高橋慶彦
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| 本来の表記は「髙橋慶彦」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
| 千葉ロッテマリーンズ コーチ #87 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出身地 | 北海道芦別市 |
| 生年月日 | 1957年3月13日(52歳) |
| 身長 体重 |
176cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投両打 |
| 守備位置 | 遊撃手 |
| プロ入り | 1974年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1976年4月7日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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髙橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )は、日本北海道芦別市出身の元プロ野球選手。現在は千葉ロッテマリーンズ一軍打撃コーチである。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 現役時代
芦別にある旧三井鉱山の炭坑街で生まれ、4歳の時に東京都清瀬市に移り住む。
1974年、城西高のエース・4番として、3年時の夏の甲子園に東東京代表として出場した。この時の試合で披露した走塁が、広島東洋カープのスカウト・木庭教の目に留まり、同年ドラフト3位で入団、間もなく打者に転向。ジョー・ルーツ監督の指令でスイッチヒッターとなるべく、山本一義打撃コーチと共に猛特訓を開始。1978年からレギュラーに定着した。
1970年代後半~1980年代の赤ヘル黄金時代に、1番打者として活躍した。ルーツの後を継いだ古葉竹識監督の下、「赤ヘル機動力野球の申し子」として3度の盗塁王を獲得。1979年には33試合連続安打の日本記録を打ち立てると、同年の日本シリーズでは全7試合で安打し、打率.444を記録、MVPに輝いた。全盛期は福本豊の後継者とまで謳われ、その打撃・走塁スタイルは、山崎隆造や正田耕三ら後の広島を支えることになる後輩達にも強い影響を与えた。
山崎が頭角を現してからは主に1番高橋・2番山崎として、さらに正田が台頭してからは自身の長打力も開花し、1番正田・2番山崎・3番高橋と俊足のスイッチヒッタートリオで上位打線を形成した。
1983年にさらなる高みを目指し、広島に臨時コーチで来た山内一弘のレベルスイングを取り入れ、本塁打を20本台へと増加させる。一方で1985年以降打率が下降し、フォーム改造・本塁打増との因果関係も囁かれた(高橋本人は否定)。1987年には開幕2日前に催された激励会を「時期が悪い」とボイコットして球団との関係が悪化、また同ポジションの野村謙二郎の入団・台頭もあって1989年オフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使とともにロッテへ移籍した。
ロッテでは金田正一監督の下、外野手としての活躍が期待されていたが、既に全盛を過ぎており思うような成績を挙げることができず、翌1990年オフに遠山奬志とのトレードで阪神タイガースへ移籍。しかし成績は前年よりも悪化し、さらに翌1992年には久慈照嘉の入団により出場の機会が激減、その年限りで現役を引退した。
[編集] 引退後
引退後はアール・エフ・ラジオ日本野球評論家を経て、1995年から1997年まで福岡ダイエーホークスの打撃・走塁コーチを務めた。現役時代から仲の悪かった達川光男バッテリーコーチと、ベンチ内の選手もいる前で2度も取っ組み合いのケンカをするなどして王貞治監督を困らせたが、村松有人や浜名千広ら、後のホークスを支える若手を育成した。
1998年からはKBC九州朝日放送の解説者を務める傍ら、フジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』にて、ガーナでの野球の普及活動に力を注いだ。
2000年から2003年までスポーツニッポン(福岡)評論家を務めた後、2004年シーズン途中にロッテの一・二軍巡回コーチに招聘された。2005年より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である西岡剛を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。2008年から2009年は一軍打撃コーチを務め、2010年には二軍監督に就任することが決定した[1]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1975 | 広島 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1976 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | ||
| 1977 | 58 | 130 | 23 | 38 | 6 | 2 | 0 | 48 | 6 | 14 | 9 | 33 | .292 | .369 | .338 | .707 | ||
