンから一軍出場を果たし、1983年には一軍に定着し初本塁打も放った。 現役時代の応援歌(前奏部分)は秀樹つながりで西城秀樹の『情熱の嵐』だった。
1984年に巨人に移籍した「左殺し」の異名を持つ山本雅夫に代わる右の代打として期待された。高柳はそれに応え、対左投手専門ではあるものの、一軍の中軸打者としての地歩を固めた。1985年から1987年には、左投手を苦手としていた門田博光に代わって4番をつとめたこともあった。南海最末期の苦しいチームを支えた選手のひとりである。しかし、1990年に田淵幸一が監督に就任すると出場機会は激減し、1991年限りで現役を引退した。
[編集] 引退後
翌1992年からは2年間古巣・ダイエーの二軍打撃コーチ、育成コーチを務めて1995年から1年間台湾・三商の打撃コーチ、1999年に再びダイエーの二軍打撃コーチに復帰、2000年にフロント入りする。2003年からはロッテの打撃兼外野守備走塁コーチを1年、調査役を1年務めた後、2005年に中日に二軍打撃コーチとして入団。2008年には二軍の試合中に選手に対して「死ねっ」と発言したと東京スポーツの記事になった。
[編集] 通算成績
- 出場試合 592
- 打数 1149
- 安打 286
- 打率 .249
- 本塁打 48
- 打点 177
[編集] 背番号
- 23(1979年~1991年)
- 88(1992年~1994年)
- 75(1995年~1996年)
- 74(1999年~2000年、2002年)
- 89(2003年)
- 88(2005年~)
[編集] 関連項目
- 茨城県出身の人物一覧
- 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
- 宅和本司 - 宅和が台湾・三商の監督に就任する際高柳を日本人コーチとして招聘した。
- 左キラー - 高柳は「左殺し」の異名をとった典型的な左キラーバッターである。
- 中野誠吾 - 同期で南海ホークスにドラフト外入団した外野手。
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最終更新 2009年8月6日 (木) 10:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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