| 1978 | 2 | 110 | 427 | 72 | 129 | 19 | 10 | 7 | 189 | 47 | 15 | 43 | 46 | .302 | .443 | .366 | .809 | |
| 1979 | 120 | 490 | 86 | 149 | 22 | 7 | 5 | 200 | 33 | 55 | 43 | 56 | .304 | .408 | .360 | .768 | ||
| 1980 | 130 | 550 | 68 | 169 | 24 | 11 | 5 | 230 | 33 | 38 | 36 | 51 | .307 | .418 | .350 | .768 | ||
| 1981 | 111 | 460 | 72 | 133 | 23 | 4 | 5 | 179 | 31 | 14 | 25 | 38 | .289 | .389 | .326 | .715 | ||
| 1982 | 130 | 546 | 75 | 147 | 20 | 5 | 6 | 195 | 27 | 43 | 36 | 66 | .269 | .357 | .314 | .671 | ||
| 1983 | 124 | 465 | 91 | 142 | 23 | 3 | 24 | 243 | 58 | 70 | 57 | 64 | .305 | .523 | .381 | .904 | ||
| 1984 | 126 | 495 | 97 | 150 | 23 | 4 | 23 | 250 | 71 | 30 | 47 | 79 | .303 | .505 | .363 | .868 | ||
| 1985 | 130 | 533 | 96 | 147 | 10 | 2 | 24 | 233 | 68 | 73 | 57 | 89 | .276 | .437 | .346 | .783 | ||
| 1986 | 130 | 552 | 88 | 157 | 33 | 2 | 21 | 257 | 55 | 39 | 24 | 91 | .284 | .466 | .314 | .780 | ||
| 1987 | 118 | 462 | 65 | 130 | 21 | 2 | 11 | 188 | 53 | 28 | 42 | 61 | .281 | .407 | .341 | .748 | ||
| 1988 | 127 | 499 | 58 | 119 | 24 | 3 | 11 | 182 | 43 | 32 | 34 | 54 | .238 | .365 | .287 | .652 | ||
| 1989 | 127 | 491 | 63 | 131 | 21 | 0 | 12 | 188 | 47 | 13 | 40 | 59 | .267 | .383 | .322 | .705 | ||
| 1990 | ロッテ | 5 | 100 | 261 | 33 | 54 | 6 | 2 | 9 | 91 | 28 | 7 | 23 | 41 | .207 | .349 | .271 | .620 |
| 1991 | 阪神 | 2 | 57 | 126 | 14 | 26 | 4 | 0 | 0 | 30 | 2 | 6 | 10 | 17 | .206 | .238 | .265 | .503 |
| 1992 | 19 | 23 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 3 | 4 | .217 | .261 | .308 | .569 | ||
| 通算 | 1722 | 6510 | 1003 | 1826 | 280 | 57 | 163 | 2709 | 604 | 477 | 529 | 849 | .280 | .416 | .335 | .751 | ||
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 背番号
- 40 (1975年 - 1977年)
- 2 (1978年 - 1989年、1991年 - 1992年)
- 5 (1990年)
- 85 (1995年 - 1996年)
- 72 (1997年)
- 87 (2004年 - )
[編集] 個人記録
[編集] タイトル・表彰・記録
- 盗塁王 3回(1979年、1980年、1985年)
- ベストナイン 5回(1978年~1980年、1983年、1986年)
- 月間MVP 1回(1979年7月)
- 日本シリーズMVP 1回(1979年)
- 日本シリーズ優秀選手賞 1回(1984年)
- 日本シリーズ3試合連続盗塁(1984年) ※シリーズ記録。
- 33試合連続安打(1979年6月6日~7月31日) ※日本記録。
- 11試合連続得点(1982年6月8日~6月22日)
- 8試合連続盗塁(1983年5月26日~6月4日)
- 6試合連続盗塁2回(1979年6月17日~6月23日、1986年10月5日~10月12日)
- 1試合4盗塁2回(1982年5月30日、1983年4月30日)
- 通算初回先頭打者本塁打34本(表13本、裏21本) ※歴代3位。
- セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打32本(表12本、裏20本) ※歴代2位。
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1989年6月4日~6月6日)
- 開幕戦初回先頭打者本塁打(1989年4月8日)
- 左右両打席本塁打(1983年4月26日)
- シーズン20本塁打以上・70盗塁以上2回(1983年、1985年) ※史上唯一。
- 初回先頭から3者連続本塁打(1989年6月4日 1番高橋、2番正田耕三、3番ウェイド・ロードン)
- オールスター出場 6回(1979年、1980年、1983年~1986年)
[編集] 記録達成歴
- 1984年8月7日:通算1000本安打達成。
- 1985年7月6日:通算300盗塁達成。
- 1985年8月20日:通算1000試合出場達成。(257人目)
- 1986年4月8日:通算100本塁打達成。
- 1987年6月25日:通算400盗塁達成。
- 1988年4月23日:通算1500本安打達成(1304試合での達成は歴代6位)
- 1989年8月8日:通算1500試合出場達成。
[編集] ディスコグラフィー
- 君の声が聞こえる(1980年発売)
- うわさのセクシークイーン(1981年発売)
- 僕の世界へ(1982年発売)
- 鏡の中のメモリー(1982年発売)
- ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
[編集] 過去の出演番組
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本)
- 象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日)
- ゴールデンナイター・プロ野球中継(KBCテレビ)
- KBCジャンボナイター(KBCラジオ)
- 夢空間スポーツ(FBS福岡放送)
- 高橋慶彦のスポーツ一番(KBCラジオ)
- スーパーワイド(TBSテレビ)
- 笑っていいとも! - (テレフォンショッキング、ゲスト・フジテレビ)1983年12月5日初登場。
[編集] エピソード
[編集] 選手として
高橋は、スイッチヒッターでありながら打率3割を5度、20本塁打以上を4度記録し、33試合連続安打という日本記録まで樹立した。この成功により、一躍日本球界にスイッチヒッターの有効性が知れ渡ることとなり、後進に計り知れない影響を及ぼした。スイッチヒッター転向時、山本一義打撃コーチと行った猛特訓では、朝から晩までバットを振り続け、食事時や寝る時もバットを手離さず、これで体を壊さないのが不思議なほどだと言われていた。その結果、まだ器具を使った筋力トレーニングが取り入りられていない時代に、野球の練習だけでボディビルダーさながらの強靭な肉体を作り上げることに成功した。
1984年の日本シリーズでは1番打者として、打率.500(通算30打数15安打)、1本塁打、3打点、3盗塁(3試合連続盗塁のシリーズ記録)、8得点と自身がMVPを受賞した1979年の日本シリーズ以上の成績を残し、チームの日本一に貢献したが、長嶋清幸が打率.333、3本塁打、10打点という活躍を見せたため、惜しくも高橋はMVPには選ばれなかった(優秀選手賞には選出されている)。
通算477盗塁は歴代5位の記録だが、盗塁死も多く、通算206盗塁死は福本豊の299盗塁死に次いで歴代2位であり、広島・阪神時代に記録した通算202盗塁死はセ・リーグ記録である。また、1983年には70盗塁を記録するものの、28盗塁死を喫してしまい、シーズン盗塁死のセ・リーグ記録も持っている。
後楽園球場の電光掲示板では、選手名が「高橋ょ」と表示されていた。これは、当時の後楽園球場の掲示板はドットが粗く、画数の多い「慶」の字が表示できなかったための窮余の策であった(のちに「高橋慶」の表示が可能となった)。
[編集] 人物像
広島においては数少ない、全国区の知名度を持った選手であった。小説家・村上龍が高橋をモデルに書いた『走れ!タカハシ』はベストセラーとなり[2]、また自身の発売した『君の声がきこえる』『うわさのセクシークイーン』などのレコードは、5万枚の売り上げ記録している。
人なつっこく明るい性格で、交友範囲が広かった。秋野暢子が高橋を弟のように可愛がっていたた(ただし秋野と高橋は同学年)。またビートたけしや浜田省吾など、仕事で広島に訪れる有名人を「今日飲みましょう」と誘い、広島の歓楽街・流川で飲み歩く姿が度々目撃されていた。ビートたけしと島田洋七が漫才ブームで儲けて、憧れの"銀座で飲む!"と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋に紹介してもらった店に行ったという(『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』島田洋七、徳間書店、2007年9月)。
昼は真っ赤なポルシェを乗り回し、夜はトルコ風呂をハシゴするなど、遊び人としても有名で、叶和貴子など芸能人とも浮き名を流していた。そのため「夜も盗塁王」などと揶揄されたこともある。板東英二の著書によると、叶和貴子に「逢いにきて」と夜にラブコールをされた高橋は、飛行機や新幹線にまだ東京行きの便がある時間にもかかわらず、真っ赤なポルシェで広島から高速道路で東京まで駆けつけたという。また大の電話魔で、常に10円玉を大量に携帯し(まだテレホンカードもなかった時代のため)、そのためポケットにしょっちゅう穴が空いていたという。板東英二の著書では、広島で1年間ヘッドコーチをしたドン・ブレイザーの娘に電話攻勢をかけたり、ハワイ・キャンプの間に電話代を200万円使ったこともあると記されている。しかし、2007年12月16日のRKBラジオ「池田親興のまんてんサンデー」に出演した際、番組内でこれが間違っていると指摘した。まず広島がハワイでキャンプをしていないことを挙げ、200万も否定。ハワイではなくフロリダから、シンディではなく日本人の女の子に電話したとのことである。結婚直後には女子大生との浮気が写真週刊誌に報道された。その後、浮気相手の女子大生は、高崎慶子の名前でピンク映画やAVに出演した。
その一方で、上記のスイッチヒッター転向のエピソードにもうかがえるように「練習の虫」と名づけられるほどの努力家でもあった。足を故障したときも、バッターボックスに椅子を置き、それに座ってフリーバッティングをしていた、付き合っている女性のマンションにバットを持ち込んで夜中に素振りを繰り返していた、など、枚挙に暇がない。
一言居士な気質で、若手の頃から首脳陣や先輩にも臆することしなく堂々と意見をぶつけていた。後年現役時代を振り返り、「自分は減らず口ばかり叩いてきたから、ベテランになれば出されるのは覚悟していた」と語っている。また、当時の大下剛史守備走塁コーチから一方的な誤解による鉄拳制裁を受けて(1982年〜1983年ごろ)大下との関係が悪化し、それが1989年オフのロッテ移籍の要因のひとつになったとも言われている(高橋本人は否定)。この影響かどうかは不明だが、KBC解説者時代も、テレビ朝日系列全国中継への出演はなかった(当時キー局・テレビ朝日の解説者に大下がいた。但し、タレントとしてはテレビ朝日制作番組への出演はあった)[3]。
江夏から若い時の自分に性格が似ていると言われたことがあり、「生意気で目上の人にも臆さずものを言うから(トレードに)出されたけど、なんでもハイハイ言うてる性格ならお互いプロでここまで活躍できてないのじゃないか」と言われたときはなるほどと納得したという。
1995年9月16日の日本ハム戦で死球に激怒し捕手の坊西浩嗣に殴りかかったロブ・デューシーへ向かって飛び蹴りをしたことがある。
2007年7月17日のロッテ対オリックス戦でオリックスのタフィ・ローズが里崎智也に暴行を加え乱闘になった際、オリックス打撃コーチのジョン・ディーバスと激しくやり合い、退場処分を受けている。
[編集] 引退後のカープとの関係
広島での現役時代には様々な問題を抱えていたが、決して広島が嫌いなわけではなく、セ・パ交流戦での広島市民球場での試合後には、バスがホテルに向かう直前までバスの窓から広島ファンにひたすらサインを続けていた。また、解説者・タレント時代は在広放送局の番組(特にRCC・tss)への出演もあったほか、ホークス戦の解説でも「広島式の練習方法をホークスも取り入れてみてはどうか」と提案することもあった。本人は「広島に(コーチとして)復帰したい気持ちがあるが(松田元)オーナーと喧嘩をしたので無理でしょう」と語っている。2006年12月8日、二宮清純が主宰するシンポジウム「東京カープ会」にゲストとして参加。古葉監督時代の広島の様子や、遊撃手として居合わせた「江夏の21球」の裏話などを披露した。
2008年12月6日、同年度で閉鎖となる広島市民球場で行われた「カープOBオールスターゲーム」では19年ぶりに赤いユニフォームに袖を通し、1番遊撃手で先発出場して3安打1盗塁で最優秀選手に選ばれた。その際「僕は引退試合をしていない。ファンのみなさんのおかげで、今日は僕にとっての引退試合になった」とコメントした。スタンドから現役当時同様に「ヨシヒコ」コールを浴び、「帰って来い!」という声があちこちから聞こえた。打席では捕手の達川と笑顔で談笑する場面もあった。
2008年12月9日放送の「報道ステーション」では長嶋一茂と共に市民球場内を巡り、「この球場に育ててもらった」「古葉監督は優しかったけど怖い部分もあった」「江夏さんは優しかった」など思い出を語った。
[編集] その他
- 阪神在籍時代の1992年3月28日藤井寺球場の近鉄バファローズとのオープン戦で、始球式で山田雅人にボールをぶつけられてしまう。また同年5月に発表された前年の高額納税者リスト(長者番付)のプロ野球選手部門で上位にランク入りしたが、これは、広島で所有していた不動産をロッテ移籍によって売却して得られた収入の納税によるものが多かったためである(時あたかもバブル期であった)。
- 現役引退後、フジテレビ系「夢がMORIMORI」で、広島の後輩である佐々岡真司や町田公二郎(共に同時在籍経験なし)と一緒にキックベースに挑戦し、見事番組レギュラー陣に勝利している。
- 俳優・歌手の高橋良明・高橋知秀兄弟は従弟。しかし良明・友秀兄弟は共に若くして交通事故に遭い、兄の良明はわずか16歳で死去、弟の友秀は事故後活動は休止状態となっている。
- 高橋のロッテ時代の応援歌は広島時代の「カープ」を「ロッテ」に変更しただけでほぼそのまま流用された。
[編集] 脚注
- ^ 時事通信社. "ロッテ、西村新監督の就任発表". 2009年10月8日 閲覧。 記事内で高橋の二軍監督就任も発表されている。
- ^ 後年、大森一樹監督によって映画化されたときにはすでに高橋が現役を引退していたため、人物をイチローに変更し『走れ!イチロー』として制作された。
- ^ 後任の西村龍次はテレビ朝日にも出演している。
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月7日 (土) 16:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【高橋慶彦】変更履歴

